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2013/05/26

中原中也記念館は、とても親切だった


ムック「世界の大天才」、もうじき発売

 ここ1か月半ほど、6月初めに発売されるムック「世界の大天才」(徳間書店)の執筆に多くの時間を割いていた。

 取り上げた世界の天才は、50人を超えている。

 「単なる偉人伝を書くだけなら誰でもかける」
 などと、いつも偉そうなことをいっている手前、「ほかの本とは違って面白いね」といわれるものをと常に意識して書いたつもりだ。
 
 表紙は、アインシュタインが「アカンベー」をしている写真なので、目立つと思うが、私はこれにはノータッチ。版元と編プロが協議して決めた。
 
 アカンベー写真は、アインシュタインが記者の取材を受けたときに「笑ってください」といわれ、サービス精神を発揮して、車の窓を開けて「アカンベー」をしたというエピソードが残っている。

 アインシュタイン本人も、その写真をえらく気に入り、「焼き増して自分にもくれ」とその記者に頼んだというから、ユーモアがわかる人だったのだろう。


中原中也は30歳で死んだ

 先週末に、そのムックのなかの詩人中原中也のことを書いた個所に関して、編集者から最終確認があった。

 中原中也は夭折の詩人だ。
 明治40年(1907年)に山口県で生まれ、昭和12年(1937年)に鎌倉で死んだ。
 享年30歳。

 中原中也を「世界の大天才」としたわけではない。
 フランスの象徴派の詩人であるボードレール、ベルレーヌ、ランボーの3人の天才を、同じ詩人である中原中也がどう見ていたかということを書いたのだ。
 
 私が、第三者的に3人を評論したり解説したりするより、中原中也という詩人の目を通して、3人はどう違っていたのかを書いた方が面白いと考えたからだ。


妙な文章のように見えるが、それで正しい昔の文章

 中原中也は、明治生まれの人。
 だから、現代人の目には句読点が妙だと感じる個所が結構ある。
 かなづかいでは「だった」とせずに「だつた」としている。
 
 編集者から確認されたのは、中原中也の『小詩論』から引用した以下の個所だ。

 「ヴェルレエヌには自分のことは何にもわからなかつた。彼には生きることだけが、即ち見ることだけがあつた。それが皺となつたその皺は彼の詩の通りに無理のないものだつた。」

 編集者からの問い合わせは、
 「それが皺となったその皺は彼の詩の通りに無理のないものだつた」ではなく、
 「それが皺となった。その皺は……」ではないかというものだった。

 そんな指摘を受けるとはおもってもいなかったので驚いたが、もし私が句読点を入れ忘れたとしたら、句点(。)ではなく、読点(、)のほうになるだろうが、その場合、次の2通りが考えられる。

 「それが皺となった、その皺は彼の詩の通りに無理のないものだつた」
 「それが皺となったその皺は、彼の詩の通りに無理のないものだつた」

 しかし、読み点を入れて文章を読んでみると、言葉のニュアンスが違ってきて、文章として味がなくなる。

 私が参考にし引用した本には句読点はないが、「もしかすると誤植かもしれない」と思い、念のために山口県の 「中原中也記念館」に問い合わせ、中原中也の生原稿に当たってもらうことにした。

 突然のことなので、「少し時間をください」といわれたり、断られたりしても仕方がないと思ったが、電話に出た記念館の女性は受話器をおくと、すぐに原文にあたってくださった。

 その結果、句読点は一切入っていないということが確認できた。
 とてもありがたいと思った。

 読者は、著者がそんなことまでやっているとは思わず、さっと読んでいくのが普通だ。
 

パソコンが普及してお粗末なケアレスミスが増えた

 パソコンになってよくやるミスが、誤変換ミスと数字の打鍵ミス。
 
 情けない話だが、6を入力したつもりが、その上の9を間違って押すというようなミスを、私は数えきれないくらい犯している。

 手書きの文章では、100%ありえないケアレスミスが、パソコンでは起こるから怖い。

 上記の中也の文章のなかの「詩」が「誌」になっていて、初稿のチェック時に気づいたが、これも手書きではおこりえないミスだ。

 パソコンで怖いのは、自分ではきちんと書いたつもりでいるので、校正時に気づかないことも多く、これも怖い。

 一冊の本を何人もの編集者や校閲者が時間を入念にチェックするのだが、それでも見落としがあって、誤記・誤植ゼロという具合にはいかないのが本である。


「桑名の駅」と題した中原中也の詩

 中原中也の未完詩のなかに、「桑名駅」と題する詩がある。

 桑名駅は、三重県桑名市にある。
 NHK大河ドラマ「八重の桜」の会津藩の藩主・松平容保の弟が藩主を務めた桑名藩があったところだ。
 会津藩とともに最後まで幕府軍として抵抗したため、明治維新後も薩長藩閥政府から徹底的に憎まれ、産業が発展しなかった。

 桑名は、私の母の実家があるところで、私が生まれた町でもある。


 桑名の駅   中原中也

 桑名の駅は暗かつた。
 蛙がコロコロ鳴いてゐた
 夜更の駅には駅長が
 綺麗な砂利を敷き詰めた
 プラットホームに只(ただ)独り
 ランプを持つて立つてゐた

 桑名の夜は暗かつた。
 蛙がコロコロ泣いてゐた    ※ここのみ、「鳴く」ではなく、「泣く」となっている
 焼蛤貝(やきはまぐり)の桑名とは
 此処(ここ)のことかと思つたから
 駅長さんに訊ねたら
 さうだと言って笑つてた

 桑名の夜は暗かつた
 蛙がコロコロ鳴いてた
 大雨の、霽(あが)つたばかりのその夜(よる)は
 風もなければ暗かつた
  
                  (一九三五・八・一二)
 「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪間普通のため、臨時関西線を運転す」

 今から77年前に書かれた詩である。亡くなる2年前だ。
 中原中也は、この年の3月に吐血している。
 
 中原中也の注記から知れるのは、郷里の山口(山口県吉敷郡山口町/現山口市湯田温泉)から上京する途中で東海道線が不通になり、関西本線による振り替え輸送が行われ、夜中に桑名駅に停車したらしいということだ。

 もうじき91歳の誕生日を迎える私の母は、そのとき桑名で暮らしていて、13歳の少女だったと考えると、隔世の感がある。

(城島明彦)


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