吉田松陰の教育論が日本を変える――教え子を差別せず、対話重視の教育
「八重の桜」第5回の「松陰の遺言」
番組案内では、2月3日の「八重の桜」は「松陰の遺言」となっている。
松陰の遺書は、処刑前に牢獄で書いた「留魂録」で、辞世の句は、江戸送りになるときに詠んだ次の歌だ。
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
死に臨む松陰の心境は、生前に髙杉晋作に送った手紙の文面から推測できる。
死は好むべきに非ず(あら)ず、
亦(また)悪(にく)むべきにも非ず、
道尽(つ)き心安(やすん)ずる、
便(すなわ)ち、是(こ)れ死所(しにどころ)
(死は求めるべきものでもなく、避けるものでもない。人として道を成し遂げたら気持ちが落ち着く。これが死というものだ)
「日本の教育再生」には、吉田松陰の教育論がベスト
萩藩の下級藩士吉田松陰は、優れた兵法学者・思想家・教育者だった。
松陰の思想は、江戸時代以降の日本人に指示されてきた「赤穂義士」と通じるものがある。
「赤穂浪士」の映画やドラマで、大石内蔵助が吉良邸に討ち入る合図として山鹿流陣太鼓(やまがりゅうじんだいこ)を打ち鳴らす場面が出てくるが、吉田松陰の家系は代々や山鹿素行を祖とする「山鹿流兵学」の師範だった。
松陰の思想には先見性があったが、幕藩体制を揺るがすその過激な思想を危険とみた大老井伊直弼は、反対勢力の大弾圧「安政の大獄」を敢行、松陰は30歳で斬首された。
しかし、彼の遺志は「松下村塾」の教え子たちが継ぎ、明治維新を断行する思想的バックボーンとなった。
日本の初代総理大臣・伊藤博文は松陰の教え子・弟子だったことだけ見ても、そのことがよくわかる。
松陰は「自分の目で見て確かめる」ことを第一とした
松陰は、藩主毛利敬親に具申した文書で、「至誠」について言及し、「中庸」の文言を引用し、こう記した。
「一に曰く実じつ)なり。二に曰く一(いつ)なり。三に曰く久(きゅう)なり」
(人が「誠」を実現するには、「実行」「専一」「継続」が大事であります)
①有限実行。
②一つのことをトコトンやるべきだが、やることに筋が通り、ぶれないこと。
③成果が出るまで、やり続けること。
それには、単なる耳学問ではなく、「自分の目で実際に見て確かめなければならない」という考えが、松陰にはあった。
だからこそ、当時「国禁」とされていた海外渡航を企て、それが原因で処刑されることになるのだ。
人は長く生きればいいというものではない
吉田松陰が髙杉晋作に送った手紙に、次の一文がある。
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。
自分が死ぬことによって志が達成できるのなら、いつ死んでも構わない。
生きていることで大きなことが実現する可能性があるのなら、生きていればよい
人の命には限りがある。若くして死のうが、年おいて死のうが関係ない。
どれだけのことをやったかという満足度の問題である。
こう拡大解釈できる。
今こそ「松陰の教育論」が必要
吉田松陰は、「日本史上屈指の教育者」といってよいだろう。
私塾「松下村塾」で教えたが、その期間はきわめて短かった。
にもかかわらず、髙杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文ら、日本の近代化に多大な貢献をしたたくさんの偉人を輩出した。
その理由は、学んだ期間は短くても、「教えのなかに共鳴させるもの」があり、学んだ者の以後の思想形成・人格形成に多大な影響を及ぼしたからだ
松陰の教育の特徴は「ともに学ぶ」
松陰の特徴は、次のようなものだった。
①松陰の教え子には幼い者も混じっていたが、「子どもだから」という扱いはせず、青年たちと一緒に議論させた。
わからないことがあってもいい。成長すれば、やがて自然にわかる時期がくる。
雰囲気が大事で、難しいことはわかる範囲でわかればいいという考え方だ。
②吉田松陰は、教え子を「諸友」と呼び、教師との間に身分的な上下関係や垣根を設けなかった。
先生も生徒も一緒になって考えることが、教育の基本と松陰は思っていたのだ。
③「自分以外は皆、師」であり、学ぶことに貪欲であれと教えた
教えるだけでなく、自らそれを実践していた。たとえば、萩から江戸へ旅行しても、まっすぐに江戸へは行かず、途中の町や村に居住する著名な学者を訪れて、議論をし、自分の知らない蔵書を見せてもらったりして、見聞を広めた。
④勉強は継続することに意義がある。
松陰は20代半ばのときに獄舎にぶち込まれたたが、そこにいた囚人に呼びかけて孟子の講義をした。そのときにいった言葉を後で『講孟余話』という本にまとめ、次のようにいっている。
「学問の大禁忌(だいきんひ)は作輟(さくてつ)なり」
(よくない勉強法とは、やったりやらなかったりすること。勉強は継続することが大事だ)
⑤「ほめ上手」で、子どもの「やる気」を引き出した。
松陰は、「誰にも一つや二つは得手がある」
といって、一人ひとりの子どもの「いいところ」を見つけて褒め、「やる気」を引き出して隠れた才能を伸ばす教育をした。
⑥教え子が旅立つときは、心のこもった送辞を贈って鼓舞した。
私が好きな送辞は、入江杉蔵(いりえすぎぞう)に送った文だ。
「杉蔵往(ゆ)け。月白く風清し、飄然(ひょうぜん)として馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦(ふ)すべし」
短いが心がこもっている。それより何より、死というより仲のよい「友人」の送る言葉になっているところがいい。
まだまだあるが、いまはこのへんでやめておく。
松陰のユーモアセンス
教え子の一人が描いた肖像画を見ると、吉田松陰は年齢よりはるかに老けた顔をし、気難しそうに見えるが、ユーモアを解した。
松陰というのは晩年の「号」で、この号とともに彼が好んで使ったのが、「二十一回猛士」という奇妙な号だ。
その号は、夢のお告げによる。これは、一休さんのトンチのようなもの(その説明は、ここでは省く)。
吉田松陰の「吉田」は養子に入った家の姓で、生まれた家の姓は「杉」。
杉寅太郎。これが幼名。
その後、名を改め、寅次郎とした。NHK大河ドラマ「八重の桜」では、寅次郎で登場した。
吉田松陰自身によれば、
「名前は寅次郎で虎に通じるが、自分は生来、弱々しい人間。寅の威でも借りて『猛々しい士』とでもするしかない」
というのだ。
松陰に関心のある人は、次の本にもっと詳しく書いているので、そちらをどうぞ。
(城島明彦)
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