わが青春の大島渚――大島渚にあこがれて助監督になった青春の日々
あの世へ旅立った大島渚と「松竹ヌーベルバーグ」
大島渚の訃報に接して、真っ先に頭に浮かんだのは、昭和30年代半ばの日本である。
あの頃の日本は、どこもかしこも貧しかったが、不思議な熱気があった。
映画は、そんな時代の娯楽であり、文化だった。
東宝、松竹、東映、大映、日活が毎週2本立ての映画をやっていた。
フランスで「ヌーベルバーグ」(と呼ばれる新しい映画がつくられ、世界中で話題になった。
その新しい波は日本にも押し寄せ、当時、大手映画会社の若い助監督連中はその洗礼をもろに受けた。
助監督から監督に昇進するには、書いた脚本を本社の社長なり映画担当役員が認めてくれることだった。
松竹では、5社の先陣を切って新しい波に乗ってみようと判断し、助監督を次々と監督に昇進させた。
その旗手として登場したのが大島渚で、1959年の「愛と希望の街」で監督デビューした。
光るものを持った作品だった。これはDVDになっている。
私は、大島渚というまるで芸名のような美しい名前の響きにまずひかれ、彼の若さにも関心をもった。
「イオン」発祥の地のミニシアター
大島渚が注目されたのは、第2弾の「青春残酷物語」だ。
この作品は興行的にも大ヒットした。
私は当時、中学生で小遣いが少なく、封切館では見れず、一年ぐらい遅れて、四日市駅前の「岡田屋」(現イオン。本社があった店)の2階だったか3階だったかにあった(今風にいうと)ミニシアターで見た。
50人も観客が入ると満席になる小さな劇場。そこが、私の「思春期の別世界」だった。
最初、ニュース映画のみを上映する映画館(「ニュース館」と呼んでいた)としてつくられたが、2本立ての劇映画を上映する〝3番館〟に変更したので、小遣いをためて土曜日に学校が終わった帰り道に寄って見ていた。
3番館のいいところは、東宝映画も松竹映画も日活映画も一緒に見られることだった。洋画も上映し、「天地創造」はここで見た。
黒澤明の「用心棒」や彼の弟子にあたる堀川弘通の「青い野獣」などは、中学時代にここで見た。
日本映画史に残る傑作「青春残酷物語」
「青春残酷物語」は、川津裕介、桑野みゆきがよかった。
その後、ビデオやDVDで何度も見たが、これは戦後日本映画史に残る傑作である。
大島作品で「青春残酷物語」の次に私が好きなのは、第3弾の「太陽の墓場」だ。
当時〝新人類〟と騒がれた炎加世子が主演に抜擢され、話題を呼んだ。
大阪のドヤ街を舞台にした猥雑なストーリーだが、斬新な内容で、色彩がすごい。撮影監督は名カメラマンの川又昴である。
20代半ばの新人監督大島渚が成功したので、松竹の首脳は、斬新な手法のシナリオを書ける篠田正浩、吉田喜重らの若手助監督を年功序列を無視して次々と抜擢した。
そうした情報を私は立ち読みした映画雑誌や新聞の映画欄の記事から得ていたのだった。
山田洋次は、才人ではあっても、オーソドックスなシナリオしか書かなかったという理由で注目されなかったという事情を後になって知った。。
しかし、監督昇進2年目の大島は「日本夜と霧」(1960年)を撮るが、安保反対の反体制派学生たちの政治思想をテーマにしたことから松竹首脳陣の逆鱗に触れ、松竹を辞めてフリーになった。
主演クラスの女優と結婚
大島ら松竹の若手助監督は、20代で映画監督に抜擢されただけでなく、当時の松竹の人気若手女優をも嫁にした。
大島渚は小山明子、吉田喜重は岡田茉莉子、篠田正浩は岩下志麻を嫁にし、その嫁を主演に使った映画を次々と撮った。
外国でも、ロジェ・バディムが愛人ブリジット・バルドーを主演にした映画を撮るなどしていたことから、その頃の私は、若くして映画監督になり、女優と結婚し、自分の思い描く世界を演じてもらいたいなどと、バカなことを考えるようになった。
映画雑誌の立ち読み
私は、中学校からの帰りに頻繁に駅近くにあった2軒の本屋に立ち寄り、何時間もかけて何種類もの映画雑誌をむさぼり読んでは映画への憧れを強くしていた。
春休み、夏休み、冬休みが来ると、母の実家である桑名市へ出かけた。
そこには、2人の従姉妹が購読している「平凡」「明星」といった雑誌が置いてあり、私はそれらを読んだ。
高校時代は本屋と映画館のスチール写真のはしご
高校生になると勉強が忙しくなり、映画を見る時間がなくなったが、1週間で上映映画が変わると、住んでいた四日市市内の8つある映画館をはしごした。
といっても、映画を見るのではなく、映画館の前に客寄せのために展示してあるスチール写真を見物して回り、それらの写真から映画のストーリーを想像して楽しんでいたのだ。
京都の叔母が時々送ってくれる日活の株主優待券を使って、妹と一緒に吉永小百合が主演する映画などを見に行った。
その頃になると、映画現場を知りもしないのに、「このアングルで取ると、よくない」などと偉そうなことを考えるようになっていた。
気に食わなかった早稲田の映研
大学生になったときは、早稲田の映研(映画研究会)部を訪ねたが、この部は過激派の根城だったことから「お前、どこから来た」といわれたのに嫌気がさして、入部を断念した。
(私の知人に早稲田の〝シナ研〟(シナリオ研究会)出身者がおり、彼の話を聞いて私が訪ねたのもそこだと勘違いしていたが、よく考えて見れば、「映画」という字にひかれて私が訪ねたのは「映研」だった。何しろ半世紀近くも昔のことである)
当時の大学生のほとんどは、映画を論じていた。
その時代の大島渚は、「悦楽」(1967年)「日本春歌考」(1968年)「絞首刑」(1968年)「新宿泥棒日記」(1969年)といった作品をつくっていた。
それらの作品は、新宿の伊勢丹の向かいにあった「アートシアターギルド」で上映され、見にいったが、頭でっかちな作品としか私には思えなかった。
東宝の映画助監督
1970年4月、私は東宝に入社し、映画助監督になったが、本社採用の助監督は10年ぶりだといわれ、驚いた。
新人研修がすんで、成城学園駅から徒歩10分のところにある東宝撮影所の演出助手として配属されたが、そこは、かつて黒澤明が「七人の侍」などを撮った時代の雰囲気はなかった。
前都知事の石原慎太郎は、東宝に就職し、助監督として撮影所に配属されることになっていたが、芥川賞を受賞したため、作家になったなどという話を先輩から聞いた。
その後、石原慎太郎が自作を映画化し、監督として東宝撮影所に来るといういう話が浮上したときは、
「助監督経験もない人間が映画を撮るなど許さない」
と助監督絵画猛反対したという話も聞いた。
助監督の入社試験の成績は、石原慎太郎は2番で、1番は後に監督になる西村潔。
西村と石原慎太郎は一橋大学の同期生で中がいいという話だったが、西村は過日、自殺した。
私は西村の作品に助監督としていたことはなかったが、東宝撮影所が本社から分離されるというときに、何度か話をする機会があった。
個性派の俳優になれるような顔立ちをしていたが、心根が優しく、訃報に接したときは寂しい思いにかられた。
酒井和歌子主演映画を撮りたいと思った愚かな日々
小学生から中学生の頃は東宝の司葉子が好きだったが、私が新人助監督時代の1970年代前半の東宝専属の若手主演女優はといえば、酒井和歌子と内藤洋子ぐらいだった。
しかし、内藤洋子は結婚して引退し、「結婚するならこの女優しかない」と私が勝手に思った酒井和歌子の出番もなくなっていた。
「映画の製作本数を減らして外注作品を増やす」
という経営方針が打ち出され、助監督部、撮影部、照明部などのスタッフの配置転換が発表され、労使紛争が激化した。
撮影に入る映画の数が減ったため、仕事を割り振られない助監督は自宅待機となり、何をしていようが文句をいわれなかったので、会社の独身寮でシナリオを書いたり、映画館をはしごする〝グータラにして優雅な日々〟を送っていた。
大島渚の監督デビューした頃とは時代が激変してしまっていたにもかかわらず、私は相変わらず、
「助監督は、シナリオを書いて評価されるのが若くして監督に昇進する近道」
と、ひたすら信じ、シナリオや企画書を書きまくっていた。
いま読み返すと行間から熱い思いが伝わっては来るが、客観的な評価を下すなら「未熟」の一言。
自己の力を過信し、ひたすら夢を追いかけていた。その愚かさが若さというものだったのだろう。
昔の修行スタイル
今日と違ってビデオもDVDもなく、映画は映画館かテレビの名画劇場で放送されるものを見るしかなかったから、名画座めぐりもした。
映画館では、メモ用紙片手に印象的なカットの絵やセリフや書いた。ペン先に電燈がともるシャープペンを「王様のアイデア」で見つけ、それも使って勉強した。
いまなら、そんなことをしなくても、DVDを静止画像にすれば、いくらでもアングルやカットつなぎの勉強ができる。
映画とソニーの創業者井深大
私の助監督人生は、3年で終わった。
閉塞的な状況下では、どうあがいても、どう努力しても、20代で映画監督になるのは無理だと考え、それ以前に自分は能力的にも体力的にも演出家には向いていないと考え、普通のサラリーマンになるべく、1973年にソニーへ転職したのだ。
私を採用してくれた宣伝部の部長が、ソニーの創業者の井深大に、
「井深さんの早稲田の後輩で、東宝で助監督をしていた異色の男が今度入社しました」
と報告すると、うれしそうだったという。
井深は、東宝の前身であるPCLの役員をしていたこともあり、東宝とは関係が深かったからだ。
その時代、大島渚は、あまり作品をつくらなくなっていた。
映画監督大島渚の名が復活したのは、私がソニーに転じて3年目の「愛のコリーダ」(1976年)だったが、私は関心がなかった。
猟奇事件の阿部定を扱った映画ということと、劇中のSEXシーンで取り上げられているという思いが強かったからだ。
1983年に「戦場のメリークリスマス」が封切られた年に、私は「オール讀物新人賞」を受賞し、翌年、ソニーを辞めて物書き専業になった。
この映画も私は評価していない、というより、私自身のなかで大島渚という人物への関心がなくなっていた。
その理由は簡単だ。私の感性が変わっていたのと、「愛のコリーダ」も「戦場のメリークリスマス」も「青春残酷物語」を超える作品にはなっていないと思ったからである。
「歌は世につれ、世は歌につれ」というが、私の青春時代は「映画は世につれ、世は映画につれ」だった。挫折はしたが、その映画の道に進む大きなきっかけを与えてくれたのが大島渚だった。
(城島明彦)
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