日本の相撲は喧嘩じゃないぞ! 白鵬は2日連続の「張り差し」、日馬富士は「頭を張った」
日馬富士の相撲は荒っぽすぎる
大相撲の初場所が始まったが、新横綱の日馬富士は、2日目の取り組み中、左手で相手力士の頭を張っていた。
これは動きを見る限り、意識したものではなく、無意識に出たもののようだし、反則ではないが、横綱として美しい相撲ではない。
問題は、こういう手が無意識のうちに出てしまうという点だ。
そういう戦い方は、入門以来、体に染み込んでしまった「荒っぽい取り口」「乱暴な取り口」なのであろうが、平幕の力士なら大目に見られても、横綱となるとそうはいかない。
横綱には「品格」が求められる。
品格ある相撲とは、双葉山や大鵬のような堂々とした美しい横綱だ。
日馬富士は、横綱昇進後の最初の先場所で9勝しか上げられなかった焦りも加わって、「何が何でも勝たなければ」という気持ちが先に立つのは仕方がないにしても、横綱となった以上は、「自分は日本の神事に端を発する国技の横綱である」という厳しい自覚が必要である。
白鵬はもっとひどい。意識して耳を張っている
白鵬は、連日の「張り差し」だ。
2日目の相撲では、右手で相手の「耳」に当たるように狙った。
普段、どんなに礼儀正しく、どんなに立派なことをいっていても、土俵上でそう評価できないことをやっては意味がない。
白鵬は、3日目の取り組みでも張り差しにいった。
対戦相手は、先場所、立ち合いで肘(ひじ)をしたから上に押し上げて顎に命中させる「かちあげ」で「脳震とう」を起こさせた妙義龍である。
そういうことを知っていて「張り差し」にいったのだから、明らかに計画的である。
あれだけのことをやって物議もかもしたのだから、続けて乱暴なことはしないだろうと普通は考える。
しかし、白鵬は逆だった。
その行為をよく解釈すれば、「まさか二度続けて、相撲ファンのひんしゅくを買うような行為はしてこないだろう」という常識的な考え方の「裏をかいた」、つまり「意表を突いた」ということになるが、表現を変えれば「確信犯」ということである。
白鵬が負けた相撲は、「張り手」を使ったときが結構ある。
張り手をすれば、その分、張り手をした手の動きは攻撃力が鈍る。
その間隙を突かれて相手にふところに飛び込まれたら、本来の力を発揮できなくなる。
「相手の懐に飛び込んで先手を取れ」と宮本武蔵は『五輪書』でいっている
昨年、私は、宮本武蔵の『五輪書』を現代語訳したが、彼は、そのなかで、
「相手に力を発揮させないようにするには、相手の懐にすばやく飛び込んでいき、敵の力を封じ込めることだ」
と繰り返しいっている。
妙義龍は、先場所、ひどいことになって、どうやればいいか懸命に考えたのだろう。
肘(ひじ)を使った「かちあげ」は無論、「張り差し」も当然、計算に入れて対戦したはずだ。
その結果、バカのひとつ覚えのように横綱としての品位を欠く「張り差し」をかましてきた白鵬を、ものの見事に倒した。
この一戦は、先場所のひじでの脳震とうによる敗戦と並べて日本の相撲史に長く語り継がれる勝負と評価していいのではないか。
何度もやる白鵬の「張り差し」は「虚を突く」とはいわない
宮本武蔵は、「相手の虚を突け」ということも繰り返し述べているが、白鵬のように自分より格下の相手に何度も何度も同じ「張り差し」を繰り返せば、もはや「虚を突く」とはいわない。
角界(相撲界)は新弟子が集まらなくて困っているが、日馬富士や白鵬の荒っぽい勝負を見せられて、「相撲取りになりたい」「入門したい」などと思う子供など現れるはずがない。
本日(4日目)の相撲は、白鵬も日馬富士も、堂々と正面から戦い、横綱にふさわしい相撲を取って勝った。
そういう立派な横綱相撲ができるのだから、横綱としての品性を疑いたくなるような「張り手」のような手は心して封印すべきである。
もし白鵬が、今後も下位の力士相手に「張り差し」を繰り返すのであれば、たとえ何度優勝しようと、真の賞賛には値しない。
もし改めるつもりがないのなら、そういう力士は一刻も早く角界を去れといいたい。
日馬富士も同様である。
(城島明彦)
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