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2012/12/31

NHK朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」の総集編(12月30日)を見て、考えた

関東で平均視聴率20%超に納得
 
 私には、NHKの朝ドラを見る習慣はなく、総集編を見たこともなく、まったく興味もなかったが、たまたま、テレビを見ていたら総集編「梅ちゃん先生」に行き当たったので、どういう内容なのかと思ってしばらく見ていたら、よくできていて、つい最後まで見てしまった。

 堀北真希が街の女医を演じるという話は人から聞いていたが、ストーリーはまったく知らなかった。

 ストーリーを簡単にいうと、国立医大の教授の娘・梅子は女子医大に合格し、卒業後は父親のいる大学病院に勤務してエリートコースを歩みかけるが、町医者の生き方に共鳴して転進するという話である。

 父親は国立大教授というエリート階級の設定にしたのに視聴者がソッポを向かなかったのは、人々の尊敬の対象となる「医者」という職業だったからかもしれない。

 最初の場面が戦後の東京・蒲田の焼け野原というところだったことも、興味を引いた。
 蒲田は、東京では「町工場が多いところ」というイメージが強いので、ドラマでも隣家は町工場という設定になっていた。

 映画「三丁目の夕日」も東京の昭和30年代の下町が舞台だったが、あの時代は東京だけでなく、地方都市にもああいう街の光景はいっぱいあった。

 したがって、昭和20年代・30年代に子供時代を送った世代やそれ以上の年齢の人で、地方都市に住んでいた人も、郷愁を感じながら見たのではないか。
 私自身も60代半ばを越えたので、そういう感情をだぶらせながら見た。

 街のあちこちに空地があり、土管が転がっていて、砂利が詰まれていたりする光景を覚えているのは、団塊世代以上だと思うが、そういう光景をまったく知らない年齢層の人たちも、「戦後日本の原風景」という意味で、何か心安らぐものを覚えるのではないか。

 NHKの大河ドラマ「平清盛」は、どうしようもなく、最後の方は見る気にもならなかったが、NHKもやる気になれば、「梅ちゃん先生」のように、トイレにいくのもガマンする「いいドラマ」も、やれるのだと思った。


堀北真希は女医らしくなかったが、昔の日本人女性らしい一面も見せた

 堀北真希という女優には、これまで関心がなく、どこか「ノッペリとした、感情の起伏の乏しい女の子」と思っていたが、この連ドラを見る限りは、多くの人から好かれる女優という印象を受けた。

 彼女が首をかしげるしぐさも、やりようによってはわざとらしく映ったが、そうはならず、彼女の魅力になった点も評価できる。

 ただ、女医という職業を考えると現実感が希薄だった。

 彼女を取り巻く若い男性の顔つきがよく似ていて、総集編を見るかぎり、誰が誰かわからなくなることがあった。
 これは、明らかな配役のミスであり、メイクのミスである。

 ドラマに出てきた彼らは、いずれも「ほそおもてのイケメン顔」で見分けがつきづらいという特徴があったが、昭和30年代の若者はもっと個性的で特徴のある顔をしていた。

 鼻も低く、顎もがっしりとしていた。リアリティを出すには、含み綿をするなど、工夫がいったのではないか。

 当時の映画を見ても、そのことがわかるはずだ。同じ日活スターでも、石原裕次郎、小林旭、二谷英明は簡単に見分けられた。


昭和30年代半ばまでの暮らしに「日本人の原風景」がある
 
 政治も経済も時間もゆっくりと流れ、ほとんどの家が貧しかった時代。
 男も女も、老いも若きも、雑然とした毎日を送りながら、それでも、
 「明日はきっと素晴らしい日が来る」
 と漠然と信じて生きていた。

 いまの時代には、それがない。
 安倍晋三内閣は、そういう時代の活力をしばしば口にしているので、再びそうなる日が来るのを期待するしかない。
 日本の元気は、明日への希望が見えたときに生まれる。

 昭和30年代は、古くなったセーターの毛糸をほぐして、別の新しいセーターにしていた。
 Yシャツに洗濯ノリをきかせてアイロンをかけ、パリッとさせてもいた。
 パンツのゴムが伸びると、新しいゴムと入れ替えて使っていた。
 街の商店街に行けば、包装紙は数日前の新聞紙だった。
 肉は竹皮に包んであった。

 日本人本来の考え方・暮らし・生き方は、そういうものだった。
 ケチというのではない。
 モノを大切にし、ムダなことはしない。
 それでいて、見た目はさほど悪くない。
 そういう工夫を重ねてきたのが日本人である。

 それらは、今日の「リサイクル」という言葉とは別次元の話である。

 そんな古い時代のことを知らない若い世代が「三丁目の夕日」や「梅ちゃん先生」を見て共感しているとしたら、それは彼らのなかに潜んでいる「古き良き時代の日本人としてのDNA」ではないのか。

 それは、言葉を変えるなら、
 「日本人の原風景」
 である。

 しかし、その日本人が、生活が豊かになるにつれて、そうした精神を忘れてしまった。


モノを粗末にする風潮が「製造業大国・日本」を衰退に導いた

 「どうやってものを捨てるか」をテーマにした本が売れる〝妙な時代〟である。

 日本が経済大国になって、人々の生活は相対的に豊かになったのとひきかえに、日本人として持っていなければならない「日本人本来の精神」まで失ってしまった。

 「モノをどんどん捨てよ」は、その一例だと私は考えている。

 私は、まだ十分に使えるモノを捨てると「罪悪感」を覚えるタチなので、そういう本を読む気にはならないし、そういう本を書く人間を偉いとも思わない。

 その方面に対する役所の規制も、ひどい方向へきている。
 落ち葉を集めて焼きイモを焼くことすら、都会ではできなくなった。
 煤煙が空気を汚すというわけだ。

 古物商やら廃品回収業者はどうか。
 昔は、古物商や廃品回収業者が無料で不用品をもっていってくれたが、いまはどうか。
 古着や古本を売りにいけば、選り好みをし、「これはいりません」と突き返す。
 廃品業者は金を取る。買ってくれても、きわめて安い。二束三文で買って、高い値をつける。

 何様のつもりか。こういう連中がのさばる世の中は間違っている。狂っている。
 ただで持ち帰り、分解してまだ使えるものや金属などを売って生活するのが筋である。

 こういう話になると書き止らなくなるので、このあたりでやめることにする。

(城島明彦)

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