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2012/08/05

身の毛もよだつ崇徳上皇の呪詛(じゅそ)――「平清盛」(7月29日放送/第30回「平家納経」)

天皇家を呪い続けた〝日本一の大怨霊〟崇徳(すとく)院
 
 7月29日の放送は途中で眠ってしまったので、8月4日の再放送で見た。
 その回のタイトルは「平家納経」だったが、清盛が厳島神社に納経した理由には、「保元の乱」で敵対し、讃岐国(さぬきのくに)に流され、怨みをいだきながら死んでいった崇徳上皇の怨霊を鎮めるという目的もあった。

 崇徳上皇についての詳しい話を知らない視聴者は、大河ドラマのなかで、讃岐に幽閉されていた崇徳上皇が舌を噛み切っって流した血で呪いの経文を書き、
 「死してのちは日本一の大怨霊となって、先々皇室を呪ってやる」
 と狂ったように絶叫するオカルト的な場面を見て、「フィクションではないか」と思ったかもしれないが、崇徳上皇(崇徳院)のこのエピソードは『保元物語』などに詳しく書かれ、半ば伝説化して語り継がれてきた事実に基づいている。

 朝廷は、流された崇徳院の様子を知ろうとして、平左衛門尉康頼(へいさえもんのじょう やすより)を派遣したところ、崇徳院は、
 「柿色の法衣を着、目くぼみ痩せ衰え、荒々しい声で『敢(あ)えて御許容(ごきょよう)なき間、志忍びがたきあまり、不慮の行業(ぎょうごう)を企(くわだ)つる也』」
 といったといい、その有様は身の毛もよだつすさまじさだったという。

 「不慮の行業」とは、「世を怨み、呪う」という恐ろしい意味である。


貞子も恐がる崇徳院の呪い

 崇徳院の遺体は火葬されたが、その煙が都の方にたなびいたというので、人々はおびえたといわれている。 

 46歳という若さで憤死した崇徳院の怨みは、なぜそこまで深くなったのか?

 崇徳院は、流されて以降、自身が保元の乱に加わったことを悔い、鳥羽法皇の菩提を弔うために大乗経を写経する毎日を送り、完成したので京に安置してもらえないかと朝廷に打診したが、藤原信西が、
 「罪人の書いたものを京に入れるのは不吉だ」
 と異を問いたため、実現しなかった。

 それで崇徳院は怒り心頭に発し、
 「われ、生きても無益なり」
 と思い詰めた結果、髪も爪も伸ばし放題となり、
 「生きながら天狗の姿にならせたもうぞあさましき」
 といわれる世にも恐ろしげな姿になって、皇室を呪詛するようになるのである。

 「吾(われ)深罪(ふかつみ)に行われ、秋鬱(しゅううつ)浅からず、速やかに此功力(このくりき)をもって、彼の科(とが)を救わんと思ふ、莫大(ばくだい)の行業(ぎょうごう)を、併(しかしながら)三悪道(さんあくどう)になげこみ、その力をもって、日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇(おう)をとって民となし、民を皇となさん」

 三悪道というのは「地獄道、餓鬼道、畜生道」のことで、大魔縁は「大魔王」である。

 『保元物語』は「物語」であるから、見てきたような嘘や誇大表現も当然混じっているが、それにしてもすさまじい。

 「皇(おう)をとって民となし、民を皇となさん」
 とは、「天皇をその地位から引きずり下し、一般の人民を天皇にする」という意味であるから、天皇はびびったのである。


「孝明天皇毒殺事件」は崇徳上皇のたたりか!?
 
 時代は移り、幕末。
 慶應2年(1866年)、孝明天皇は、京都に「白峰神社」を造営し、四国に祭られている崇徳上皇の御神霊を移すことを計画した。

 ところが、その年の12月12日(この数字に注目。慶應2年の2を含め、2が3つ重なっている)、突然高熱を発し、病の床につくのである。

 2日後には顔中に大きな赤い発疹が現れたので、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)を主治医とする医師団は、病気を「疱瘡」と診断し、煎じ薬などの治療薬を投与した。

 当時、大阪の町医者をしていた緒方洪庵(おがたこうあん)は、種痘による治療を行っており、それを町人たちのなかには罹患をまぬがれる者が現れ、伊良子もそれを知っていたが、天皇の近習の者が疱瘡にかかったときも、天皇に種痘をするのはおそれ多いと考えて、種痘をほどこさなかったのが裏目に出たのである。

 孝明天皇の病状は、5日目になるとさらに悪化し、顔は腫れ、嘔吐が続いて呼吸困難になるなどした。
 そして発病から2週間後の12月25日(1867年1月30日)、崩御するのである。

 その結果、崇徳院の御神霊を京都に移す計画はストップしてしまった。

 しかし、天皇の死因については「疱瘡」ではなく、「毒殺」であると当時から噂された。
 そして後日(昭和50年代初頭)、伊良子織部正光順の末孫宅から毒殺を裏付ける資料が出現する。
 光順が書き遺した「天脈拝診日記」なるものが発見されたのだ。
 そこに記された内容などから「ヒ素による毒殺説」が濃厚となったのである。

 誰が暗殺したのか? 公武合体論者である孝明天皇をよく思わなかった岩倉具視であるとする説が濃厚だが、証拠はない。
 孝明天皇の眠る御陵を発掘して遺骨を調べれば、ヒ素による毒殺かそうでないかはたちどころに判明するが、宮内庁が許可するはずもない。


崇徳帝のたたりを恐れ、明治天皇が京都に御神霊を祭った

 孝明天皇の遺志は、息子である明治天皇が引き継ぎ、孝明帝崩御から2年近く経った慶應4年8月18日に、公卿の飛鳥井(あすかい)家の敷地に本宮(白峯宮 しらみねぐう)を創建するよう「宣命」(せんみょう)を下した。

 なぜ慶應4年なのか!?
 この年(戊辰)の1月に戊辰戦争が始まっていたからである。

 官軍に敵対する会津藩ほかの奥羽諸藩に崇徳帝の怨霊が味方することを、天皇は恐れており、
 「皇軍に射奉(いたてまつ)る陸奥出羽(むつでわ)の賊徒(ぞくと)をば速やかに静め定めて天下安穏に譲り助け賜(たま)え」
 との文言が宣命にも記されている。

 8月25日、明治天皇の勅使(大納言源朝臣通富/だいなごん みなもとのあそん みちとみ)らが讃岐に向かった。

 勅使一行が向かった先は、讃岐の阿野郡坂出村(あやぐん さかいでむら)の白峰(しらみね)にある崇徳帝の御陵(白峯御陵)である。

 白峰陵に祭られた崇徳帝の御神霊に対し、勅使は、18日に明治天皇が記した宣命をうやうやしく読み上げた。
その日は8月26日、天皇の命日である。

 勅使一行は、翌27日、崇徳帝の遺影、愛用の笙などを携えて下山し、28日に坂出から船で出港し、9月5日に京に着いた。
 そして崇徳帝の御神霊は、飛鳥井の地に祭られたのである。
 死後705年後のことだった。7+0+5=12である。
 ここで思い返したいのは、孝明天皇が突然高熱を発し、病の床についた慶應2年12月12日という2が重なる日との因縁だ。

 白峯神宮の御祭神が崇徳天皇(第75代天皇)であるのは当然だが、実は、もうひと柱、祭られている。
 淳仁天皇である。
 淳仁天皇は道鏡の時代の天皇(第47代)だが、藤原仲麻呂の乱に関係したとして「廃帝」(はいてい)とされ、淡路島に流され、そこで亡くなったが、「怨霊」としても恐れられた。

 淳仁天皇が合祀(合祀)されたのは明治6年12月24日である。
 この数字も2が絡んでいる。
 そのときに淳仁天皇という諡号が追贈されたのだから、この天皇の怨みも深かった。
 白峯宮は、昭和15年(1940年)に官幣大社に昇格し、「白峯神宮」となり、今日に至っている。

 私が坂四国の坂出市にある白峰陵を訪ねたのはもう20年くらい前のことだったが、御陵(みささぎ)はシンと静まり返り、恐ろしい出来事があったことをしのばせるものは何もなかった。

 崇徳上皇の話は、まだまだたくさんあるが、今日のところはこのへんでやめておく。

(城島明彦)

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