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2012/06/25

「平清盛」(最低視聴率更新10.1%)で主役を食う「信西」(阿部サダヲ)は、「平治の乱」で殺され、さらし首になる

「保元の乱」「平治の乱」を描くNHK大河は「虚実入り混じった物語」がベース

 体調が悪いので、外出もせず、土曜日に「平清盛」の再放送(第24回「清盛の大一番」)を見、日曜夜もその続き(第25回「見果てぬ夢」)を見たが、 第25回「見果てぬ夢」の視聴率10.1%というのは末期的だ。

 NHK大河ドラマ「平清盛」の6月の視聴率推移(関東地区)は、11.0%(3日)→11.6%(10日)→12.1%(17日)と登り調子になったかと思われたが、24日には逆戻りし、さらに過去最低より0.1ポイント落ちて、とうとう10.1%になってしまった。

 登場人物の内面(心情)描写にかなり力を入れているのは悪くないが、そうすることで話が誇張され、理屈っぽくなる弊も出ている。

 源義朝の妻で頼朝の母、由良姫(御前)が死ぬ場面で、
 「平家に頭を下げるな」
 と、義朝や息子たちにいい残すが、彼女は、源氏寄りの熱田神宮の娘で、子どもの頃からそういわれて育ったと思われるので、そういうことはあったかもしれない。

 愛人の常盤御前(義経の母)の描き方が中途半端だった。

 NHK大河は、『平家物語』につながる軍記物語『保元物語』『平治物語』を脚色した形で、ドラマを描いている。

 『保元物語』『平治物語』は文学的な評価では、『平家物語』とは比べるべくもないが、歴史的事実を元にして伝聞などから「物語」にしているので、虚実相半ばすると考えないといけない。

 物語というのは、読み手あるいは聞き手に「面白い」と思わせる作者の演出が入っているということだ。

 誇大表現になったり、事実をすべて把握できるわけではないので、そこは想像で補うしかなく、その結果、事実とは異なる話の展開になってしまうこともある。

 『保元物語』も『平治物語』も著者は特定されてはいないが、書かれた内容を吟味すると、中国の古典『四書五経』『史記』などの通じたかなりのインテリで、朝廷、貴族など国政にもかなり通じていた人物であるとわかる。

 貴族、僧侶ということになるが、上から命じられて書いたか、よほど時間のある暇な人間でないと、調べたり書いたりできない。朝廷から命じられて書いたのであれば、関係者に取材できたろうが、そうでなければ、何を根拠に書いたのかよくわからない。

 問題は、「孝」とか「忠」をかなり重視する考え方が著者にあるという点だ。要するに説話(説法)めいている箇所が多すぎる。つくり話が多いのではないか。

 「保元の乱」や「平治の乱」で親が子を殺したり、子が親を殺したりすることに、もっともらしい理屈をつけて脚色していると推測できる。
 NHKの演出は、それをさらに拡大している。


信西は処刑制度を復活させた人物

 NHKは、藤原信西(阿部サダヲ)にかなり肩入れして描いている。
 次回(7月1日放送予定)が「平治の乱」なので、そこで信西は逃走し、殺され、獄舎にある樗(おうち)の木に、首を懸けられ、さらされることになる。

 処刑制度のことを前に調べて本(『裏・義経本』)に書いたことがあるが、信西は嵯峨天皇の時代以降、絶えて久しかった処刑制度を復活させた重要人物である。

 藤原家は「北家」が権勢を誇ったのに対し、信西の出の「南家」は日が当たらなかった。
 しかし、信西はずば抜けた頭のよさを買われて鳥羽天皇に用いられ、注目を集めた。
 
 ただ学識にすぐれただけなら、歴史にその名を刻すこともなかったろうが、信西の場合。妻が後白河法皇の乳母を務めたことから皇室への発言力を強め、平家・源氏の武士を操って、「保元の乱「平治の乱」に加担することになる。

 「保元の乱」は、天皇家と摂関家の主導権争いに、台頭しつつあった源平が加わった「骨肉のいくさ」だったが、その争乱で信西は指揮官の役割を演じ、源義朝の進言を受け入れて、崇徳上皇がこもる白河殿を夜襲し、勝利した。

 脱線するが、のちに源義経が平家を攻めるときに、繰り返し、奇襲作戦を敢行するのは、母である常盤御前や源氏の家臣らから、その話を何度も聞かされていたからではないかと私は考えている。
 義朝は、「平治の乱」で清盛に敗れ、逃走中に命を落とすという無念な最期を迎えるので、「カッコよかった時代の話」だけが、その後、「あなたのお父上は、凄かったのですよ」と繰り返し語られることになるはずだ。

 信西だが、彼は「保元の乱」で勝利したことで、後白河天皇(上皇)に重用され、独裁力を強める。


「平治の乱」は、信西への義朝の私憤が原因

 源義朝は、「保元の乱」の立役者なのに、恩賞が清盛より低かったことで、不満をつのらせ、信西と姻戚関係を結ぼうと考え、娘を信西の息子に嫁がせようと申し入れたが、信西に断られてしまう。

 しかも、信西は清盛の娘を息子の嫁に取るのだから、義朝はおさまらない。
この2つが「平治の乱」の引き金だ。

 そうした私憤が絡んで、義朝は信西に怨念をつのらせ、信西の学問上のライバルである、藤原信頼(のぶより)と手を組み、清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけて都を留守にした隙を狙って、クーデターを決行する。

 信西は逃走するが、捕らえられて首を刎(は)ねられ、クーデターは成功したかに見えたが、急を聞いて旅先から引き返してきた清盛の逆襲にあい、義朝軍は敗北してしまう。
 これが「平治の乱」である。

 この争乱によって、それまで並び立っていた源平のうち源氏が落ちこぼれ、平家が政権の座につくのである。そして、

 「平家にあらずんば、人にあらず」

 という言葉に象徴される「平家専横の時代」に突入するのだ。


徹底的にさらされた信西の首

 三条河原で斬首された信西の首は、検非違使(けびいし)に渡され、都大路を引き回された。
 その様子は、『平治物語絵詞(えことば)』に描かれている。

 信西の首は、先頭をゆく鎧武者の薙刀(なぎなた)の刀と柄(え)の接するあたりに結(ゆ)わかれて、都大路を引き回され、獄門へと向かった。

 行列は、勝者の威光を誇示する意味もあって、何十人という人数である。

 敗者側の情けない姿を人目に「さらす」(触れさせる)のが目的だから、行進するときは首を高く掲げる必要がある。

 坊主頭の信西の頭蓋骨(毛髪が生える部分)に穴を4か所あけてヒモを通し、薙刀の柄に固定した。

 獄門は「獄舎の門」という意味だ。

 門の中には、反逆者や犯罪者をぶち込む牢屋(ろうや)がある。
 門の左右は屋根つきの土塀となっていた。
 
 信西の首は、絵巻の詞書(ことばがき)には義朝のときと同じように「おうちの木にかけた」と記されているが、なぜか絵の方はそうなっていない。

 門には切妻(きりづま)屋根がついており、そのてっぺんの棟木(むなぎ)の端に首がひっかけられているのである。

 「楝」(「棟」の旧字)は「おうち」とも読むが、絵巻では門を入ってすぐ左手に大きな「樗」(おうち)の木が描かれているので、普通はそこに首を懸けられたのだろう。
 
 『源平盛衰記』は、「獄門の木」という表現を使っていた。「壇ノ浦の合戦」で入水しようとして源氏軍の熊手にひっかけられて捕虜になる平家の総大将平宗盛(たいらのむねもり)とその息子清宗(きよむね)の首は、
 「大路を引き渡され、獄門の木にかけられた」
 とあり、首謀者格ノ人間がそういうさらし方をされるようにいったことがわかる。

  のちの「一ノ谷の合戦」で源氏に捕らえられる平重衡(たいらのしげひら)は、大卒塔婆(おおそとば)にクギで打ちつけられという異様な姿で奈良の人々にさらされる。
 処刑したのは源氏ではなく、奈良の興福寺の宗衆徒(しゅうと)である。
 頼朝は命を助けたが、東大寺を平重衡に焼き討ちされた興福寺が承知せず、そういう残酷な処刑を行ったのだ。

 それにしても、処刑制度を復活させた信西自身が、そのむごい処刑方法を受けたのは、なんとも皮肉である。
 
(城島明彦)

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