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2012/03/11

一般人の感覚とズレているNHK大河「平清盛」(第10回「義清(のりきよ)散る」)

清盛の前で、髪をおろして出家?

 第10回は、清盛のライバルで、文武両道に秀(ひい)で、しかもハンサムだった佐藤義清(さとうのりきよ)が、こともあろうに鳥羽上皇の中宮である待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)とできてしまい、それが原因で出家するという話である。
 
 義清は、平清盛の前で、武士のしるしである髻(もとどり)を切って俗世に別れを告げたという設定であった。


タイトルの「散る」が気に食わない

 いまはほとんど使われなくなったが、電報がまだ普通に使われていた時代には、大学受験に失敗したときに受験生に送られてくる電報の文章の文面は、
 「サクラチル」
 だったから、「散る」は「無念の思い」とか「残念な結果」を意味しなくもないが、人が散るの「散る」は、ふつう、人の死を意味する。

 しかし、佐藤義清は死んだわけではない。出家して「西行」(さいぎょう)と改名しただけである。
 
 「散華」という古くから使われている言葉もある。仏を供養するために花びらや蓮の花びらの形をした紙をまく法要をいう。

 したがって、「義清散る」というタイトルをつけるNHKの感覚が理解できない。 「義清、出家」では不足なのか。
  

満月の晩、桜の下で死にたい 

 西行の和歌で最も有名なのが、NHK大河のあとでも紹介されていた辞世の一首だ。

   願わくば 花の下にて 
             春死なん 
               その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)の頃

 もし叶(かな)うなら、空に青白く満月が輝く春の夜、満開の桜の花がはらはらと舞い散る下で私は死にたい。

 私はこの歌が好きで、自分もできることならそうしたいと思い、数年前に「顔」という題の短編小説を書いた。(扶桑社文庫『怪奇がたり』に収載。その後、電子書籍になっている)
 
 
NHKは芸術ドラマを撮っているのか

 大河ドラマでは、満開の桜が舞い散る下で、出家したいと告げる義清を清盛が男の友情から殴りつけるというシーンがあり、その後も、出家する心境を語らせていた。
 それは、「願わくば」の和歌を匂わしてのことなのだろうが、その歌を知らない人にはチンプンカンプンだったろう。
 そのあたりのNHKのスタンスが気になった。

 黒澤明の映画「七人の侍」「用心棒」がアメリカほかの外国で受けたのは、娯楽作品に徹して観客ににはっきりわかる芝居、セリフ、演出だったからだが、「平清盛」の演出家はその点が違っていて、「わかる人にわかればいい」というスタンスを取っているように思えた。

 待賢門院が御所の庭で、狂ったように草や花をかきわけて自分が好きだった水仙を見つけるシーンも、意味不明。その場所で、義清がはずみで待賢門院の首を絞めるという話であったが、わざとらしく感じられてならなかった。

 「平清盛」の低視聴率は、一般人の感覚とNHKの大河ドラマ制作陣の感覚がズレているところに原因があるのではないか。そう思えてならない。

(城島明彦)

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