最終回の視聴率40・0%だって! 「家政婦のミタ」は現実離れしたマンガだから受けた
名字を「三田」にし、題名を「ミタ」にしてパロった節操のなさに問題あり
「パロディか!? ふざけた題名の番組をよくやるな」
日テレで「家政婦のミタ」というドラマの予告を最初に目にしたとき、そう思ったものだった。
むろん、見る気もしなかった。
ところが、「あれ、面白いよ」という複数の声を耳にしたが、ふざけた題名が邪魔をして見る気が起きなかった。
「家政婦は見た」は、そもそも、他局(テレ朝系)のシリーズもので、市原悦子の十八番(おはこ)というイメージが視聴者に浸透している。
1980年代の最初の「家政婦は見た」を「土曜ワイド劇場」で見ているが、発想が新鮮なのと、市原悦子のとぼけた味の芝居に好印象を受け、以後も何回か見たものの、家政婦が雇われた家の様子を覗き見するという設定に次第に疑問を感じるようになり、途中から見なくなった。
そういう番組のタイトルを平然とパクって茶化すという姿勢そのものがふざけている。
節操がない。こういうことを平気でやるテレビ局の神経を疑う。
視聴率が高ければ許されるという問題ではない。志(こころざし)が低すぎる。
題名は、ただの「家政婦」でも、「家政婦の山本」でも「、家政婦の灯(あかり)」でもよかったのではないか。
そう思っていると、たいへんな視聴率であるという話が報道され始め、
「ドラマの最終回には〝本家〟の市原悦子や主演の松嶋菜々子の亭主の反町がゲスト出演するのではないか」
という噂まで流れ、それが視聴率アップを加速させ、最終回では視聴率40.0%(関東地区)で歴代同率3位を記録したという。
あまりにも騒がれるものだから、最終回前と最終回のそれぞれ一部だけ見たが、それほど話題になるようなドラマとは思えなかった。
ホームドラマの象徴だったTBSテレビの「渡る世間は鬼ばかり」が終了したまさにその年に放送された、〝トンデモ話〟の「家政婦のミタ」がとんでもない視聴率を稼ぎ出したのは、象徴的である。
絵空事だから面白いのか
ちょっとしたことが原因で、簡単に人を殺す。のみならず、バラバラにして捨てる。
本来非現実であるはずのそうした出来事が、次々と現実に起こる時代になっている。
昔は、映画やテレビドラマのなかでしか起こらなかったような事件が、ひんぴんと現実に起こる。
人々の神経は麻痺しているから、少々の事件を扱ったテレビドラマを面白いと思わなくなっている。
だから、非現実的なものを映画やテレビに求める傾向は強くなってきたのではないか。
笑わない人間などこの世にはいないし、何をいわれても「承知しました」などという人間など世界中を探しても一人もいない。
だからこそ、そうではない人間をおもしろがる時代ということなのか。
時代の節目に現れる現象
1970年代のマンガ(梶原一騎原作)と映画「愛と誠」、1980年代のテレビドラマ「スチュワーデス物語」、1990年代のテレビドラマ「星の金貨」などは、お涙頂戴シーン満載の非現実的な世界を「おおげさ」で「わざとらしく」描いたことで話題になった。
「愛と誠」が話題になった時代の1970年代前半にはオイルショックがあり、日本の高成長が止まった。少女(愛)を助けるために少年(誠)が顔に大ケガをしたという設定そのものが現実離れしているし、そのことを互いにその後の人生でもずっと引きずり続けるということも非現実的である。
1980年代半ばの「スチュワーデス物語」はバブル期へと向かう前兆だった。「私はのろまなカメです」などというセリフが有名になったが、こんなことばを口にする人間など現実にはおらず、いかにも絵空事の世界だった。
酒井法子主演の「星の金貨」は、1990年のバブル崩壊後の凋落する日本と歩調を合わせていたのではないか。これも、気の毒な身障者をドラマにしてお涙頂戴というわざとらしい設定で視聴率を取ろうという魂胆が見え透いていて、私は見る気がしなかったが、高視聴率をマークした。
2000年代に入ってITバブルがはじけてから、日本は凋落の一途をたどり、2008年のリーマンショックのとばっちりで、明るい話題に事欠くようになっていたから「なでしこジャパンの優勝」くらいで国中がお祭り騒ぎになってしまう。
政権が変わっても、かわりばえのしない暗くて前途に希望を持てない現実。
「家政婦のミタ」を多くの人が見たという現象を、もはや日本人には非現実の世界に遊ぶしか夢がなくなってしまったからだろうか。
(城島明彦)