デタラメもここまでやるか、「江~姫たちの戦国」(第42回「大阪冬の陣」)
横浜高島屋が「江」の内掛けを展示
10月の最終土曜日、修理に出していたメガネをとりに横浜高島屋へでかけると、階上の展示場で「大河ドラマ50の歴史展」というのをやっていたので、覗いてきた。
決して広くはない会場ではあったが、「江~姫たちの戦国」のなかで上野樹里が着た豪華な打ち掛けや甲冑(かっちゅう)なども展示してあって、結構楽しめた。
衣装には、ずいぶん金をかけていることがわかる。
展示会は11月6日(日)が最終日なので、近在の方はどうぞ。
デタラメすぎて興味がそがれる「江」
NHK大河ドラマも、あと数回で終わり。
明日の「江」(11月6日で)は、淀殿と秀頼が自害し、豊臣の時代は名実ともに終わる。
「江」は、フィクションとしては面白いかもしれないが、歴史ドラマとしては首をかしげたくなる設定や場面が多すぎて問題がある。
大阪冬の陣でも、2代将軍徳川秀忠が、単身、大阪城に籠城(ろうじょう)している秀頼のところへ出向いて、城を出るよう説得する。
しかし、失敗に終わり、帰ろうとして廊下で真田幸村(さなだゆきむら)と鉢合わせする場面があった。
常識で考えると、天下の将軍がたった一人で行動するなどということはありえず、つくり話だとわかる。
ましてや、因縁のある敵将真田幸村と廊下で出会う、それも互いに一人で――などということは、100%ありえない。
ドラマだから、好き勝手にやってもいい?
「ドラマなのだからフィクションで構わない」
という見方もあろうが、「ひどいな」と思った人の方が多いのではないか。
きつい言い方をすると、「デタラメすぎる」という感想を持つ人が多いのではないかということだ。
「ドラマなのだから、歴史的事実は関係ない。どう描こうと、おもしろければいい」
という考え方をいったん受け入れてしまうと、小説にしてもドラマづくりにしても、きわめて楽である。
極端な例でいうと、「実は秀忠は女だった」としても構わないし、伊賀越えに江が加わっていたとするようなNHKの考え方であれば、「大阪冬の陣や夏の陣に、実は江も変装して参戦していた」とやってもよくなってくる。
筋書きに困ったら、
「ちょっと事件を起こそうか。何かおもしろい仕掛けはない?」
と、やればいいのである。
家康が、家臣に「淀殿はどのあたりにいる」と尋ね、そのあたりに威嚇(いかく)砲撃を命じる場面があった。これはフィクションかもしれないが、「ありえる」「老獪(ろうかい)な家康ならやりかねない」と思わせる。
視聴者がNHKに求めているのは、そういう説得力のある設定でありドラマづくりではないか。
「さすがNHK」と、読者がうなる新解釈を!
史実は史実できちんと押さえたうえで、「こういうこともありえるのではないか」という推理をしてドラマづくりをしないと、「つくり方が安直すぎる」とか、「視聴者を小馬鹿にしている」と受けとられかねない。
たとえフィクションでも、視聴者が納得できるような「説得力」があればいいが、「江」には全体を通じてそう感じる場面がとても少ない。逆の言い方をすると、「いいかげんだな」と感じる場面が多すぎるということだ。
話全体が、たとえば「真田十勇士」(さなだじゅうゆうし)に霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)とか猿飛佐助(さるとびさすけ)が出てきて忍術を使うなどといった設定なら、見る方も最初から完全なフィクションとして楽しめるが、あるところだけは史実に忠実にやっておきながら、別のところでは話を面白くするためだけに史実を無視したありえない描き方をするというのでは、視聴者はとまどう。
そういう手法を「ご都合主義」という。
「江」の視聴率がふるわないのは、そういう点にあるのではないか。
(城島明彦)
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