江を「歴史的現場」に同席させたがる悪いクセが、また出た(NHK「江~姫たちの戦国」第23回)
第23回「人質秀忠」のストーリー
ストーリーは――
天正15年に九州を平定した秀吉は、大阪城から京都の聚楽第に居を移し、養女の江もそこで暮らしている。
そんなある日、江は、渡り廊下で徳川家康の世継ぎ竹千代(のち、江の3番目の夫となる秀忠)と出会い、「自分は人質となって、こちらへ来た」といわれ、驚く。
どちらも「いいたい放題で、生意気」だったから、売り言葉に買い言葉のような会話になり、この人とは性格が合わないと互いに感じる。
▼注1……このとき江は17歳くらいで、秀忠は10歳。秀忠役の向井理(29歳)は、童顔ではあるが、どう見ても子供には見えなかった!
▼注2……秀忠は、織田信雄の娘で秀吉の養女になっていた小姫(おひめ)と祝言を挙げているが、小姫は6歳。のち、秀吉と信雄が不仲になり、2人は離縁。秀忠は15歳で22歳前後の江は再婚する。
▼注3……ドラマでは秀忠が家康に反抗的な態度で接していたが、世上いわれてきたのはその逆。従順で温厚な性格で、姉さん女房の江の尻に敷かれていた。
家康に反発している竹千代。
家康を尊敬している江。
そんな江だが、時折顔を合わせる羽柴秀勝(やがて2番目の夫となる)に対しては、胸の奥で憎からず思っていた。
秀吉の政略で、家康の継室(後妻)に送り込まれていた妹旭(あさひ)が重病になり、名古屋弁丸出しの母親(大政所/おおまんどころ)や秀吉たちがいる聚楽第へ療養にくる。
しかし旭は、看護のかいなく、秀吉ら家族に見守られて死ぬ。
その翌日、秀吉は竹千代を元服させ、「秀忠」と命名する。
天下統一をもくろむ秀吉は、北条氏を滅ぼそうとして家康らと小田原攻めを敢行する。
秀吉は22万もの軍勢で小田原城を包囲するが、北条氏は1年分の兵糧を用意して長期戦に備えた。
秀吉は、小田原城と近距離にある石垣山にわずか2か月半で城を築かせ、完成と同時に小田原城側の木を一気に伐採させたので、一夜にして城が築造されたかのイメージを北条側に与えた。
その城で、秀吉は千利休に茶を立てさせるなど余裕を見せ、茶々まで呼び寄せた。
そのとき江は、茶々についていくのである。
そして江は、秀吉と千利休がのっぴきならない関係になる事件現場に居合わせる。
――といった内容であった。
「秀吉は、なぜが茶々を戦場(小田原)に呼んだのか?」を推理する
小田原攻めのとき、秀吉が茶々を呼び寄せた理由は何か?
▼理由その①――中国、四国、九州と平定し、いくさに自信があったから。
秀吉は、水攻めとか兵糧攻めが得意。いくさを仕掛けなくても、北条氏は降伏してくると高をくくっていたから、千利休を呼んだり猿楽師を呼んだりする余裕すらあった。
▼理由その②――1つは、若い茶々の体がほしくなったから。
長期戦になって、好色の血が騒ぎだし、20歳を過ぎたばかりの若い茶々の体が目の前にちらつきだし、茶々を呼び寄せた。
箱根は温泉が湧く場所なので、秀吉は陣地の近くに岩風呂を掘らせ、そこにつかって英気を養った。
家康ら諸大名だけでなく、兵たちにも入浴を許可し、心身ともにリラックスさせたといわれており、その跡がいまも残っている。
「子宝の湯」と呼ばれる温泉が全国各地にあるが、秀吉は、
「この湯に茶々と一緒に入れば、二人目の子どもが授かるに違いない」
と考えて、茶々を呼んだのだろう。
▼理由その③――茶々とおね(北政所)の仲たがいを心配したから。
秀吉が小田原から北政所(おね)に送った手紙が残っている。
それによると、「茶々にこちらへ来るようにおまえからいってくれ」と、おねに頼んだことがわかる。
茶々に直接手紙を出して呼び寄せると、おねをないがしろにしたことになり、波風が立つ。
そうなることを茶々が懸念したとすれば、まだ1歳になるかならないかの赤ん坊の世話を理由に小田原行きは断るだろう。
そこで秀吉は知恵を絞り、正室のおねから茶々に命じるかたちを取らせたのだ。
秀吉に限らず、男は誰でも、正室と側室、あるいは側室同志が嫉妬の火花を散らしたり、喧嘩したりすることは好まない。仲良くやってもらいたいと思っている。
正室も10数人いる側室も、誰ひとりとして妊娠しなかったから、そういう秩序が保たれてきた。
おねは、信長から手紙(現存)で、
「おねは、美人で、よくできた女房。秀吉にはもったいない」
と、ほめられるほどふところが深かった女なので、
「自分は子どもができないから、側室の誰かが秀吉の子を生むのは仕方がない」
と思ってきたが、いざそれが現実のものとなり、しかも世継ぎを生んだのが茶々となると、それまで考えてもみなかった複雑な感情に支配されたのではないか。
茶々に秀吉の愛情が注がれていくのを見ると、心穏やかではなかったろう。
秀吉は、「人たらし」といわれるくらい、人の心を読むのがうまい男だったから、糟糠の妻の心理がわからぬはずはない。
「わしがそばにいて間に入っていれば、おねと茶々の仲はうまくいくが、いないと不安だ」
と思って、茶々とおねを引き離そうとしたのかもしれない。
▼理由その④――おねの「母性本能を刺激する」ため。
茶々とおねを一時的に引き離すことで得られるメリットは、2人の仲が険悪にならないようにするということ以外に、もうひとつあった。
「赤ん坊をおねに預けることで、彼女の母性本能を目覚めさせよう」
という狙いだ。
おねは、もともと母性本能が人一倍強い女性で、包容力があったから、やんちゃな秀吉を受け入れてきた。
秀吉は、彼女のそんな点をうまく利用することを思いついたのではないか。
「捨て子は育つ」といわれていたところから、秀吉が「捨」(すて)と命名した茶々の最初の赤ん坊は3歳で死ぬが、茶々は続いて2番目の息子秀頼を生んで秀吉を喜ばせる。
のちに秀吉が秀頼に出した手紙には、茶々のことを「おかか」、おねのことを「まんかか」と書いているので、最初の子どもにもそう呼ばせていただろうと推測できる。
「おかか」の「かか」は「カカア殿下」などというときの「かか」つまり「母」であり、「まんかか」の「まん」は北政所の「まん」である。
どちらも「かか」と呼ばせていたのだ。
赤ん坊に「まんかか」と呼ばれて悪い気がする女はいない。
こういうやり口で、秀吉は「正室」のおねと2人の子供を生んだ「準正室格」の茶々の仲をうまく取り結んだのではないか。
――というのが、私の推理である。
〝一夜城〟石垣山城のなぞ
小田原の北条氏を攻める戦略を練った秀吉は、天正18年(1590年)3月に京都を発ち、4月に箱根に至り、早雲寺に本陣を構えるが、それと同時に小田原城から3キロしか隔たっていない山の上に石垣を使った城(石垣山城)を築かせた。
不思議なのは、小田原城を至近距離で眼下に見おろすことができるこの山を、土地勘のある北条氏がなぜノーマークにしていたかだ。
秀吉は、石垣を築くのに「穴太衆」(あのうしゅう)と呼ばれる「石工職人集団」を使い、6月末に城を完成させると、北条氏側の山の木を一気に切り倒させた。
小田原城から見上げると、一夜にして城が出来上がったように見えたので、「一夜城」と呼ばれることになるが、その威容を見て、北条氏は、
「一体、いつのまに!?」
と驚き、戦意を喪失したといわれている。
しかし、そのときまで北条軍が築城にまったく気づかなかったというのはおかしい。
すぐ近くの山の上で毎日工事をしていたら、いやでも作業音が風に乗って聞こえてくる。
北条勢はわかっていても、城を包囲されていて動けなかったのだ。
一夜城といえば、信長時代の大垣の墨俣(すのまた)城が浮かぶ。
時代は遡(さかのぼ)る。
信長は、斎藤道三(さいとうどうざん)の死を契機として美濃に攻め入る計画を立て、その拠点となる城を築くように部下の佐久間信盛(さくまのぶもり)に命じたが、信盛は失敗。
次いで柴田勝家がその任に当たるが、同じく失敗したので、秀吉にお鉢が回ってきた。
秀吉は、その地域に顔がきく蜂須賀小六(はちすかころく)の指揮で「川並衆」(かわなみしゅう)を総動員し、わずた数日で城を完成させたといわれている。
私が小学2年生の頃に読んだ子供向け雑誌に「太閤秀吉」の漫画が付録としてついていた。
そのマンガで唯一覚えている個所は、秀吉がでっかい板に城の絵を描かせて、それを夜のうちに敵から見えるように立てたというところである。
実際に彼がやったのは、そんないいかげんなことではなかった。
「川上で製材し、組み立てるだけにした材木を川に流し、それを川下で拾い上げて組み立てる」
というプレハブ式の工法を取り入れ、敵に工事を妨害されることなく、短期間で築城するのに成功したのだ。
秀吉は、「サル」と呼ばれたが、それは、顔がサルに似ているだけでなく、田舎育ちだったから子供の頃からまるでサルのように山や川などを自由に駆け回り、山野の地理に詳しかったという意味もあったのではないか。
「江も小田原へ行った」とするNHKの解釈はおかしい
赤ん坊を戦場へ連れて行くわけにはいかないから、茶々は赤ん坊を北政所に預けて小田原へ向かう。これは歴史的事実である。
NHKが問題なのは、「そのとき江もついていく」という設定にしていることだ。
資料が残っていないので、江がついていった可能性はゼロとまでは断言できないが、可能性はきわめて低いと私は考えている。
その理由を以下に記そう。
子どもがいない北政所ことおねは、茶々が男の子を生んだとき、心底から喜んだかどうか。
表面的には跡継ぎが生まれたことを喜んだかもしれないが、それが本心であるかどうかはわからない。
おねの気持ちは第三者にはわからないことなのだ。
一方、茶々の気持ちはどうか。
世継ぎを生んだことで、茶々が存在感を強め、発言力を増していることを、おねが何とも思っていないはずはない――そう考えると、血のつながった江が赤ん坊のそばについていてくれる方が、茶々としては安心である。
江には京都に残ってもらって、赤ん坊の様子を細かく手紙で報せてもらいたい、と茶々は考えたのではないか。
NHKは、江を大事な場面の目撃者にするために、江を好奇心の強い女にし、いろんな歴史的事件に繰り返し関わらせ、小田原攻めに際しても、当時17歳前後の江を茶々に同行させた。
資料が残っていないからどう解釈するのも自由だが、ドラマの展開に都合がいいように、江を歴史の証人に仕立て上げる手法は安易すぎないか。
江が、未来の夫となる徳川秀次と渡り廊下で「言い合い」をするという設定にしても同様だ。
江の手紙は2通しか残っていない――初に出した手紙
江の自筆の手紙が公開されている。岐阜市歴史博物館で、6月14日(火)から7月10日(日)までの期間だ。
江の書いた手紙で現存するのは、50歳の頃に次姉の初(常高院)に宛てた2通しかない。
その手紙は常高院の菩提寺の栄昌院(岐阜市)に伝えられてきたが、昨年、岐阜市歴史博物館に寄贈されたのである。(4月~5月に福井県美術館でも公開されたが、そのときは1通だけだった)
手紙から江の性格を推理する
たった2通、しかもどちらもそれほど長くはない文面から、江や初の性格を分析するのは無理があるが、それを承知で推理してみる。
江が初に出した手紙の一通の出だしが、
「またの御ふみ」
となっていることから、江と初は頻繁に手紙のやりとりをしていたらしいことが推測できる。
初は子どもに恵まれなかったので、江の娘を養女にもらっており、江に感謝していた節が感じられ、江にこまめに手紙を送っていたように思える。
江の文面からは、性格のきつさは伝わってこないが、筆跡からは強い性格というか強い意志の力が感じられる。
江の孫娘は女帝になる
江の手紙のなかに、
「ちうふけ」
という病気を患っている初を気づかうくだりがあるが、「ちうふけ」とは中風(ちゅうふう)のことで、脳卒中の後遺症で手足が不自由になっている状態をさす。
江が初にその手紙を出した当時、江の息子や娘はどうなっていたか。
長男家光は、3代将軍。
長女和子(まさこ)は、14歳で入内して25歳の天皇(後水尾天皇)の女御となっていた。
江は天皇の義母だったのである。
それだけではない。
和子の娘はのちに女帝(明正天皇)となるのだ。
江は天皇の外祖母ということになる。
ただし、江は初より先(寛永3年/1926年)に死んでしまうので、娘が女帝になるのを見届けられなかったが、初は寛永10年(1633年)まで生きて、天皇のおばという栄誉に浴すことになる。
千利休切腹の理由は不明
大河ドラマのなかの江は、「どこにでも顔を出し、シャシャリ出る性格」という設定にしてあって、歴史的な場面では大体、その現場にいて目撃する。
秀吉と利休の間に決定的な亀裂が走る現場にも、江は、たまたま居合わせることになっている。
「たまたま居合わせる手法を多用すること」を、〝ご都合主義〟という。
ドラマでは、秀吉が千利休の部屋へお茶を飲みに行くというので、江もついてゆくと、家康が先客としていた。
秀吉、家康、石田三成がいるところに江が同席し、ドラマは進むのだ。
千利休が秀吉にうとまれ、切腹を命じられた原因については、
「好色な秀吉が、『娘を側室に差し出せ』といったので、それを拒否し、怒りを買ったという説」
「利休が、秀吉の許可なく勝手に大徳寺の山門に利休自身の木像を祭らせたとする説」
などいろいろいわれているが、どれが真実かは特定できていない。
(城島明彦)
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