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2011/06/28

「江~姫たちの戦国」~」の視聴率がイマイチなのは、江の「問い返すセリフ」が多すぎるからだ!

上野樹里がかわいそう!

 NHK大河「江~姫たちの戦国」がいまひとつ盛り上がらない最大の理由は、上野樹里のセリフの言い回しが単調で、やたら「問い返す」せいである。

 たとえば、誰かが、
 「千利休は切腹だそうじゃ」
 というと、江姫は、
 「切腹!?」
 と問い返す。

 ドラマを注意して見ていると、江姫のセリフには、この手の問い返しがやたら多いことに気づくはずだ。

 脚本家が意地悪してわけではないだろうが、あまりにも多すぎる。

 演出家は、もっと彼女のよさを引き出し、のびのびとやらせるようにしないとダメだ。

(城島明彦)
 

2011/06/21

江を「歴史的現場」に同席させたがる悪いクセが、また出た(NHK「江~姫たちの戦国」第23回)

第23回「人質秀忠」のストーリー

 ストーリーは――

 天正15年に九州を平定した秀吉は、大阪城から京都の聚楽第に居を移し、養女の江もそこで暮らしている。

 そんなある日、江は、渡り廊下で徳川家康の世継ぎ竹千代(のち、江の3番目の夫となる秀忠)と出会い、「自分は人質となって、こちらへ来た」といわれ、驚く。
 どちらも「いいたい放題で、生意気」だったから、売り言葉に買い言葉のような会話になり、この人とは性格が合わないと互いに感じる。

 ▼注1……このとき江は17歳くらいで、秀忠は10歳。秀忠役の向井理(29歳)は、童顔ではあるが、どう見ても子供には見えなかった!
 ▼注2……秀忠は、織田信雄の娘で秀吉の養女になっていた小姫(おひめ)と祝言を挙げているが、小姫は6歳。のち、秀吉と信雄が不仲になり、2人は離縁。秀忠は15歳で22歳前後の江は再婚する。
 ▼注3……ドラマでは秀忠が家康に反抗的な態度で接していたが、世上いわれてきたのはその逆。従順で温厚な性格で、姉さん女房の江の尻に敷かれていた。

 家康に反発している竹千代。
 家康を尊敬している江。

 そんな江だが、時折顔を合わせる羽柴秀勝(やがて2番目の夫となる)に対しては、胸の奥で憎からず思っていた。

 秀吉の政略で、家康の継室(後妻)に送り込まれていた妹旭(あさひ)が重病になり、名古屋弁丸出しの母親(大政所/おおまんどころ)や秀吉たちがいる聚楽第へ療養にくる。
 しかし旭は、看護のかいなく、秀吉ら家族に見守られて死ぬ。

 その翌日、秀吉は竹千代を元服させ、「秀忠」と命名する。
 
 天下統一をもくろむ秀吉は、北条氏を滅ぼそうとして家康らと小田原攻めを敢行する。

 秀吉は22万もの軍勢で小田原城を包囲するが、北条氏は1年分の兵糧を用意して長期戦に備えた。

 秀吉は、小田原城と近距離にある石垣山にわずか2か月半で城を築かせ、完成と同時に小田原城側の木を一気に伐採させたので、一夜にして城が築造されたかのイメージを北条側に与えた。

 その城で、秀吉は千利休に茶を立てさせるなど余裕を見せ、茶々まで呼び寄せた。
 そのとき江は、茶々についていくのである。

 そして江は、秀吉と千利休がのっぴきならない関係になる事件現場に居合わせる。
 
 ――といった内容であった。


「秀吉は、なぜが茶々を戦場(小田原)に呼んだのか?」を推理する

 小田原攻めのとき、秀吉が茶々を呼び寄せた理由は何か? 

 ▼理由その①――中国、四国、九州と平定し、いくさに自信があったから。
 秀吉は、水攻めとか兵糧攻めが得意。いくさを仕掛けなくても、北条氏は降伏してくると高をくくっていたから、千利休を呼んだり猿楽師を呼んだりする余裕すらあった。

 ▼理由その②――1つは、若い茶々の体がほしくなったから。
 長期戦になって、好色の血が騒ぎだし、20歳を過ぎたばかりの若い茶々の体が目の前にちらつきだし、茶々を呼び寄せた。

 箱根は温泉が湧く場所なので、秀吉は陣地の近くに岩風呂を掘らせ、そこにつかって英気を養った。

 家康ら諸大名だけでなく、兵たちにも入浴を許可し、心身ともにリラックスさせたといわれており、その跡がいまも残っている。

 「子宝の湯」と呼ばれる温泉が全国各地にあるが、秀吉は、
 「この湯に茶々と一緒に入れば、二人目の子どもが授かるに違いない」
 と考えて、茶々を呼んだのだろう。

 ▼理由その③――茶々とおね(北政所)の仲たがいを心配したから。
 秀吉が小田原から北政所(おね)に送った手紙が残っている。

 それによると、「茶々にこちらへ来るようにおまえからいってくれ」と、おねに頼んだことがわかる。

 茶々に直接手紙を出して呼び寄せると、おねをないがしろにしたことになり、波風が立つ。
 そうなることを茶々が懸念したとすれば、まだ1歳になるかならないかの赤ん坊の世話を理由に小田原行きは断るだろう。

 そこで秀吉は知恵を絞り、正室のおねから茶々に命じるかたちを取らせたのだ。

 秀吉に限らず、男は誰でも、正室と側室、あるいは側室同志が嫉妬の火花を散らしたり、喧嘩したりすることは好まない。仲良くやってもらいたいと思っている。

 正室も10数人いる側室も、誰ひとりとして妊娠しなかったから、そういう秩序が保たれてきた。
 おねは、信長から手紙(現存)で、
 「おねは、美人で、よくできた女房。秀吉にはもったいない」
 と、ほめられるほどふところが深かった女なので、
 「自分は子どもができないから、側室の誰かが秀吉の子を生むのは仕方がない」
 と思ってきたが、いざそれが現実のものとなり、しかも世継ぎを生んだのが茶々となると、それまで考えてもみなかった複雑な感情に支配されたのではないか。

 茶々に秀吉の愛情が注がれていくのを見ると、心穏やかではなかったろう。

 秀吉は、「人たらし」といわれるくらい、人の心を読むのがうまい男だったから、糟糠の妻の心理がわからぬはずはない。

 「わしがそばにいて間に入っていれば、おねと茶々の仲はうまくいくが、いないと不安だ」
 と思って、茶々とおねを引き離そうとしたのかもしれない。

 ▼理由その④――おねの「母性本能を刺激する」ため。
 茶々とおねを一時的に引き離すことで得られるメリットは、2人の仲が険悪にならないようにするということ以外に、もうひとつあった。

 「赤ん坊をおねに預けることで、彼女の母性本能を目覚めさせよう」
 という狙いだ。

 おねは、もともと母性本能が人一倍強い女性で、包容力があったから、やんちゃな秀吉を受け入れてきた。
 秀吉は、彼女のそんな点をうまく利用することを思いついたのではないか。

 「捨て子は育つ」といわれていたところから、秀吉が「捨」(すて)と命名した茶々の最初の赤ん坊は3歳で死ぬが、茶々は続いて2番目の息子秀頼を生んで秀吉を喜ばせる。

 のちに秀吉が秀頼に出した手紙には、茶々のことを「おかか」、おねのことを「まんかか」と書いているので、最初の子どもにもそう呼ばせていただろうと推測できる。

「おかか」の「かか」は「カカア殿下」などというときの「かか」つまり「母」であり、「まんかか」の「まん」は北政所の「まん」である。

どちらも「かか」と呼ばせていたのだ。
赤ん坊に「まんかか」と呼ばれて悪い気がする女はいない。

こういうやり口で、秀吉は「正室」のおねと2人の子供を生んだ「準正室格」の茶々の仲をうまく取り結んだのではないか。

――というのが、私の推理である。


〝一夜城〟石垣山城のなぞ

 小田原の北条氏を攻める戦略を練った秀吉は、天正18年(1590年)3月に京都を発ち、4月に箱根に至り、早雲寺に本陣を構えるが、それと同時に小田原城から3キロしか隔たっていない山の上に石垣を使った城(石垣山城)を築かせた。

 不思議なのは、小田原城を至近距離で眼下に見おろすことができるこの山を、土地勘のある北条氏がなぜノーマークにしていたかだ。

 秀吉は、石垣を築くのに「穴太衆」(あのうしゅう)と呼ばれる「石工職人集団」を使い、6月末に城を完成させると、北条氏側の山の木を一気に切り倒させた。

 小田原城から見上げると、一夜にして城が出来上がったように見えたので、「一夜城」と呼ばれることになるが、その威容を見て、北条氏は、
 「一体、いつのまに!?」
 と驚き、戦意を喪失したといわれている。

 しかし、そのときまで北条軍が築城にまったく気づかなかったというのはおかしい。
 すぐ近くの山の上で毎日工事をしていたら、いやでも作業音が風に乗って聞こえてくる。
 北条勢はわかっていても、城を包囲されていて動けなかったのだ。

 一夜城といえば、信長時代の大垣の墨俣(すのまた)城が浮かぶ。

 時代は遡(さかのぼ)る。
 信長は、斎藤道三(さいとうどうざん)の死を契機として美濃に攻め入る計画を立て、その拠点となる城を築くように部下の佐久間信盛(さくまのぶもり)に命じたが、信盛は失敗。

 次いで柴田勝家がその任に当たるが、同じく失敗したので、秀吉にお鉢が回ってきた。

 秀吉は、その地域に顔がきく蜂須賀小六(はちすかころく)の指揮で「川並衆」(かわなみしゅう)を総動員し、わずた数日で城を完成させたといわれている。

 私が小学2年生の頃に読んだ子供向け雑誌に「太閤秀吉」の漫画が付録としてついていた。
 そのマンガで唯一覚えている個所は、秀吉がでっかい板に城の絵を描かせて、それを夜のうちに敵から見えるように立てたというところである。

 実際に彼がやったのは、そんないいかげんなことではなかった。
 「川上で製材し、組み立てるだけにした材木を川に流し、それを川下で拾い上げて組み立てる」
 というプレハブ式の工法を取り入れ、敵に工事を妨害されることなく、短期間で築城するのに成功したのだ。

 秀吉は、「サル」と呼ばれたが、それは、顔がサルに似ているだけでなく、田舎育ちだったから子供の頃からまるでサルのように山や川などを自由に駆け回り、山野の地理に詳しかったという意味もあったのではないか。


「江も小田原へ行った」とするNHKの解釈はおかしい

 赤ん坊を戦場へ連れて行くわけにはいかないから、茶々は赤ん坊を北政所に預けて小田原へ向かう。これは歴史的事実である。

 NHKが問題なのは、「そのとき江もついていく」という設定にしていることだ。
 資料が残っていないので、江がついていった可能性はゼロとまでは断言できないが、可能性はきわめて低いと私は考えている。
 その理由を以下に記そう。

 子どもがいない北政所ことおねは、茶々が男の子を生んだとき、心底から喜んだかどうか。

 表面的には跡継ぎが生まれたことを喜んだかもしれないが、それが本心であるかどうかはわからない。
 おねの気持ちは第三者にはわからないことなのだ。

 一方、茶々の気持ちはどうか。

 世継ぎを生んだことで、茶々が存在感を強め、発言力を増していることを、おねが何とも思っていないはずはない――そう考えると、血のつながった江が赤ん坊のそばについていてくれる方が、茶々としては安心である。

 江には京都に残ってもらって、赤ん坊の様子を細かく手紙で報せてもらいたい、と茶々は考えたのではないか。

 NHKは、江を大事な場面の目撃者にするために、江を好奇心の強い女にし、いろんな歴史的事件に繰り返し関わらせ、小田原攻めに際しても、当時17歳前後の江を茶々に同行させた。

 資料が残っていないからどう解釈するのも自由だが、ドラマの展開に都合がいいように、江を歴史の証人に仕立て上げる手法は安易すぎないか。
 
 江が、未来の夫となる徳川秀次と渡り廊下で「言い合い」をするという設定にしても同様だ。


江の手紙は2通しか残っていない――初に出した手紙 

 江の自筆の手紙が公開されている。岐阜市歴史博物館で、6月14日(火)から7月10日(日)までの期間だ。

 江の書いた手紙で現存するのは、50歳の頃に次姉の初(常高院)に宛てた2通しかない。

 その手紙は常高院の菩提寺の栄昌院(岐阜市)に伝えられてきたが、昨年、岐阜市歴史博物館に寄贈されたのである。(4月~5月に福井県美術館でも公開されたが、そのときは1通だけだった)


手紙から江の性格を推理する

 たった2通、しかもどちらもそれほど長くはない文面から、江や初の性格を分析するのは無理があるが、それを承知で推理してみる。

 江が初に出した手紙の一通の出だしが、
 「またの御ふみ」
 となっていることから、江と初は頻繁に手紙のやりとりをしていたらしいことが推測できる。

 初は子どもに恵まれなかったので、江の娘を養女にもらっており、江に感謝していた節が感じられ、江にこまめに手紙を送っていたように思える。

 江の文面からは、性格のきつさは伝わってこないが、筆跡からは強い性格というか強い意志の力が感じられる。


江の孫娘は女帝になる

 江の手紙のなかに、
 「ちうふけ」
 という病気を患っている初を気づかうくだりがあるが、「ちうふけ」とは中風(ちゅうふう)のことで、脳卒中の後遺症で手足が不自由になっている状態をさす。

 江が初にその手紙を出した当時、江の息子や娘はどうなっていたか。

 長男家光は、3代将軍。
 長女和子(まさこ)は、14歳で入内して25歳の天皇(後水尾天皇)の女御となっていた。

 江は天皇の義母だったのである。

 それだけではない。
 和子の娘はのちに女帝(明正天皇)となるのだ。
 江は天皇の外祖母ということになる。
 ただし、江は初より先(寛永3年/1926年)に死んでしまうので、娘が女帝になるのを見届けられなかったが、初は寛永10年(1633年)まで生きて、天皇のおばという栄誉に浴すことになる。


千利休切腹の理由は不明

 大河ドラマのなかの江は、「どこにでも顔を出し、シャシャリ出る性格」という設定にしてあって、歴史的な場面では大体、その現場にいて目撃する。

 秀吉と利休の間に決定的な亀裂が走る現場にも、江は、たまたま居合わせることになっている。
 「たまたま居合わせる手法を多用すること」を、〝ご都合主義〟という。

 ドラマでは、秀吉が千利休の部屋へお茶を飲みに行くというので、江もついてゆくと、家康が先客としていた。

 秀吉、家康、石田三成がいるところに江が同席し、ドラマは進むのだ。

 千利休が秀吉にうとまれ、切腹を命じられた原因については、
 「好色な秀吉が、『娘を側室に差し出せ』といったので、それを拒否し、怒りを買ったという説」
 「利休が、秀吉の許可なく勝手に大徳寺の山門に利休自身の木像を祭らせたとする説」
 などいろいろいわれているが、どれが真実かは特定できていない。

(城島明彦)

2011/06/17

ベーカリー・カフェ「PAUL」(ポール)で、ギイ・ベアールの「河は呼んでる」が流れた

 昨日(6月16日)、久しぶりに中原美紗緒が日本語で歌っているシャンソン「河は呼んでる」を繰り返しBGMとして流しながら、仕事をした。

 仕事が終わって、夕方、郵便局へ行く用があり、帰りに駅前のベーカリー・カフェ「PAUL」に入った。

 サンドイッチとコーヒーを注文して席に着いたとたん、店内放送から「河は呼んでる」の原曲であるギイ・ベアール(Guy Béart)の歌声が流れた。

 あまりの偶然に驚いてしまったが、よく考えれば、PAULはフランスでチエーン展開している店。

 古いシャンソンが流れても、別に不思議ではないと思いながらも、私には霊感のようなものがあるのかもしれないとふと感じた。

 「河は呼んでる」(原題「L'eau Vive」(ロ・ビーヴ))は、いまから半世紀以上も前の1957年(昭和32年)に日本で公開された同名のフランス映画の主題歌で、世界的にヒットした曲だ。
 
 いまは、「河は呼んでいる」と表記されることが多い。

 この曲を含めて有名なシャンソンはいっぱいあるのに、なぜこの曲が、しかも私が席についたのをタイミングで流れたのか、それも少し前まで家で繰り返し聞いていたということは、単なる偶然では片づけられないような気がしてならなかった。

(城島明彦)

NHK「江~姫たちの戦国」(「父母の肖像」第22回)に異議あり!

第22回のストーリー

 体調を崩してしまったせいか、第22回(「父母の肖像」)の「江」は、面白くなかった――

 茶々は、出産のために秀吉が新築した淀城で、世継ぎの男子を出産し、秀吉を狂喜乱舞させる。

 しかし、秀吉は、聚楽第の門に悪口を落首(落書き)されたことで怒り心頭に達し、門番などぬかりがあった者を多数処刑するという暴虐なふるまいに及ぶ。

 秀吉の跡継ぎを生んだことで力を得た茶々は、亡き父母の法要を営みたいと秀吉に申し出て、認められ、両親の肖像画を描かせて、それをお寺に奉納することになる。

 父母の顔を知らない江姫は、出来上がった絵を見て、これが父母の顔かと胸を打たれる。

 ――こんなふうなストーリーだった。


茶々は正室ではない。「正室待遇」「準正室の側室」が正しい 

 今回もNHKは「茶々は秀吉の妻=正室」と強調していたが、両親の仇である秀吉に肌身を許し、子を生んだ茶々を「正妻」とすることで、読者の共感を得ようとするNHKの思惑がちらつく。

 「北政所」(きたのまんどころ)と呼ばれたおねだけでなく、茶々も正室という解釈は、ある学者の説に拠っている。

 ある学者とは福田千鶴九州産業大教授で、彼女の説は『淀殿――われ太閤の妻となりて』(ミネルヴァ書房)に書かれており、京極龍子らも正室だったとしている。

 「佐竹古文書」と呼ばれるものに「両御台所」とあるのを根拠にしているが、この学者は、「家光も江の子ではない」との異説というか珍説も提唱しており、小説家や市井の歴史研究家ならまだしも、学者としては問題が多い。

 たった一つ、そう判断できる資料があるからといって、強引に決め付けてしまうのが学者の悪いところ。

 いまでも、その女性が正妻ではなく妾であっても、その家の使用人は「奥様」と呼ぶし、親しい人は手紙で「奥様」と書く。
 
 そういう感覚で、茶々を正室のように呼んだ可能性があると考えないといけない。
 学者はどうも頭が硬くてイカン。

 同様に、使用人は、愛人宅を訪れる男が夫ではなくても「旦那様」と呼び、近所の人は「ご主人」と呼ぶ。

 したがって、茶々は、「正室」とはいわずに、、「正室に準じる地位」という意味で、
 「準正室」
 とでもいうべきである。

  正室と正室補は違うのだ。


一夫多妻制とはいえ、序列社会――おね・江は従一位、茶々は従三位クラス

 当時は、上下の身分、序列に厳しかった。序列を無視すると、秩序が保てなくなるからである。

 女性の官位は、江戸時代になると、将軍の生母が従一位で、江は2代将軍秀忠の継室(先妻が死んで後妻となった正室)だったから、死後「従一位」を追贈されている。

 北政所ことおねについては、後陽成(ごようぜい)天皇が聚楽第に行幸した天正16年(1588年)に従一位に叙せられた記録があるが、茶々についての記録はない。これは、茶々が出産する前年のことである。
 (天皇は、天正20年にも聚楽第に行幸した。)

 「2人の正室」というなら、官位も高くないとおかしい。
 
 時代は違うが、家光の側室で5代将軍綱吉を生んだ側室玉(桂昌院)は、〝江の天敵〟春日局の侍女で、生前、従一位。彼女は商人の娘だったといわれている。

 茶々の息子の秀頼は、正二位右大臣だったから、茶々は、せいぜい従三位どまりで、正室おねとは格が違う。

 秀吉は、あの手この手の奇策を考え、天皇を利用しまくった人間だから、世継ぎを生んだ茶々を「正式な2人目の正室」としたいのであれば、官位を高めるための手段をあれこれ講じたはずだが、そういう話は伝わっていない。

 気ぐらいの高い茶々に、秀吉は、
 「お前も正室じゃ」
 といって、ご機嫌を取っていたという程度の話ではないのか。


茶々は政治にシャシャリ出るタイプだった

 「茶々は、『寝間でのおねだりがうまい、したたかな女』、いわゆる〝床上手な女〟だったのではないか」
 と私は推理している。

 そう解釈すると、茶々が秀吉に「準正室」の地位を求めた可能性が高い。

 正室はあくまでも従三位(最終的には従一位)に叙せられている北政所(きたのまんどころ)である「ねね」(おね)であり、茶々は世継ぎの男子を産んだことで「正室に近い扱いの側室」という扱いになっただけだ。
 

秀吉が3姉妹の父母の法要を許したのは、「呪い」を恐れたから

昔の人は、何かよくないことが続くと「誰かの怨霊が祟った」と考えた。

 秀吉は、自分が滅ぼした敵の城主の娘や妻を何人も側室にしているから、「恨まれている」という思いは強かったはずだ。

 いくら戦国時代とはいえ、自分に目をかけてくれた恩人信長が可愛がっていた妹お市の方の夫(浅井長政と柴田勝家)を、二人とも自刃させたばかりか、お市の方も自刃に追い込んでいる。

 秀吉が茶々を側室にしてから、長政かお市の方が夢に出てきたこともあったのではないか。

 特に長政については、「髑髏盃」事件がある。
 信長が、長政の髑髏に金を塗って盃にしたといわれる事件だ。
 もしそれが事実だとしたら、その盃で秀吉も酒を飲むことを強いられただろう。

 そういうことがあれば、ろくな夢は見ない。

 長政の夢を見たとすれば、秀吉は「呪われている」と怯えたろうが、何か口実がなければ法要などできない。

 茶々との間にできた世継ぎが元気に育つためには、長政やお市の方の菩提を弔う必要もあり、また茶々の歓心を買うためにも、秀吉は、浅井長政とお市の方の法要を営ませたのではないか。

 ――というのが私の推理である。

(城島明彦)

2011/06/10

サービス最低! 二度と行きたくない藤本美貴(元モーニング娘。)の焼肉店

 いつもその前を通っている焼肉屋に行ってみた。

 今年の2月26日に横浜市青葉区オープンした「美貴亭」。

 その店のオーナーなのか、ただ名前を貸しているだけなのかよくはわからないが、バス通りに面した店の前には、タレント藤本美貴(元モーニング娘。)のどでかい写真入り看板がいくつも並ぶ。

 外観だけはド派手な店である。
 
 ビルの外階段を登って、2階の入口へ。

 6月10日。金曜日の18時30分の食事時だったが、広い店内に客は1人もおらず、ガランとしていた。

 2人の女の子の店員がいたが、「いらっしゃいませ」の声もない。

 誰もいないから、外から見える席に座って、通行人にPRしてやろうと思って、窓際の席に向かうと、若い男の店員が出てきて、「ここ、ここへ座って」というように入り口と窓の真ん中あたりの小さい席を指さした。

 「あっちじゃまずいのか」
 と私がいうと、
 「ここで」
 と席を指定した。

 ガラ空きなのに、
 「お好きな席へどうぞ」
 と、どうしていえないのか。

 腹が立ったので、
 「じゃあ、いいや」
 といって、そのまま食事することなく外に出、近くのスーパーで肉を買って家に戻り、自分で焼いて食べた。

 あとを追いかけてきて、
 「すみません。どの席でもご自由にどうぞ」
 とでもいえば、また戻っていったと思うが、サービスのイロハも知らない者が店を仕切っているようでは、先は見えている。

 不快千万! 二度と行くものか!

 店が入っているビルの前を通るとき、いつも2階の窓を見て来たが、ほとんど客の姿を見たことがない。

 美貴亭の前に入っていた焼肉店も同様で、そのときも店員の愛想が悪く、私は1回いったきりで、二度と行く気にならなかった。

 こんなサービスの悪い店は、早晩つぶれるだろう! いや、さっさとつぶれた方がいい!


(城島明彦)

2011/06/06

NHK大河「茶々は秀吉の愛人(側室)ではない」は詭弁(きべん) (6月5日の「江~姫たちの戦国」)

「江~姫たちの戦国」(6月5日の第21回)「豊臣の妻」のストーリー

 今回のドラマは――

 「よくも姉上を手ごめにしおって」
 と、直情径行(ちょくじょうけいこう)型の江は血相を変えて秀吉のところへ怒鳴り込んでいく。
 江は、秀吉が嫌がる茶々を力づくで犯したと思い込んだのだ。

 茶々は「自分は側室になったのではない」と弁明したが、男女関係に厳しい江は、それを言下に否定し、「秀吉は父や母の仇、義父の仇」と言い続けてきた茶々の裏切りを激しく攻めた。

 初が嫁ぎ先からやってきて、そんな江を諭す。しかし、江は納得がいかない。

 しかも茶々は妊娠する。(10数人いる側室の誰も妊娠しなかったのに、おかしい?)

 一番ショックだったのは、秀吉の糟糠(そうこう)の妻おね。
 しかし彼女は、冷静沈着なおとなの女。自分に子どもができなかったこともあって、事態を冷静に受け止め、茶々に「さぞや辛かろう」と慰め、こんなことをいう。

 「命を奪われたに等しいお父上やお母上の思いを、茶々殿が秀吉の子を生むことで受け継ぐのじゃ」

 おねは、側室でないと言い張る茶々の気持ちを、こういって援護する。

 「側室ではありません。すでに秀吉の妻。豊臣の家を守るのが私。豊臣の子を生み育てるのが茶々殿。同じ豊臣の妻」

 やがて江も、初やおねに説得されて茶々を許すのであったとさ。

 ――といったストーリーであった。

 茶々が秀吉の女になったことをNHKが強引に正当化しているかのような筋書きで、私は少々白けてしまい、あと味が悪かった。

 初が嫁ぎ、茶々が妊娠し、もうじき江が秀勝と結婚するが、死なれ、徳川秀忠と再婚という展開になり、NHK大河ドラマ「姫たちの戦国」は、第2ラウンドともいうべき「妻たちの戦国」に移って行く。


茶々が「側室でない」などとなぜいわせるのか、理解不能

 NHKは茶々に「私は(秀吉の)側室ではない」といわせたが、それは心情的なものでしかない。

 何といおうが、どう説明しようが、側室は側室。正室ではない。

 秀吉には「おね」という正室(正妻)がおり、彼女がいる限り、茶々は正室にはなれないのだ。

 当時は「一夫多妻制」ではあったが、「正室」は一人で、それ以外は「側室」というケジメがあった。

 正式な婚儀を経て「正妻」となった女性を「正室」といい、彼女が早死にしたり離縁された場合に迎える「後妻」は「継室」といった。江は、最終的には徳川秀忠の継室となる。

 これに対し、「側室」は愛人。
 「正室に子が生まれないときのために用意された、家系を絶やさぬための子供を生む女」だから、必ずしも由緒正しい生まれでなくてもよい。
 
 「嫡子」(ちゃくし/長男)があとを継ぐことになっていたが、平均寿命が短い時代であり、いつなんどきいくさが勃発して死ぬかもしれない物騒な世の中だったから、城主もその家来たちも、お家存続のために側室(愛人)を何人も抱(かか)え、男の子をたくさん生ませる必要があった。

 秀吉のように天下を統一し、権力を握った人間は、自分の血を引く子どもや孫に自分の地位を引き継がせるために、男子をたくさんつくる必要があった。

 しかし、秀吉は子供に恵まれず、あせりまくって、たくさんの側室を抱え込み、夜(よ)を日(ひ)に継いで子づくりに励んだが、正室はおろか、茶々以外の側室は誰も妊娠することがなかった。

〝はげネズミ〟秀吉は、子種がなかったか、子づくりの仕方をカン違いしていた節がある、と私は思っている。

 「せっせ、せっせと房事(ぼうじ)を重ねまくると子どもができる」
 と彼は信じて疑わなかったようだが、逆である。

 頻繁にセックスすると、精液の量が減ることで精子の絶対数も減り、妊娠しづらくなってしまう。
 そのことを秀吉は知らなかったのだろう。このことは、別の折に述べる。

(城島明彦)

2011/06/01

「茶々も秀吉を好いていた」というNHKの設定では、視聴者の共感を得られない


第20回「茶々の恋」は安っぽいメロドラマだった

 茶々が秀吉の側室になっていなかったら、日本の歴史は大きく変わっていただろう。
 炎上する大阪城内で息子の秀頼と一緒に自害する必要もなかった。

 その意味では、5月最後の週に放送された「江~姫たちの戦国」の内容は、連続ドラマの前半の大きな山場だったといえる。

 第20回のストーリーは、ドラマのタイトルに集約されている。
 「茶々の恋」

 このタイトルだけ見た時点での解釈は、2通りになる。
 ①「そうか、よかった。茶々はヒヒジジイの秀吉の手を逃れて、別の若い男に恋するんだ」
 ②「茶々が、ハゲネズミの秀吉に恋するというのか? かんべんしてよ」

 その第20回のハイライトシーンは――

 京極高次(きょうごくたかつぐ)のもとに輿入(こしい)れした新婚の初から、幸せいっぱいの心境を綴った手紙がどんどん届き、江は喜んだが、秀吉に側室(妾)になってほしいと迫られている茶々の顔色はさえなかった。

 江は、例によって、側室と戯れていた秀吉のほっぺたをひっぱたいた茶々の心境を、京極龍子ら何人かの人に取材して回る。
 「殿下を憎からず思うておいでじゃ」
 と千宗易らにいわれ、江はショックを受ける。

 茶々は、愛を受け入れてくれと秀吉から繰り返し迫られるが、断り続けていた。
 すると、秀吉は、
 「あなたを諦めるために、公家の名門万里小路(までのこうじ)家へ輿入れしてほしい」
 と話す。

 諦めるといわれて茶々は動揺し、
 「幾度か断られたぐらいで諦めていいのか」
 といったり、
 「なぜ力づくで奪おうとしないのか」
 と自分の方から愛を告白し、秀吉と抱きあう……。

 ――といった内容だった。

 「『親の仇』だの『死ぬまで許すことはない』などと、それまでさんざん秀吉に毒づいておきながら、あの茶々の心がわりはいったい何なのか!?  そんなのあり!? 納得がいかない」

 と、反発を覚えた視聴者は、全国にわんさかいたのではなかろうか。


茶々はなぜ秀吉の側室になったのか

 秀吉を「親の仇」といい続けてきた茶々が、なぜ秀吉の側室になったのか、疑問に思っている視聴者は多いようで、私のブログへのアクセスは、29日は4000を越えていた。

 茶々が、なぜ秀吉の妾である側室(妾)になったのかという理由は、おおげさな言い方をすれば、歴史のなぞである。

 徳川政権下の江戸時代に書かれた『太閤記』とか『絵本太閤記』などは、徳川家に都合の悪い点は書かないから、必ずしも真実を伝えてはおらず、実際にどういう経緯があり、茶々がどういう心境の変化で秀吉の側室になったのかを記録した歴史的資料は存在しないといえる。

 したがって、どう推測しようと自由である。しかし――

 茶々は秀吉の子どもを2人も生んでいるという歴史的事実があるので、
 「そういうことはあったかもしれない」
 と制作側が考えても、説得力のある描き方をしなければ、視聴者側はそうは思わず、
 「嘘っぽい」
 「ご都合主義的なつくり話じゃないか」
 と思ってしまうことになる。

 茶々が「親の仇」とさんざん口にしてきた秀吉に恋したという解釈は、レディース・コミックならそれでもいいが、NHK大河ドラマともなると人々を納得させるのは難しい。


茶々の心境を、八代亜紀「雨の慕情」の心境としたNHKの安易さ

 「秀吉に力づくで処女を奪われ、死のうかと思いつめたが、思いのほか秀吉がやさしくしてくれるので、だんだん憎く思わなくなり、そのうちに女としての性的な喜びも感じるようになり、年月を重ねているうちに妊娠し、子供を生むに及んで真の夫婦として意識するようになった」 
 という解釈も成り立つ。

 つまり、「初めに体の関係ありき」という設定だが、これでドラマをつくるとこれまた視聴者の反発をくらうし、秀吉だけでなく、茶々への反発も起きるから、NHKはそういう解釈はしづらい。

 秀吉が力づくで茶々を犯さなくても、
 「3姉妹が面倒をみてもらってきたという負い目が茶々にはあるのだから、茶々は秀吉の要請を断りづらい立場になっている」
 という解釈も不自然ではない。

 弱みにつけいられ、体を自由にされても文句はいえない。茶々はそういう立場にあったのだ。
 しかし、そういう解釈もまた、NHKはしづらい。
 
  ♪ 憎い 恋しい 憎い 恋しい めぐりめぐって 今は恋しい

 これは、よく知られている阿久悠作詞の名曲の一節だが、NHKの解釈はこれである。
 仇の秀吉に対する茶々の心境の解釈としては、あまりに安易ではないか。


秀吉のベッドは史実だが、演技が嘘っぽい

 「江~姫たちの戦国」には、実在した人物がたくさん登場する物語で、史実にのっとってドラマをつくってはいるが、女性陣については資料がきわめて少ないので、当然推測が入る。

 史実にないところをどうやって補うかで、歴史ドラマの重み、リアリティに差が出る。

 大河ドラマに出てきた「大阪城の金ぴかの茶室」や「天蓋のついた秀吉のベッド」などは、実在する歴史的な資料に基づいて復元しているが、秀吉がベッドでドタバタ調の演技をすると、視聴者は「つくり話」ではないかとつい思ってしまう。


万里小路家との縁談はつくり話

 NHK大河では、茶々が秀吉の愛を受け入れようとしないので、秀吉は茶々に、
 「そういうことなら、いっそのこと、公家の名門、万里小路(までのこうじ)家へ嫁に出そう」
 と話すシーンもあった。

 これは古文書に記載されている事実ではないから、つくり話でもあり、実際にあった話かもしれない。

 ドラマとは直接関係ない話だが、万里小路という名字を耳にして、友人の秘書をしていた女性を思い出した。

 「までちゃん」
 と呼んでいたその女性は、正真正銘の万里小路家の血を引くお嬢さんで、電話ではずいぶん話もしたし、事務所を訪ねたときにも雑談したが、ごく普通の明るい人だった。

 彼女は、銀行に行って順番が来て、
 「万里小路さま!」
 と名前が呼ばれると、必ずじろじろ見られるので、いやだという話を聞いたことがある。
 もう20年近くも前の話だ。

 彼女は、その後、「結婚することになったので、名字が変わる」といって喜んでいた、と私の友人が笑っていた。


茶々の心境は、社長に恋するOLの気持ちか

 サラリーマンやOLを経験した人なら、勤務先の会社とか取引先の会社で、役員と秘書の女性が結婚した話のひとつやふたつは知っているだろう。

 何万もの社員を擁する会社の年配の社長を、その会社の若いOLが「素敵!」と感じ、憧れているケースは掃いて捨てるほどある。

 ましてや、その社長がこまめで気配りができ、出張に出れば必ず手紙を送ってきたり、帰ってくれば手みやげを忘れないという人間なら、周囲の女性たちは、たとえその社長の顔がサルっぽくても、次第に憎からず思うようになる可能性はある。

 その社長を知らない外部の人間から見たら、道で会っても「ただの爺さん」に過ぎないが、その会社の関係者から見ると後光がさしているのである。

 金も権力も人事権も持っているので、その社長に目をかけられているというだけで、社内での立場は違ってくる。

 社長の奥さんは美人。若い頃からその社長を公私にわたって支えてきたが、その社長は無類の女好き。しかも、美人の若い娘が大好きときた。次々と愛人にしている。

 奥さんは、
 「こまったものだが、これは病気だ」
 と諦めている。
 いってみれば、それが秀吉である。

 その男の愛人になれば、いい暮らしができるし、権力も手に入り、自尊心を満足させることもできる。

 しかし、その男は、自分の父が経営していたライバル企業をつぶし、父だけでなく母をも死に追いやっている。

 けれど、生きていかなければならないから、その男の世話になるしかなかった。

 そういう男が好きな女性と、どうにも好きになれない女性がいるが、茶々は前者の方だったというNHKの設定だ。


お嬢さま育ちの茶々は贅沢な暮らしに慣れていた

 茶々が「親の仇」である秀吉の妾となり、さらにその子供まで生んだのは、なぜなのか!?
 この問いに対する正解はないのだから、推理するしかない。

 「茶々がお嬢さまで、ぜいたくざんまいの暮らしを望んだ」
 ということが、側室になったかなり大きな理由となるのではないか。

 心底から「親の仇」と憎んでいるのなら、そんな男の妾になどならずに、きっぱりと自害して果てるという手もあったはずだが、茶々はその道は選ばなかった。

 茶々ら3姉妹の父浅井長政(あさいながまさ)は、信長ほどではなかったけれど、一国一城の主(あるじ)だったから、茶々は生まれたときから、
 「花よ、蝶よ」
 と、かしづかれて育った。

その城は滅ぼされ、父が自害しても、信長という権力を握ったおじがいたおかげで、母は生き延び、茶々たち3姉妹はやはり「お姫さま」として遇された。

父を死に追いやった実行犯は秀吉だが、命じたのは信長であるから、本来ならおじ信長に対する3姉妹の感情は、八代亜紀の「雨の慕情」と近いものがあったはずだ。それは――

♪ 憎い 好き 憎い 好き めぐりめぐって 今は好き

 愛憎相半(あいなか)ばする3姉妹のおじだったが、そのおじもやがて部下明智光秀の下剋上に遭って殺害されたが、今度は母の兄の織田信包(のぶかね)という優しい別のおじが母子ともども守ってくれ、やはり「お姫さま」として遇された。


母の再婚先でも茶々はお姫さま

 その後、3姉妹の母が、信長の部下だった20歳も年上の福井の城主柴田勝家(しばたかついえ)に嫁いだので、茶々もついていったが、そこは田舎ではあっても、やはり「お姫さま」として丁重に扱われた。

 ところが、義父勝家は秀吉と戦うことになり、負けてしまい、母と義父は自害してしまった。

 茶々ら3姉妹は年端(としは)もいかない女の子だったから殺されることもなく、炎上する城から秀吉の手によって助けられ、秀吉のもとに引き取られた。

 江は、その年に生まれたばかりで、落城時のことは何ひとつ覚えていないが、茶々はすべてを覚えている。

 母亡き後、茶々は長女である自分が2人の妹を守っていかなければならないと強く思っただろう。

 その責任感が、茶々を苦しめることになる。


秀吉に庇護されたお嬢さま生活

 秀吉は、自分を取り立ててくれた主君信長が死んでも、生前と変わることなく神のごとくに崇拝し、しかも信長の妹だったお市の方にあこがれ続けていた。

 「戦国一の美女」
 といわれたお市の方は、秀吉にとっては〝近寄りがたい永遠のマドンナ〟だったのである。

 彼女の容貌をもっとも引き継いでいると評判だったのが茶々だったから、成人していく茶々を見ていると秀吉のスケベ心は騒ぎだし、何とかして自分の女にし、信長やお市の方の血を引く男の子をもうけたいと考えた可能性が高い。

 「人たらし」といわれるように、秀吉は、男も女も攻め落とすのがうまかった。
 よく働く上に、こまめで、しかも憎めない性格だったから、気難しい信長にも気に入られた。

 ひょうきんな性格で、顔がサルっぽかったから女性に警戒されることもなく、それを逆手に取って美女を次々と陥落させた。

〝若くて世間知らずのお姫さま〟茶々を落とすことなど、秀吉に取ってはお茶の子さいさいだったろう。


愛が憎しみに変わることはあるが、憎しみが愛に変わることがあるのか?

 「愛情」の裏返しが「嫉妬」というかたちをとることは、ままある。
 愛を裏切られたり、誠意が通じなかった場合は、それが怨みや憎しみに変わる場合はよくある。

 茶々の場合は、どうだったのか。

 茶々は秀吉を、
 「どこの馬の骨ともわからない百姓から成り上がった金ピカ男」
 「自分のおじ信長に取り立てられた、一介の武将に過ぎなかった男」
 「口がうまい、女好きの男」
 と軽蔑してはいても、自分たち3姉妹を庇護してくれ、贅沢ざんまいの毎日を送らせてくれている後見人であり、恩人でもある点は否定できないし、感謝する気持ちは当然あったはずである。

 そういう境遇の3姉妹であるから、秀吉に嫌われたら生きてはいけなかったのだ。


 秀吉を憎みながら側室になったとすると、彼女は浮気しただろう

 「十数人もいたほかの側室に子どもができないのに、茶々だけ二度も妊娠したのはおかしい。誰か別の男の子どもだったのではないか」

 という説が根強くあるのは、茶々が秀吉の側室になった理由が釈然としないからであり、茶々は復讐のために秀吉の妾になったという推理も成り立ってくるのである。

 この話は、別の機会に書く。
 
 (城島明彦)

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