江姫をめぐる10のなぞ――江姫は、男をダメにする〝さげまんの女〟だったのか!?
「江~姫たちの戦国」(第18回)のテーマは「3姉妹の愛のかたち」
5月15日のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」(第18回「恋しくて」)は、浅井3姉妹の愛を描いた内容で――
天正14年(1586年)夏、秀吉は九州へ出征し、平定。翌年春、大阪に戻ってくると、太政大臣となり、豊臣姓を与えられた。天下統一には、小田原の北条氏攻めを残すだけとなった。
そうした動きと併行して、お年頃になってきた3姉妹は、かたちの違う愛と出会うことになった。
初は、秀吉の側室(愛人)のひとり京極龍子(きょうごくたつこ)の弟高次(たかつぐ)にひとめ惚れする。
まだ20歳前の茶々を、50歳のじいさま秀吉は「思い人(びと)なってほしい」とくどくが、「親のかたきの愛人にはなれない」と断る。
次回予告編では、初が「どうしても京極高次と結婚する」と言い出し、秀吉はそれをかなえる替わりに茶々に側室になるよう強要するような話になっていた。
――さて、どうなりますか。来週のお楽しみ。
大河ドラマでは、3姉妹の話を短い時間のなかで巧みに錯綜させて描いており、わざとらしさがまったくないとはいえないが、評価できると思ったのが、私の感想。
本ブログは、ドラマとは違う視点の話である。
江姫は男運が悪かったが、自身も、男を不幸に陥れてしまう哀しい運命を背負っていた!?
素朴な疑問 1 「江は、なぜ結婚相手を二人ともダメにしたのか!?」
江姫が何か事を起こさなくても、相手の男を不幸に陥てしまうという「悪い星の下に生まれた宿命の女」。それが江だったと推測できる。
▼さげまんの証拠①……最初の結婚相手(佐治一成)は、秀吉に強引に離婚させられ、しかも城から追放された。佐治一成は、江姫と別れたあとは、派手ではなかったが、武将としてのそれなりの人生をまっとうした。
▼さげまんの証拠②……2度目の夫(豊臣秀勝)は、秀吉の養子で秀吉の後継者と目され、子ども(完子・さだこ)にも恵まれたが、その子が誕生した年に夫は20代の若さで病死。
(江が生まれた年に実父の浅井長政は自刃して果てており、歴史は繰り返したのだ)
素朴な疑問 2 「江姫は、なぜ〝バツ2〟で娘を茶々に預けて将軍家へ嫁いだのか!?」
結論を先にいうと、江姫は、秀吉の政略の犠牲となったのである。
秀吉は、「家康と親戚関係を結ぶ目的」で、未亡人になって4年目の江姫を、徳川家康の息子秀忠に嫁入りさせたのだ。
江姫は、娘完子を茶々に託して江戸へ嫁ぐが、茶々は養女にした完子を自分の娘のように大切に育て、江姫を安心させる。
のちに、大阪城落城が迫ると、江姫は将軍家の使いとして大阪城へおもむき、何とかして茶々の命を救おうと尽力するが、茶々は自害する。江姫と茶々の間には、そういう哀しい歴史的事実がある。
2人の運命の糸は、秀吉の野望に操られたといえる。
素朴な疑問 3 「江姫と秀忠は、旧知の間柄だったが、いつ知り合ったのか!?」
天下統一の野望に燃えた秀吉は、天正18年(1590年)に小田原の北条氏を攻め滅ぼし、その夢を実現させるが、そのいくさの前に、徳川家康が裏切らないように跡取り息子の秀忠を人質に取っていた。
その結果、秀忠は大阪で江たちと一緒に暮らすことになったのだが、年の差がありすぎ、恋愛の対象とはならなかった。
江姫 天正元年(1573年)生まれ
秀忠 天正7年 (1579年)生まれ
人質となったときの秀忠は10~11歳。江は16~17歳。
江姫の2番目の夫秀勝(ひでかつ)が死んだのは文禄元年(1591年)だから、秀忠少年が大阪城に連れてこられたとき、未亡人になったばかりの江(18歳前後)は、1歳になるかならないかの1人娘の完子(さだこ)と暮らしていたことになる。つまり――
少年秀忠から見た江は、若い母親。
江姫から見た秀忠は、まだ尻の青いガキ。
そういう男女が、互いに恋心をいだきあうなどということは現実味に欠ける。
しかも、秀忠は、秀吉にいわれて天正18年(1590年)に織田信雄の娘と最初の結婚をしている。
秀忠は10歳か11歳だったから、ままごと遊びのようなものだったが、その結婚は、秀吉と信雄が仲たがいしたことで破局となっていた。
秀忠はバツイチだったのだ。
江姫は、初婚も再婚も自分の意志ではなく、秀吉が勝手に決めた政略結婚だったが、3度目も先述したように同じだった。
素朴な疑問 4 「次女の初だけがどうしてまともな結婚ができたのか!?」
浅井3姉妹のなかでまともな結婚をしたのは、初だけだ。
秀吉は、どうして初や江を側室にしようとしなかったのか。
好色な秀吉は、信長の部下になったときから憬れ続けていた信長の妹「お市の方」によく似た面影の茶々にぞっこんだったが、さすがに3姉妹全員に手を出すのはためらったからなのか、それとも、初や江は器量がよくなかったから触手が動かなかったのか。
初は、秀吉の側室京極龍子(きょうごくたつこ)に気に入られ、天正17年(1587年)頃に龍子の弟高次(たかつぐ)と結婚する。
3姉妹の従姉京極龍子は美人で、その美貌に秀吉が参ったといわれていることから考えると、実物の江や初は、上野樹里や水川あさみのような美人ではなかったのか。
初や江が美人だったとしても、秀吉の好みのタイプではなかったのかもしれない。
秀吉は気に入っても、初や江の「好き」「嫌い」がハッキリしていて、「嫌なものは嫌」とはっきり断ったからなのか。
「秀吉は茶々にぞっこんだったから、初と江も側室にしてしまったら、茶々の気持ちが離れていくだろうから、それを恐れた」
というのが、まっとうな理由かもしれない。
初と高次が結婚したときの年齢は、
初 17歳ぐらい。
高次 20代半ば。
NHKドラマでは、初が大阪城を訪ねてきた高次と初めて会って、ひと目惚れするように描かれていたが、それ以前に会っているはず。
龍子、高次の母は、江や初の父親浅井長政の実の姉で、いとこ同士なのだから、一度や二度はどこかで顔を合わせていると考えた方が自然である。
初と高次は夫婦仲がよかったと伝えられているが、子どもには恵まれず、〝多産系〟の江姫が生んだ娘のひとり初姫を養女にもらって、夫が側室に産ませた息子と結婚させることになる。
素朴な疑問 5 「茶々は、いつ頃、秀吉の愛人(側室)になったのか!?」
天正19年(1591年)5月、21歳の茶々は、50歳を過ぎていた秀吉の子鶴松(つるまつ)を生むが、この子は3歳で死ぬ。
この年は、秀吉の激動波乱の1年となる。
朝鮮出兵、母の死、後継者秀勝(養子で江の夫)の死と続き、失意のなかで「関白」の位を秀次(ひでつぐ)に譲り、自らは「太閤」となる。
鶴松に死なれて、「もう子どもは無理」と秀吉が思ったその2年後の文禄2年(1593年)、茶々は2人目の息子秀頼(ひでより)を生む。
茶々がいつから秀吉の愛人になったのか? 先述したように、天正19年(1991年)5月に最初の子を出産しているのが判断基準となる。
最短で、その10か月前。つまり、天正18年ということになる。
素朴な疑問 6 「なぜ江は、気の弱い年下男と結婚したのか!?」
江姫が秀忠と結婚するのは、茶々が秀吉を生んだ2年後(文禄4年/1595年)である。
新夫 秀忠 10代半ば。
新婦 江 20代前半。
江姫は気性の激しい女で、自分勝手な行動をする血液型B型の女。
対する秀忠は、父親家康が偉大すぎるせいか、どうにも気が弱い血液型O型と思われる男。
「気の弱い年下男」と「気の強い姉さん女房」の取り合わせで、うまくいく、と江は思ったに違いない。
かわいい盛りの愛娘完子(さだこ)と別れて関西から関東へ行くのはつらかったろうが、秀吉の命に背くことはできない。娘を茶々に預けて、江戸へ嫁いでいったのだ。
娘との悲しい生き別れが、彼女の後の運命を左右することになるのだ――。
素朴な疑問 7 「なぜ、江はしきたりを破ってまで次男に授乳したのか!?」
江姫は、秀忠と結婚して9年目(1604年)に男子を授かる。
彼女は30歳の手前にさしかかっていたが、尻に敷いている夫はまだ20代半ばだった。
「江、でかした」
と家康は思ったに違いない。
秀吉は、すでにあの世へ旅立っていたので、この朗報を知ることはなかった。
江姫が生んだ男の子には「世継ぎ」となる意味を込めて、家康と同じ幼少名「竹千代」が授けられた。
江姫が世継ぎを生んだ翌慶長5年(1605年)、家康が将軍職を秀忠に譲り、江は「ファーストレディ」になるのだ。
文禄4年(1595年) 徳川秀忠と結婚
慶長4年(1604年) 長男竹千代(たけちよ)を出産 (9年目に子どもを授かる)
慶長5年(1605年) 家康、将軍職を江の夫秀忠に譲り、大御所となる。秀忠20代半ば。
慶長6年(1606年) 次男国松(くにまつ)を出産。江姫、自分で乳を与える。
〝多産系〟江姫は、続けて次男を生み、幸せいっぱいに見えたが、長男を産んだ時点ですでに事件は起きていた。
権力欲にかられた乳母(うば/めのと)の出現だ。
江の長男竹千代(のちの3代将軍家光)に乳を含ませる役割は、過去のしきたりに従い、乳母がやっていたが、その乳母が政治力にたけた〝とんでもない女〟だったのである。
「長男竹千代が、実母の自分よりも、授乳役にすぎない乳母に異様になついている」のを知って、江は危機感をつのらせ、神経をすり減らすようになる。
江姫とそりが合わない乳母の名は、お福。後の「春日局」(かすがのつぼね)である。
お福は、政略家で、連れてきた自分の長男を竹千代の遊び友だちにするという手も使った。
「口が達者で、策略にたけ、おまけに男まさりの行動力がある厄介な女」
と、江姫は思っただろう。
お福でこりた江は、2年後に次男を生むと、秀忠を味方につけ、慣例を破って自分で授乳するのである。
しかし、時すでに遅し。
お福は、世継ぎに授乳した立場を利用して、政治的な発言力を強めていたのだ。
素朴な疑問 8 「なぜ、お福(春日局)は江姫に戦いを挑んだのか!?」
お福の父斎藤利三(さいとうとしぞう)は、明智光秀の家臣として本能寺の変に参画した。
秀吉が〝信長の弔(とむら)い合戦〟である「山崎の合戦」で光秀を討ったとき、斎藤利三は捕まり、処刑された。
秀吉は光秀一派の残党狩りを徹底的にやったので、お福も逃げた。
こうしてお福のなかに「憎し! 秀吉!」の激情が生まれるのだ。
お福からみると、秀吉は父の仇であり、その秀吉の養女になっている江姫も憎い対象のひとりだった。
その怨念を晴らす日がやってきた。
お福は、将軍家が「秀忠の長男の乳母を募集」したとき、京都にいてこれに応募し、選ばれるのだ。
お福は、夫と離婚してまで将軍家に入り込み、秀吉の養女江姫にまず復讐しようとしたのである。
怪奇的なうがった言い方をすると、
「お福は、光秀の怨念に突き動かされて、光秀を討った秀吉の政敵家康に接近しようとした」
ということになる。
素朴な疑問 9 「なぜお福が乳母に選ばれたのか!?」
お福が乳母に選ばれたのは、以下の理由による。
お福の夫稲葉正成(いなばまさなり)は、関が原の合戦で徳川家康についた小早川秀秋(こばやかわひであき)の重臣だったことも、プラスに働いた。
小早川秀秋は、秀吉の正室ねね(おね)の甥(ねねの兄の息子)だったから、関が原の戦いでは当然のように西軍についていたが、途中で東軍に寝返った。
この寝返りが、関が原の合戦の勝敗を分けたのだ。
小早川秀秋は、「関が原の合戦のキャスティング・ボートを握っていた男」だったのである。
その男を支えた稲葉正成の妻(後妻)と聞いて、徳川家は邪険に扱えなかったのだろう。
そういう計算ができる女は、そうはおらず、やがてお福は、「大御所家康に直訴」までするようになるのだ。
素朴な疑問 10 「江姫に対するお福の復讐は、どこまでエスカレートしたのか!?」
お福は、乳母となって将軍家に近づき、その庇護を受けることで身の安全を図るだけでなく、女だてらに立身栄達の道を望み、さらには「お家再興」の夢をも抱いたことで、気の強いことでは互角以上の〝ファーストレディ〟江姫との確執が生まれるのだ。
お福は、乳母という地位を利用して次第に発言力と権力を増していき、将軍指名にも頭を突っ込むまでになる。
江姫と秀忠は、次男を将軍にしようと考えていたが、お福がそれを否定し、自分が乳母として乳を与えた江の長男を将軍にすべきであると家康に直訴して、自分の案を実現させてしまうのだ。
やがて江姫が死ぬと、秀忠に次々と美しくて肉体的な魅力のある大奥の女をあてがい、秀忠のなかから江との思い出を消そうとした。
その秀忠が死ぬと、お福は、待ってましたとばかりに、自分が家康に直訴して将軍にした家光をけしかけて、家光の弟忠長(ただなが)を自害に追いやることになる。
お福の復讐劇は、江姫が慣例を破ってまで自ら授乳した次男坊の忠長を死に追いやることで幕を閉じたのだ。
江は、お福という天敵によって人生を狂わされたのである。
(城島明彦)
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