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2011/05/27

ソニーの「個人情報漏れ発表」の遅延、東電の嘘八百etc.……こんな〝自己保身企業〟に誰がした?

 
東電体質は「日本企業体質」の象徴 

 嘘、隠蔽、デタラメを平然と発表する東電体質は、日本の企業体質。
 「給水したか、しないか、こっちが黙っていたらわかりっこない」
 という判断があって、デタラメをいったことは明らか。

 「国より、周辺の人の命より、自分の会社が大事」
 そんな救いようのない考えが根底にあることが透けて見える。
 しかし、IAEAが調査すれば、たちまち嘘がばれてしまうことを恐れて、2か月以上もたってから、本当のことをやっと漏らした。

 いまにして思うと、アメリカは東電が給水していたことをつかんでいたのではないか? 

 敗戦以来、日本人が汗水たらしてコツコツと築き上げてきた世界への威信は、この一件だけで地に堕ちた。

 こういう連中は、中国や北朝鮮なら、直ちに処刑だ。
 罰として、ノーガードで、終身、被曝地のがれき拾いをやって罪を償うべきだ。


ソニーの個人情報漏洩事件

 史上空前の規模で「さすが、世界のソニー」と皮肉られた「ソニーの個人情報漏れ事件」も、本質は東電と同じである。

 ソニーも、自社保身から「目玉製品発表を最優先」させた結果、世界中からブーイングを浴びた。
 マスコミ界出身の外国人が長期間トップに君臨しながら、マスコミ発表のタイミングを誤るなど、笑止としかいいようがない。
 同じ外国人トップでも日産のカルロス・ゴーンとは大違いである。

 あげくの果てに、ソニーは3年連続赤字で、しかも史上2番目の赤字額(税引き後利益)という赤っ恥じの発表だ。

 そんな男をソニーの後継者に選んだ出井伸之前CEOの罪は大きい。

 ソニーは、出井体制に移行した創業50周年前後から、企業モラルが急激に低下した。
 私も、ソニーの隠蔽体質の実害をこうむった一人である。その事件のことは、そのうち書くつもりだ。


班目ら学者連中のデタラメかげん

 さて、原発事故である。
 給水を中断したと発表しておきながら、実はそうではなかった、継続して給水していたと東電が訂正したと聞いて、原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹東大教授は、
 「私はなんだったのか」
 とへらへら笑った。
 自分の発言が正しかったかどうかということにしか関心のない奴が、日本の危機を救えるわけがない。

 班目は、肝心なときには表に出てこないで、自分がヤバそうになってくるとあわててマスコミに顔を出して弁明する。

 そんな班目とは逆にテレビ各局に出まくって、さんざん原発事故について解説していた何人もの原発関係の学者たちにしても、素人ではないのだ、その時点で給水のことぐらいわからなかったのか?

 わかっていても、東電から「研究費」名目で資金援助を受けていたり、講演会などで金をもらっていた〝御用学者〟たちだから、本当のことがいえなかったのか。

 そして東電は、「あいつら、しゃべれるわけがない」と高をくくっていたのか?

 こういう情けない連中が日本を動かしているのだから、日本が滅びに向かっているのは理の当然だ。


菅直人の存在の軽さと危うさ

 最近、菅直人の表情から笑みが消え、強張ってきたと思ったら、フランスで開催されたG8では満面の笑みで手を振りまくっている。

 鬼のいぬ間に、日本では給水をめぐって菅直人の首相としてのリーダーシップのなさが話題にされ、「菅おろし」の動きが激しくなってきた。

 日本の政治家たちは、国や国民のことなど2の次、3の次なのだ。
 大事なのは、おのれのこと、そして自分の政治生命や所属する党のこと。
 どうしようもない連中ばかりだ。

 自民党の安倍晋三など、「原発給水の事実を最初に自分がHPに書いた」と威張っている。
 今頃になって元気ハツラツ。首相当時のあのヨレヨレの姿は、何だったのか。
 原発を推進し、アメリカのGEの原発を導入したのは自民党じゃなかったのか。
 そういうことにホッカムリするな。

 日本の政治家は、どいつもこいつも、批判だけは一人前で、外野席では元気いっぱいだが、「それじゃあ、やってみな」と政権を渡されると、ヨレヨレのフラフラ。

 こんなやつらでは、日本も長くない。

(城島明彦)

2011/05/24

茶々は女謀略家? 〝ある野望〟があって秀吉の女になった!? ――NHK大河(「江~姫たちの戦国」)には出てこない話

第19回「初の縁談」(5月22日)のストーリー

 タイトルからわかるように、次女の初姫が恋を実らせ、京極龍子(秀吉の側室の一人)の弟高次に嫁いで行くまでの話が中心だが――

 好きになったからといってそのまま嫁げるわけではなく、江の養父であり、茶々や初の後見人でもある秀吉の許可がいる。
 そこで、茶々が秀吉に頼むと、秀吉は、
 「初の縁談をまとめる見返りは何か」
 と自分の側室になることを暗ににおわし、
 「わしに何をくださるおつもりか」
 と迫る。
 「私を。私の身をお好きになさってくださいませ」
 と茶々は答えたが、
 「ただひとつ、側室にだけはなりたくありませぬ」
 と付け加える。
 それを聞いて秀吉は、戯れでいったのだとその場をごまかす。そして、こういうのだ。
 「もしもわしが仇でなかったら、思いを受け入れていただけるのか」
 茶々の心は揺れるが、一夜あけると、秀吉は廊下で新しい若い側室から頬にキスマークをつけてもらっている。
 その光景を見て、茶々は秀吉に駆け寄り、平手打ちを見舞い、
 「私にもわからぬ」
 そう呟いて、よよと泣き崩れるのだった。

 ――さて、来週はどうなりますかといった内容だった。


NHKはなぜ、茶々が秀吉の側室になる経緯を引っ張り続けるのか?

 NHKが、茶々という女性を凛(りん)とした高潔な人間であると美化すればするほど、女好きな秀吉の愛人になった理由を説明しづらくなり、視聴者は理解できなくなる。
 
 引っぱらざるを得なくなったのは、「秀吉を親の仇」と茶々に何度もいわせたドラマ設定に無理があるからであり、そんなことを繰り返しいってきた女が、いかなる理由があるにしろ、突然、秀吉の女になってしまっては視聴者が茶々に反発を覚えるからだ。

 それが怖くて、NHKは少しずつ茶々の気持ちに変化が芽生えるようにしようと考え、話を伸ばしてきたのだ。


NHKは「秀吉は3姉妹の憎むべき仇」と強調するなら、信長も仇にしないとおかしい

 NHK大河ドラマでは、茶々や江が何度も「秀吉は親の仇」と口にしている。
 茶々や江は、秀吉本人にも面と向かっていっている。

 茶々ら浅井3姉妹は、実父浅井長政、母お市の方と楽しく暮らしていた居城を秀吉の指揮する軍に攻められ、父は自害し、母子はおじである信長に庇護された。

 その後、本能寺の変で信長が死んだことで、後継者争いが浮上、母は3姉妹を連れて柴田勝家に嫁いだが、秀吉といくさになり、義父となった勝家は自刃。今度は母であるお市の方も自害したが、3姉妹は助けられて秀吉の庇護を受けることになる。

 おおざっぱにいうと、こういうことになる。

 茶々、初、江の3姉妹にNHKは、折に触れて「秀吉は親の仇」といわせているが、果たしてそうなのか。

 3姉妹の実父浅井長政を滅ぼしたのは、彼女らのおじ信長である。
 秀吉は信長に命じられて動いた駒に過ぎない。

 親の仇、親の仇というのなら、信長もそういわなければおかしい。いや、信長こそが3姉妹の「父の仇」である。 それなのにそのことを完全に無視しているのは、ご都合主義としかいえない。


信長から見たら、茶々の父は裏切り者

 信長から見ると、3姉妹の父浅井長政の方こそ裏切り者である。
 信長が浅倉義景(あさくらよしかげ)を攻めるとき、信長にはつかず、古い付き合いのある浅倉義景についたからだ。
 長政は信長の妹お市の方を嫁にし、縁戚関係を結んでおきながら、裏切ったというわけである。

 姉川(あねがわ)の合戦と呼ばれるこのいくさ戦いが発端となって、浅井長政は追いつめられ、落城する小谷(おだに)城で自刃することになる。

 そのとき、信長に命じられて城を攻める指揮をとっていたのが、信長の家臣だった秀吉。
 長政の正室お市の方とその娘3姉妹は、助けられ、そこから彼女らの波乱の人生がスタートするのである。

 秀吉だけを親の仇というのは偏った見方だ。秀吉を仇呼ばわりするなら、信長も仇といわなければならない。


「茶々はどうやって秀吉の女にされたのか!?」を推理する

 茶々が秀吉の側室になった理由は、以下の9パターンのうちのいずれかであると推理できる。

  ①「肩でももんでくれ」と寝室に呼ばれ、力づく(暴力)で犯された。
  ②茶々の意志とは無関係に、眠り薬を仕込まれるなどして体の自由を奪われ、女にされた。
  ③「側室になるのはYESかNOか。嫌なら殺す」と脅されて、泣く泣く愛人になった。
  ④権力と金に目がくらみ、側室になった。
  ⑤「父親がわりに、わしに甘えなさい」と洗脳され、その気になった。
  ⑥プレゼント攻撃に参った。「ほしいものは何でもあげる」といわれ、割り切った。
  ⑦生きていくために、「もうどうでもいいや」と半ばヤケになって処女を与えた。
  ⑧自分の子を生んで、その子に自分の夢や将来を託そうと考え、秀吉の思いを受け入れた。
  ⑨秀吉に「自分が憧れ続けた唯一の女性お市の方の血を引く男の子を生んでもらえないか」と諭され、その気になった。
 
 どれが正解かは、本人たちに聞くしかない。

 そういうことなので、小説にしたりドラマにする場合は、好き勝手にやればいいということになる。
 

茶々は秀吉のスケベ心を刺激した
 
 秀吉の正室ねねは、昔から苦労をともにしてきた「糟糠(そうこう)の妻」だから、秀吉も軽んじることはできなかったし、頭も上がらなかった。
 しかし、彼女との間には子どもができなかった。

 世継ぎをつくらないことには不安でならないから、秀吉は、いろんな女を側室にして子づくりに励んだが、それでも子どもはできなかった。

 そんなところへピチピチした茶々が現れたから、秀吉は目の色を変えた。
 しかも、茶々は、秀吉が憬れていたマドンナお市の方の美貌を引き継いでいる。

 お市の方は、畏敬してやまなかった信長の妹だったが、もうこの世にはいないから、娘の茶々で代償満足しようという気持ちになった。


「秀吉は子種なし」説を裏づける例

 例① 秀吉は、信長の実の娘も側室(三の丸殿と呼ばれた女性)にしていたが、子どもはできなかった。もし生まれていたら信長の孫になる。

 三の丸殿は、秀吉の死後、公家と結婚し、妊娠している。

 例② 秀吉は、「香(こう)の前」と呼ばれた美人の側室を、気に入っていた伊達政宗の家臣に与えた。その家臣は彼女を主君正宗に献上すると、彼女は正宗の子をすぐに身ごもった。彼女は、2人の子を生んでいる。

 例③ 京極龍子は秀吉の側室になる前の結婚相手との間に3人の子供を生んでおり、子どもができやすくなっていたにもかかわらず、秀吉の子を妊娠することはなかった。

 これだけ例をあげるだけで、「秀吉、子種なし」を証明するのは十分ではないか。
 子種なしと断言できなくても、「子どもが極めてできにくい精子」の持ち主だったことは100%間違いなかろう。


人前で女の争いを繰り広げた茶々の性格

 京極龍子と茶々の関係は、京極龍子の方が茶々より側室の先輩であるし、年齢も上。

 この2人が、慶長3年(1598年)春、徳川家康ら諸大名を招いて行われた京都の醍醐寺(だいごじ)での花見の宴席で、秀吉から受け取った杯の順番をめぐって、醜い口争いを繰り広げたというエピソードが伝わっている。

 盃の順番としては、正室のおねが最初で、秀頼の母となっている茶々、龍子という順番が普通だが、龍子が異を唱え、いさかいが起きたことになっている。
  
 京極龍子と茶々はいとこどうしであり、しかも茶々の妹初は龍子の弟高次と結婚している。
 茶々の生まれた浅井家は、もとは京極家の家臣筋。下克上で立場が逆転したとはいえ、京極家は名門。
列席した大名たちも、そういうことをよく知っていた。

 京極龍子は、「自分の方が茶々より身分が上」ということで2番を主張したらしい。
 しかし、茶々は譲らなかったので、ひと悶着あったのだ。

 龍子ら側室たちは、なぜほかの側室が妊娠すらしないのに、茶々だけが2度も妊娠・出産したのか、おかしいと思っていたはずだ。

 茶々が生んだ最初の子は死んだが、次男秀頼は秀吉の後継者として花見の席に来ている。
 
 (その子は誰の子なのか!? この子さえ生まれていなかったら、私の方が大切にされていたはずだ)

 そういう複雑な思いが龍子のなかで錯綜し、盃の順位争異になったのではないかという推理も成り立つのである。
 
 この事件が事実だったとすると、茶々はプライドも権力志向も強い女だったことになる。


茶々は「腹にイチモツ」あって、子種のない秀吉の女になった!?

 戦国時代の側室は「後継者を生むための正室(妻)公認の愛人」であり、「側室に生ませた娘や養女にした娘を敵に嫁がせるのは、同盟を結ぶための手段」であった。

 側室自身もそのことを自覚して生きていかなければならなかった。

 秀吉には正室や側室がいっぱいいたが、子どもができなかった。

 秀吉に子種がなく、
 「茶々が生んだ世継ぎの秀頼は別の男の子ども」
 という説が昔から根強くいわれてきた。

 江戸時代の大奥を舞台にしたテレビドラマが好んで取り上げるテーマは、将軍のお世継ぎを生もうとする女たちの暗闘である。
 そのなかの典型的なパターンが、別の男と密通して子供をつくり、その子を世継ぎと称して大奥の権力を掌握するというやり方。
 
 今日なら遺伝子チェックで簡単に「アウト」と判定されるが、当時は誰の子か見分ける方法がなかった。
 
 茶々が、その手を使わなかったという証拠はない。
 つまり、茶々は秀吉以外の男の子を生んで、秀吉を踏み台にして将軍のご生母になろうとした可能性があるということだ。


茶々がなぜ「女好きな秀吉の愛人になるのか」と視聴者は疑問に思っている

 秀吉には、正式に伝っているだけでも16人もの妻妾がいた。それ以外にもたくさんの女がいたといわれる好色家だが、家康にも同じくらいの数の側室がいたのに、世間からは好色家といわれない。

 なぜなのか。

 秀吉は、敵将が愛した妻やかわいがっていた愛人を犯すことで、あの世の敵将をあざ笑う魂胆なのか、いくさでやっつけた敵の城主の妻(正室)やら娘たちを次々と自分の側室にしてしまったが、家康はそういうあざといことはしなかった。そこが違っている。

 秀吉流は、戦って勝った相手に小便をひっかけるような動物的で野蛮なやり方のようにも見えるが、秀吉には秀吉の言い分があったのだろう。

 敵将の娘を側室にしたのは、滅ぼした敵ではあるが、その遺訓をたたえるべく、その城主の遺伝子と自分の遺伝子をミックスさせようという魂胆だったのか。

 いずれにしろ、悪趣味であることに変わりはない。

 (城島明彦)

思い知ったか、星野仙一。セパ交流戦で楽天に2連勝した中日の底力! 落合博満との監督能力の違い!


 5月22日(日)・23日(月)の両日、名古屋ドームで行われたセパ交流戦「中日ドラゴンズVS楽天イーグルス」は、9対1、6対1の大差で中日の連勝。

 交流戦を前にしてコーチ陣を大幅に入れ替えて、ガッツを入れたつもりだったろうが、空回りもいいところ。
 星野・田淵を入れ替えた方が、むしろチームは活気づく。

 ドラゴンズを裏切った星野に対するドラゴンズファンの怨念こもった視線を浴びて、ベンチの〝闘将〟星野は〝凍傷〟にかかったかのように顔が凍りついていた。

 
 落合のように喜怒哀楽を顔に出さないのが、武士のたしなみ。そして、21世紀の野球の真髄。

 感情をあらわにする〝星野根性野球〟は、前世紀の遺物。

 選手に恐怖感を与える野球は、しばらくは効果があるが、緊張感を長く持続させることは難しい。
 星野流が長く続くとチームの順位は落ちていくことは、過去の監督歴が示している。

 被災地の仙台の人たちには申し訳ないが、楽天が最下位に落ち着くのも、そう遠い先ではないだろう。

 (城島明彦)

福島原発被害を拡大させた〝ペテン師〟斑目(まだらめ)春樹さんよ、日本語は正しく使いなさい!

班目(まだらめ)のデタラメVS菅直人のデタラメ

 福島原発第1号機への海水注入を50分間中断した件で、政府・東電統合対策室が、
 「海水を注入すると、『再臨界の危険性がある』と班目(まだらめ)春樹・内閣府原子力安全委員会委員長がいったのを受けて、すでに開始していた注入を中断した」
 と発表したことで、当の班目が「名誉毀損」といきまく事件が起き、23日の国会(衆院東日本大震災復興特別委員会)で、日本の前途多難を象徴するような情けない光景がまた展開された。

 自民党の谷垣総裁は、この事件に質問の持ち時間の半分を使うという愚かなことをやってのけ、答弁する菅直人首相も責任逃れの言い訳に終始するという情けなさ。

 夜のテレビニュースで、被災地の人たちがいく同音に、「過ぎたことをあれこれいっているより、これからどうするのかという実のある政策論議を戦わせてほしい」と文句をいっていたが、そのとおりだ。

 日本の政治家はいつになったら目覚めるのか。

 アホな目覚め方をした民主党議員もいる。「菅内閣に対する不信任決議案が提出された場合は、賛成する」といって民主党離党宣言をした横粂(よこくめ)議員だ。

 苦労という苦労もしていない1981年生まれのこの〝バブル議員〟は、離党などという甘っちょろいことをいわず、議員そのものを辞めて、被災地で汗水流してボランティアして来い! それが君の生きる道だ。
 

日本語はわかりやすくいえ!

 「再臨界は本当にないといえるのか」
 と菅直人首相に聞かれ、
 「(再臨界の)可能性はもちろんゼロではない」
 と答えたと班目はいい、
 「『再臨界の危険性がある』などと私がいうわけがない。侮辱だ」
 と怒りをあらわにした。

 重大な話のときに、こういうおかしな言い回しをするから問題が起こる。

 班目はマスコミだけでなく、政府にも抗議し、政府はそれを受けて、
 「班目委員長は『再臨界の可能性はゼロではない』といった」
 と、訂正した。
 
 何という日本語のひどさなのか。

  ①再臨界の危険性がある。
  ②再臨界の危険性はゼロではない。

 ①と②のどこが違うというのか。文系の人間は、こういう言い方はしない。
 ①と②は、言い回しが違っているだけで、いっていることは同じではないか。

 こんなことで国会で論争していることの方が大問題であり、恐ろしい。


班目春樹も菅直人も「理数系の言葉へた人間」

 班目がいった正確な表現を再現しておこう。

 ――菅直人首相に「再臨界の危険性がある」とは言わなかったのか。
 「私の方から申し上げるわけがない。可能性はもちろんゼロではないと回答した。あの時に一番急がなければならないのは冷却だった。再臨界について考えるために冷却を止めよというのは、とんでもないことだ」(「日経WEBニュース」5/24より引用)

 班目は、まるで他人事のようなことをいっている。
 こういう責任感のない人間を、内閣府の原子力安全委員会のトップに据える人事をやったこと自体が罪である。

 日本をダメにしてきたこういう連中たちを一掃しない限り、日本の再生はありえない。

 班目は1948年生まれの団塊世代。東大卒業後、東芝に入社、研究所に勤めた後、東大の講師となり、助教授、教授になった人物。

 頭はよく、専門用語を使って難しいことを理路整然と話すが、普通の言葉で話せない。
 一般人にわかるように説明することは苦手である。技術系、研究畑に多いタイプだ。

 日本列島が放射能汚染されるかもしれないきわめて重要な問題を、
 「可能性はもちろんゼロではない」
 という他人事のような軽々しい言い方ですませてしまう班目のような人間が、内閣府の委員長に据わっていること自体、人材不足の感は否めない。


〝国賊〟野口悠紀夫(のぐちゆきお)・班目春雄は東大工学部卒
 
 ここでちょっと脱線し、「班目の出身校東大工学部は、国賊とか詭弁家を育成する土壌があるのか?」というテーマについて述べる。

 野口悠紀夫という学者がいる。
 この人は、日本語が読めない文系(学習院大政経学部卒)の元総理麻生太郎と同じ1940年生まれの戦前派だが、大学は班目と同じ東大工学部卒。一橋大教授、東大教授を歴任、現在は早稲田大学大学院のファイナンス研究科教授だ。

 野口悠紀夫は、日本語の読み書きは達者だが、この人も論理的回路が優れた理数系頭の典型で、
 「どんなことも論理で推せば道理引っ込む」
 と思い込んでいるので、きわめて危険である。
 
 経済誌「東洋経済」に「野口悠紀夫のニッポンの選択」というコラムが連載されているが、読んで見ると信じがたいことを連発していて驚いてしまう。

 この人は学者なのに、「日本はDRAMをやったから、いま、半導体で韓国に負けている」などと結果論でものをいうのが得意なだけでなく、私が大学生時代(1960年代後半)に「経済政策」のゼミで勉強したケインズ理論まで持ち出して論を展開するという時代錯誤の典型である。

 野口悠紀夫は、「日本を変革するのは外国人経営者だ」「日本の脱工業化と外国人専門家の受け入れが日本を救う」「製造業を海外移転するかたちで震災復興を行うのが合理的」などという、日本を滅ぼすかのようなおかしな論を展開している。そういう学者の持論を連載させている雑誌も雑誌だ。

 製造業の製造拠点を労賃の安い東南アジアに移転し、そこで生産しろという野口悠紀夫の論は、1990年代半ばにいわれたことだ。

 コスト削減・低減を旗印にして、日本の製造業は東南アジア諸国に工場を建設したが、日本国内はドーナツのような空洞現象が起きてしまい、「日本のブラックボックス的技術まで海外に移転される」というマイナス面も生んだ。

 その結果、日本が得意としたエレクトロニクスに代表されるハイテクなどは中国や韓国に盗み取られ、やがて競 日本は目先の私益に走ってライバルを育成し、そのライバルに負けたようなものだ。

 「野口悠紀夫、班目春彦といった東大出の学究派が、同じく東大での官僚連中とつるんで、日本をおかしくした元凶だ」
 と、私はいいたいのである。

 もう一人、東大工学部卒の日本語デタラメ人間を追記しておこう。
 班目の1年先輩の1947年生まれの団塊世代、鳩山由紀夫だ。鳩山も母校東大で講師をしていたことがある。


人の上に立つ人間は、誤解を生じない、よくわかる日本語で話せ!

 菅直人も東工大出の理数系(理学部卒)で、日本語のボキャブラリーがきわめて乏しく、文系出身の作家でもある石原慎太郎とは言葉の使い方が対照的だ。

 菅は私と同じ1946年生まれの大学紛争世代であり、プレ団塊世代だから、考え方はよくわかるが、日本語の使い方がお粗末すぎる。彼の奥さんの方が、まだ説得力のあるしゃべり方をする。

 菅直人は、何かというと「まさに」「まさに」というが、「まさに」という日本語はは「ここぞ」という個所で用いることで効果を生む副詞であって、短い話のなかに何度も何度も用いる言葉ではない。

 一国の首相ともなれば、単なる口ぐせではすまない。そういう癖は一刻も早く直さないといけない。
 菅直人の答弁や演説が国民の心を打たないのは、「まさに」に代表されるように、一語一語に重みがないからである。

 その程度の日本語レベルの人間だから、菅直人は会話も中途半端である。それが今回の事件の原因をつくったと私は考えている。

 班目が、
 「(再臨界の)可能性はもちろんゼロではない」
 という言い方をしたら、菅直人は、畳みかけるようにして、
 「何%ぐらいの可能性が考えられるのか」
 と質問しないといけないのだ。

 班目も班目だ。菅直人に追加質問されなかったとしても、自分から次のような説明をして然るべきである。
 「こういう状況なら○○%ぐらい、こういう状況とすれば○×%ぐらい云々」

 それを怠った責任は重い。
 自ら辞表を出してケジメをつけるが当然である。
 それを、表現が違うだの、名誉毀損だなどといきまくとは、情けない人間だ。


班目はヘリで福島原発の上空を飛び、現場を鳥瞰(ちょうかん)しているではないか!

 3月12日の早朝、菅直人、班目らは陸自ヘリで官邸屋上を飛び立ち、被災地と東京電力福島第1原発の視察に向かっている。

 上空から鳥のように原発の建物を俯瞰(ふかん)して、何もわからなかったとはいわせない。
 もしわからなかったというのなら、さっさと引退することだ。

 東電の隠蔽体質はいまに始まったことではないが、同社の対応の遅さと政府に情報をあげてこないことにイライラが募った〝イラ菅〟は、
 「自分は東工大で原発を勉強したから、原発のことはよく知っているんだ」
 と鼻息荒く周囲に怒鳴って、現地視察に向かったのだ。

 以下、「毎日新聞」4/4の報道。
 《東日本大震災から一夜明けた3月12日午前6時すぎ。菅直人首相は陸自ヘリで官邸屋上を飛び立ち、被災地と東京電力福島第1原発の視察に向かった。秘書官らは「指揮官が官邸を不在にすると、後で批判される」と引き留めたが、決断は揺るがなかった。

 「総理、原発は大丈夫なんです。構造上爆発しません」。機内の隣で班目(まだらめ)春樹・内閣府原子力安全委員会委員長が伝えた。原発の安全性をチェックする機関の最高責任者だ。

 第1原発は地震で自動停止したものの、原子炉内の圧力が異常に上昇した。東電は格納容器の弁を開放して水蒸気を逃がし、圧力を下げる作業(ベント)を前夜から迫られていた。

 首相は官邸に戻った後、周囲に「原発は爆発しないよ」と語った。
 1号機でようやくベントが始まったのは午前10時17分。しかし間に合わず、午後3時半すぎに原子炉建屋が水素爆発で吹き飛ぶ。「原発崩壊」の始まりだった。》


菅直人の中途半端な原発知ったかぶり
 
 菅直人が勉強した原発は、何年前の知識なのか。
 そういう知ったかぶりが状況判断を誤らせるのだ。

 菅直人は中途半端――缶チュウハイをもじって、〝菅チュウハン〟というあだなを献上しよう。

 アメリカが技術提供しようと申し出たとき、スリーマイル島事件を経験した同国がどれぐらいの情報を持っているかを考えもせずに、政府は簡単に断った。これもおかしい。

 アメリカの軍事衛星と情報収集力をなめたらイ菅ぜよ。
 福島原発で何が起こっているか、アメリカさんは、日本より先に詳しく察知していたはずだ。

 「先進国の先進技術など、利用できるものはすべて使う」
 という前向きで、貪欲な方向性が事件当初の菅直人にはなかった。

 火事場で自国の見栄を張ってどうするのだ。

 「日本のロボット技術は世界をリードしており、人が近づけない原発事故現場は遠隔操作ができる無人機械やロボットを使えば簡単だ」
 と思ってきたが、撮影に使った小型ロボットはアメリカ製だった。
 放水や給水に使っている長いアームのハシゴ車は、たしかドイツ製だった。

 日本の大学研究室やロボットを開発してきた企業は、これまで何をやってきたのか!? 

 政治家、学者、企業……日本という国のダメさ加減を世界に露呈したツケは、これから何10年先まで重くのしかかってくるだろう。

 (城島明彦)

2011/05/16

江姫をめぐる10のなぞ――江姫は、男をダメにする〝さげまんの女〟だったのか!?

「江~姫たちの戦国」(第18回)のテーマは「3姉妹の愛のかたち」

 5月15日のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」(第18回「恋しくて」)は、浅井3姉妹の愛を描いた内容で――

 天正14年(1586年)夏、秀吉は九州へ出征し、平定。翌年春、大阪に戻ってくると、太政大臣となり、豊臣姓を与えられた。天下統一には、小田原の北条氏攻めを残すだけとなった。

 そうした動きと併行して、お年頃になってきた3姉妹は、かたちの違う愛と出会うことになった。

 初は、秀吉の側室(愛人)のひとり京極龍子(きょうごくたつこ)の弟高次(たかつぐ)にひとめ惚れする。

 まだ20歳前の茶々を、50歳のじいさま秀吉は「思い人(びと)なってほしい」とくどくが、「親のかたきの愛人にはなれない」と断る。

 次回予告編では、初が「どうしても京極高次と結婚する」と言い出し、秀吉はそれをかなえる替わりに茶々に側室になるよう強要するような話になっていた。

  ――さて、どうなりますか。来週のお楽しみ。

 大河ドラマでは、3姉妹の話を短い時間のなかで巧みに錯綜させて描いており、わざとらしさがまったくないとはいえないが、評価できると思ったのが、私の感想。
 
 本ブログは、ドラマとは違う視点の話である。
 江姫は男運が悪かったが、自身も、男を不幸に陥れてしまう哀しい運命を背負っていた!?


素朴な疑問 1  「江は、なぜ結婚相手を二人ともダメにしたのか!?」 

 江姫が何か事を起こさなくても、相手の男を不幸に陥てしまうという「悪い星の下に生まれた宿命の女」。それが江だったと推測できる。

 ▼さげまんの証拠①……最初の結婚相手(佐治一成)は、秀吉に強引に離婚させられ、しかも城から追放された。佐治一成は、江姫と別れたあとは、派手ではなかったが、武将としてのそれなりの人生をまっとうした。

 ▼さげまんの証拠②……2度目の夫(豊臣秀勝)は、秀吉の養子で秀吉の後継者と目され、子ども(完子・さだこ)にも恵まれたが、その子が誕生した年に夫は20代の若さで病死。
 (江が生まれた年に実父の浅井長政は自刃して果てており、歴史は繰り返したのだ)


素朴な疑問 2  「江姫は、なぜ〝バツ2〟で娘を茶々に預けて将軍家へ嫁いだのか!?」

 結論を先にいうと、江姫は、秀吉の政略の犠牲となったのである。

 秀吉は、「家康と親戚関係を結ぶ目的」で、未亡人になって4年目の江姫を、徳川家康の息子秀忠に嫁入りさせたのだ。

 江姫は、娘完子を茶々に託して江戸へ嫁ぐが、茶々は養女にした完子を自分の娘のように大切に育て、江姫を安心させる。

 のちに、大阪城落城が迫ると、江姫は将軍家の使いとして大阪城へおもむき、何とかして茶々の命を救おうと尽力するが、茶々は自害する。江姫と茶々の間には、そういう哀しい歴史的事実がある。

 2人の運命の糸は、秀吉の野望に操られたといえる。

 
素朴な疑問 3  「江姫と秀忠は、旧知の間柄だったが、いつ知り合ったのか!?」

 天下統一の野望に燃えた秀吉は、天正18年(1590年)に小田原の北条氏を攻め滅ぼし、その夢を実現させるが、そのいくさの前に、徳川家康が裏切らないように跡取り息子の秀忠を人質に取っていた。

 その結果、秀忠は大阪で江たちと一緒に暮らすことになったのだが、年の差がありすぎ、恋愛の対象とはならなかった。

  江姫  天正元年(1573年)生まれ
  秀忠  天正7年 (1579年)生まれ

 人質となったときの秀忠は10~11歳。江は16~17歳。

 江姫の2番目の夫秀勝(ひでかつ)が死んだのは文禄元年(1591年)だから、秀忠少年が大阪城に連れてこられたとき、未亡人になったばかりの江(18歳前後)は、1歳になるかならないかの1人娘の完子(さだこ)と暮らしていたことになる。つまり――

  少年秀忠から見た江は、若い母親。
  江姫から見た秀忠は、まだ尻の青いガキ。

 そういう男女が、互いに恋心をいだきあうなどということは現実味に欠ける。
 
 しかも、秀忠は、秀吉にいわれて天正18年(1590年)に織田信雄の娘と最初の結婚をしている。
 秀忠は10歳か11歳だったから、ままごと遊びのようなものだったが、その結婚は、秀吉と信雄が仲たがいしたことで破局となっていた。

 秀忠はバツイチだったのだ。

 江姫は、初婚も再婚も自分の意志ではなく、秀吉が勝手に決めた政略結婚だったが、3度目も先述したように同じだった。


素朴な疑問 4  「次女の初だけがどうしてまともな結婚ができたのか!?」

 浅井3姉妹のなかでまともな結婚をしたのは、初だけだ。

 秀吉は、どうして初や江を側室にしようとしなかったのか。

 好色な秀吉は、信長の部下になったときから憬れ続けていた信長の妹「お市の方」によく似た面影の茶々にぞっこんだったが、さすがに3姉妹全員に手を出すのはためらったからなのか、それとも、初や江は器量がよくなかったから触手が動かなかったのか。

 初は、秀吉の側室京極龍子(きょうごくたつこ)に気に入られ、天正17年(1587年)頃に龍子の弟高次(たかつぐ)と結婚する。

 3姉妹の従姉京極龍子は美人で、その美貌に秀吉が参ったといわれていることから考えると、実物の江や初は、上野樹里や水川あさみのような美人ではなかったのか。

 初や江が美人だったとしても、秀吉の好みのタイプではなかったのかもしれない。

 秀吉は気に入っても、初や江の「好き」「嫌い」がハッキリしていて、「嫌なものは嫌」とはっきり断ったからなのか。

 「秀吉は茶々にぞっこんだったから、初と江も側室にしてしまったら、茶々の気持ちが離れていくだろうから、それを恐れた」
 というのが、まっとうな理由かもしれない。

 初と高次が結婚したときの年齢は、
  初   17歳ぐらい。
  高次  20代半ば。

 NHKドラマでは、初が大阪城を訪ねてきた高次と初めて会って、ひと目惚れするように描かれていたが、それ以前に会っているはず。
 
 龍子、高次の母は、江や初の父親浅井長政の実の姉で、いとこ同士なのだから、一度や二度はどこかで顔を合わせていると考えた方が自然である。

 初と高次は夫婦仲がよかったと伝えられているが、子どもには恵まれず、〝多産系〟の江姫が生んだ娘のひとり初姫を養女にもらって、夫が側室に産ませた息子と結婚させることになる。


素朴な疑問 5  「茶々は、いつ頃、秀吉の愛人(側室)になったのか!?」

 天正19年(1591年)5月、21歳の茶々は、50歳を過ぎていた秀吉の子鶴松(つるまつ)を生むが、この子は3歳で死ぬ。

 この年は、秀吉の激動波乱の1年となる。
 朝鮮出兵、母の死、後継者秀勝(養子で江の夫)の死と続き、失意のなかで「関白」の位を秀次(ひでつぐ)に譲り、自らは「太閤」となる。

 鶴松に死なれて、「もう子どもは無理」と秀吉が思ったその2年後の文禄2年(1593年)、茶々は2人目の息子秀頼(ひでより)を生む。

 茶々がいつから秀吉の愛人になったのか? 先述したように、天正19年(1991年)5月に最初の子を出産しているのが判断基準となる。
 最短で、その10か月前。つまり、天正18年ということになる。


素朴な疑問 6  「なぜ江は、気の弱い年下男と結婚したのか!?」

 江姫が秀忠と結婚するのは、茶々が秀吉を生んだ2年後(文禄4年/1595年)である。

  新夫 秀忠  10代半ば。
  新婦 江    20代前半。

 江姫は気性の激しい女で、自分勝手な行動をする血液型B型の女。
 対する秀忠は、父親家康が偉大すぎるせいか、どうにも気が弱い血液型O型と思われる男。

 「気の弱い年下男」と「気の強い姉さん女房」の取り合わせで、うまくいく、と江は思ったに違いない。

 かわいい盛りの愛娘完子(さだこ)と別れて関西から関東へ行くのはつらかったろうが、秀吉の命に背くことはできない。娘を茶々に預けて、江戸へ嫁いでいったのだ。

 娘との悲しい生き別れが、彼女の後の運命を左右することになるのだ――。


素朴な疑問 7  「なぜ、江はしきたりを破ってまで次男に授乳したのか!?」

 江姫は、秀忠と結婚して9年目(1604年)に男子を授かる。
 
 彼女は30歳の手前にさしかかっていたが、尻に敷いている夫はまだ20代半ばだった。

 「江、でかした」
 と家康は思ったに違いない。

 秀吉は、すでにあの世へ旅立っていたので、この朗報を知ることはなかった。

 江姫が生んだ男の子には「世継ぎ」となる意味を込めて、家康と同じ幼少名「竹千代」が授けられた。

 江姫が世継ぎを生んだ翌慶長5年(1605年)、家康が将軍職を秀忠に譲り、江は「ファーストレディ」になるのだ。

  文禄4年(1595年) 徳川秀忠と結婚
  慶長4年(1604年) 長男竹千代(たけちよ)を出産 (9年目に子どもを授かる)
  慶長5年(1605年) 家康、将軍職を江の夫秀忠に譲り、大御所となる。秀忠20代半ば。
  慶長6年(1606年) 次男国松(くにまつ)を出産。江姫、自分で乳を与える。

〝多産系〟江姫は、続けて次男を生み、幸せいっぱいに見えたが、長男を産んだ時点ですでに事件は起きていた。
 権力欲にかられた乳母(うば/めのと)の出現だ。

 江の長男竹千代(のちの3代将軍家光)に乳を含ませる役割は、過去のしきたりに従い、乳母がやっていたが、その乳母が政治力にたけた〝とんでもない女〟だったのである。

 「長男竹千代が、実母の自分よりも、授乳役にすぎない乳母に異様になついている」のを知って、江は危機感をつのらせ、神経をすり減らすようになる。

 江姫とそりが合わない乳母の名は、お福。後の「春日局」(かすがのつぼね)である。
 お福は、政略家で、連れてきた自分の長男を竹千代の遊び友だちにするという手も使った。

 「口が達者で、策略にたけ、おまけに男まさりの行動力がある厄介な女」
 と、江姫は思っただろう。

 お福でこりた江は、2年後に次男を生むと、秀忠を味方につけ、慣例を破って自分で授乳するのである。
 
 しかし、時すでに遅し。
 お福は、世継ぎに授乳した立場を利用して、政治的な発言力を強めていたのだ。


素朴な疑問 8  「なぜ、お福(春日局)は江姫に戦いを挑んだのか!?」

 お福の父斎藤利三(さいとうとしぞう)は、明智光秀の家臣として本能寺の変に参画した。

 秀吉が〝信長の弔(とむら)い合戦〟である「山崎の合戦」で光秀を討ったとき、斎藤利三は捕まり、処刑された。

 秀吉は光秀一派の残党狩りを徹底的にやったので、お福も逃げた。

 こうしてお福のなかに「憎し! 秀吉!」の激情が生まれるのだ。

 お福からみると、秀吉は父の仇であり、その秀吉の養女になっている江姫も憎い対象のひとりだった。

 その怨念を晴らす日がやってきた。

 お福は、将軍家が「秀忠の長男の乳母を募集」したとき、京都にいてこれに応募し、選ばれるのだ。
 お福は、夫と離婚してまで将軍家に入り込み、秀吉の養女江姫にまず復讐しようとしたのである。

 怪奇的なうがった言い方をすると、
 「お福は、光秀の怨念に突き動かされて、光秀を討った秀吉の政敵家康に接近しようとした」
 ということになる。


素朴な疑問 9  「なぜお福が乳母に選ばれたのか!?」

 お福が乳母に選ばれたのは、以下の理由による。

 お福の夫稲葉正成(いなばまさなり)は、関が原の合戦で徳川家康についた小早川秀秋(こばやかわひであき)の重臣だったことも、プラスに働いた。

 小早川秀秋は、秀吉の正室ねね(おね)の甥(ねねの兄の息子)だったから、関が原の戦いでは当然のように西軍についていたが、途中で東軍に寝返った。
 この寝返りが、関が原の合戦の勝敗を分けたのだ。

 小早川秀秋は、「関が原の合戦のキャスティング・ボートを握っていた男」だったのである。
 その男を支えた稲葉正成の妻(後妻)と聞いて、徳川家は邪険に扱えなかったのだろう。

 そういう計算ができる女は、そうはおらず、やがてお福は、「大御所家康に直訴」までするようになるのだ。


素朴な疑問 10  「江姫に対するお福の復讐は、どこまでエスカレートしたのか!?」

 お福は、乳母となって将軍家に近づき、その庇護を受けることで身の安全を図るだけでなく、女だてらに立身栄達の道を望み、さらには「お家再興」の夢をも抱いたことで、気の強いことでは互角以上の〝ファーストレディ〟江姫との確執が生まれるのだ。

 お福は、乳母という地位を利用して次第に発言力と権力を増していき、将軍指名にも頭を突っ込むまでになる。

 江姫と秀忠は、次男を将軍にしようと考えていたが、お福がそれを否定し、自分が乳母として乳を与えた江の長男を将軍にすべきであると家康に直訴して、自分の案を実現させてしまうのだ。

 やがて江姫が死ぬと、秀忠に次々と美しくて肉体的な魅力のある大奥の女をあてがい、秀忠のなかから江との思い出を消そうとした。

 その秀忠が死ぬと、お福は、待ってましたとばかりに、自分が家康に直訴して将軍にした家光をけしかけて、家光の弟忠長(ただなが)を自害に追いやることになる。

 お福の復讐劇は、江姫が慣例を破ってまで自ら授乳した次男坊の忠長を死に追いやることで幕を閉じたのだ。

 江は、お福という天敵によって人生を狂わされたのである。


(城島明彦)

2011/05/12

死にたい人たちへ。死ぬのはいつでもできる。もうちょっと先送りしないか

上原美優の死 

 タレントの上原美優が自殺したというニュースに接して思ったことがある。

 直接彼女を知っているわけではないが、テレビ番組に出ていた彼女から受けた印象は、
 「今どき珍しい〝貧乏人の子だくさん〟の家庭で育ちながらも、明るく元気で頑張っている健気(けなげ)な若い娘」
 ということだった。

 そんな彼女が24歳で死んでしまった。

 先日も、俳優の田中実が44歳という若さで自殺したばかりだ。


死ぬのはいまじゃなくてもできる

 死にたいと思う気持ちの強い人たちにいいたい。
 「いまでなくても、いつでも死ねる」
 「やり残していることがいっぱいあるだろう。それをやってからでも遅くない。もう少し死ぬのを先送りしてみないか」

 私は、若い頃に一度死のうとしたが失敗した。

 以後、何度も死の誘惑が襲ってきたが、あるときは、
 「やり残していることがある。あれを片づけるまでは死ねない」
 などという、ささいな理由で何度も自死することを先送りした。
 また、あるときは、
 「部屋をきれいに片付けてから」
 と思っているうちに、死の誘惑の影が遠のいた。

 そういうことを繰り返してきて、気がついたら、60代半ばに達していた。


繰り返し襲ってくる「うつ」に負けるな

 自殺する人や自殺したいと考える人は、自分で気づいているかいないかの違いはあるだろうが、間違いなく「うつ病質」である。

 心が弱ったり、折れそうになるときは、体の状態がよくないときである。
 
 睡眠不足が続いたり、風邪を引いたりして体調を崩すと、精神が弱くない人でも、弱気になる。

 老いた両親より先に逝けば、両親は死ぬよりつらい思いをして生きていかなければならなくなる。
 親しい友人や親戚の人も同じだ。

 死にたくなくても、病気で死んでいかざるを得ない人もいっぱいるのだ。
 死ぬほどつらくて苦しくても、耐え忍んで、その人たちのために生き抜かないといけない。


 「誰かのためにだけ生きる!」
 「死ぬのは、いつだってできる。だから、もう少し、この世に踏んばっていよう」

 そういう考え方に切り替えられるように、自分自身を説得しよう。

 
たっぷり眠れば心も元気を回復する

 死の誘惑は、繰り返し襲ってくる。私自身についていえば、いまでもそうである。

 死の誘惑に襲われると、
 「死んだら、楽になれる。そうするしかない」
 という暗鬱(あんうつ)な気持ちが、頭の奥でエコーし始める。
 「現実から逃げたい」という強烈な思いがそこに重なる。
 
 いかなる理由であれ、
 「死にたい」
 と考える自分が普通ではないということは、自分自身でよくわかっていても、その思いを頭から追いやることができない状態になる。

 明らかに精神の病にかかっているのだが、そのことに気づくだけの心の余裕がなくなっている。
 
 「医者に行こう」
 と考えられる人は、まだ軽症なのである。

 死の誘惑を受け入れようとする思いが強くなると、そのことばかりを考えてしまうので、死を脱しようとする思考能力が麻痺してしまう危険な状態になっていく。

 人間には生き続けようとする本能的な欲求があるが、それが封じ込められてしまっている。

 そこまでいかないうちに医者に行くのが一番だが、忙しかったりして行けない場合は、「抗うつ薬」を飲んでよく寝ると症状が回復する。

 親しい友人に会って楽しいひとときを過ごしても、別れて一人になると、その楽しさの何倍かの孤独感に襲われるそこが、うつ病質の人間のやっかいなところだ。

 薬は飲まないにこしたことはないが、うつ気質の自覚がある人は「睡眠導入剤」を普段から用意しておき、ふさぎ込んできたら服用した方がいい。

 薬局へいくのが嫌なら、誰かからもらうという手もある。


太陽の光が直ししてくれる 

 気持ちがふさいだら、できるだけ太陽に当たらないといけない。
 
 昼間の時間が取れないときは、室内でまぶしいくらいの電球をともし、その光を浴び続けると元気が回復する。
 
 十分に眠ることが大事だ。
 たくさん眠れば、体の疲れも取れる。

 体力が回復したら、笑える映画のDVDとか、勇気が出るDVDを2~3本借りてきて見ることだ。

 風呂に入って、血のめぐりがよくなると、元気が出る。

 体がさっぱりしたら、好きな果物を食べたり、外出たり、レストランで好きなメニューを食べたりするといい。


死ぬのはいつでもできる

 死にたいと思ったときは、こう考えるようにしたい。

 「自分が死ぬことで悲しんだり、苦しんだりする人がいる。つらくても自分が生きていると、そのことを喜んでくれる家族や友人がいる。どんなに苦しくても、もう少しだけ死ぬ時期を延ばせないか」

 私はいまでも、死ぬことを1日先送りし、2日先送りし……それが1か月になり、2か月になり、半年になっていくと、体も心も、また元気になってくる。

 人生は楽しい日々ばかりじゃないが、悲しい日々ばかりではない。
 いままでの人生で、そのことはわかっているはずだ。

 いまはつらくても、じっと耐えてがまんしていれば、必ずまた楽しい日々がやってくる。

 だから、いま死んではいけない。

 いつでも死ねるのだから。

(城島明彦)

2011/05/09

「江には盗聴癖あり」とせざるを得ないNHKの苦しいドラマづくり(「江~姫たちの戦国」第17回)

実の姉を離縁させて家康の後妻に

 第17回「家康の花嫁」のストーリーは――

「秀吉が関白になっても、家康が挨拶に来ないので、何度か催促するが無視される。
 そこで、秀吉は、正室に死なれて独身だった家康に自分の身内を継室(けいしつ/後妻)として送りこむ。
 身内とは、40代の秀吉の実の妹旭姫(あさひひめ)で、結婚していたが、離縁させたのである。夫はショックで家を出、行方不明になる。

 しかし、それでも挨拶にやって来ないので、秀吉は「これでもか」とばかりに実母を人質として送る。

 さすがの家康もこれには仰天し、実母を返しがてら大阪城へ挨拶にやってくる。

 秀吉は家康に、家臣の前で自分に頭を下げてほしいと頼む。
 家康はそれに従うが、秀吉が愛用している大切な陣羽織(じんばおり)を所望(しょもう)する。
 その陣羽織は、秀吉が信長からもらった大事なもので誰にも渡したくなかったが、与えざるを得なかった。

 秀吉は、茶室に茶々を招く。
 江も勝手についていくと、秀吉は、母と妹に犠牲を強いたので、好きな茶を断っていた。再会する最初の茶は茶々に出そうと思っていたと憎いことをいう。

 ――といった内容であった。


敵に回せない力を家康は備えていた

 秀吉は、家康を恐れていた。
 小牧長久手(こまきながくて)の合戦で家康の力を思い知らされているので、力で屈服させるのは無理と考え、実姉や実母を政治の道具にしたのだ。
 「利用できるものは何でも使え」が秀吉の考え方だったのである。

 家康は、秀吉の実母を人質として送られたとき、自分が幼少時代に今川義元(いまがわよしもと)のところへ人質として送られたことを思い浮かべたに違いない。

 そして、明智光秀が人質として送った実母を殺された例も頭に浮かんだだろう。
 光秀は、丹波国の八上(やかみ)城を攻めたとき、信長の命で、和睦を結ぶ条件として実母を人質として送ったが、敵の送った人質を信長が殺したために、その仕返しとして実母は磔(はりつけ)にされているのだ。
 本能寺の変は、この事件が遠因といわれている。

 家康は、秀吉が母親を人質として送ってくるくらい自分を恐れていると知って満足し、顔も立ち、大阪城へ出かけていったのだ。


江姫には「盗聴癖」があるという設定

 ドラマを見ていると、NHKと脚本家が、江姫を歴史的事件の現場に居合わせるか、目撃者ないしはそれに近い立場にするために、「江には盗聴癖がある」という強引な設定にしている。

 第17回「家康の花嫁」では、隣室で盗み聞きしていると襖を開けられて見つかり、秀吉に「盗み聞きする癖がある」といわれていた。

 好意的に考えれば、「好奇心旺盛」ということになるが、あまり関心できる癖ではない。

 彼女は「知恵が働く」という人物設定にもなっていて、秀吉は彼女にアイデアを出せと迫る場面が何度もある。
 第17回でも、秀吉に「何か知恵を出せ」といわれて、江は、
 「おのれの大事なものを差し出してこそ、相手は考えようという気にもなる」
 と答え、それが母親の人質につながったという演出になっている。

 こういう展開はかなり無理がある、と多くの視聴者はみているはずだ。
 江は天正元年(1573年)生まれなので、第17回のドラマが進行している段階では12~13歳くらいの年齢だからである。

 その年齢で、そのような知恵を出せるようなら、のちに3代将軍争いで春日局に負けるようなことにはならないのではないか。


江姫と秀勝は〝できちゃった婚〟か

 「秀吉にずけずけものをいえるのは江と秀勝の二人だけだ」とNHKはいわせているが、この2人はやがて結婚するのだから、〝似た者同志〟ということになる。

 NHKドラマでは、2人が結婚するのは文禄元年(1592年)としている。
 しかし夫の秀勝は出征し、同年秋に死ぬ。

 2人の間に誕生した姫完子(さだこ)が誕生したのも同じ年であるとされている。
 江は18歳か19歳で出産ということになる。
 完子は早産で生まれた可能性もなくはないが、江が普通に出産していたとすると、1月か2月に挙式し、子づくりしていないと年内誕生は難しい。
 ということは、〝できちゃった婚〟か!? 

(城島明彦)

2011/05/03

「茶々の愛を得るために秀吉は関白になった」とするNHK大河「江」(第16回)の解釈は、あまりにマンガ的すぎないか

第16回「関白秀吉」のストーリー

 ゴールデンウィーク(5月1日)放送の「江~姫たちの戦国」は、「関白秀吉」というタイトルが示すように――

 百姓の倅(せがれ)にすぎなかった男が、手練手管(てれんてくだ)を弄(ろう)して戦国乱世を巧みに世渡りし、どんどんと出世してついには内大臣の地位にまで登りつめた。
 だが、彼の出世欲はとどまるところを知らず、さらなる上をめざすと江や茶々たちに宣言する。

 武士の最高位といえば、征夷大将軍である。
 秀吉は、織田信長が将軍の座から引きずりおろした前将軍足利義政に目をつけ、得意の養子縁組作戦で野望の実現をめざす。

 しかし、「百姓あがりの分際で」と一蹴されてしまい、困り果てた秀吉は、
 「どうすればいいのだ。アイデアを出せ」
 と江に相談する。
 「将軍より上の者になればいい」
 と江がいったことが発端となり、秀吉は発想を転換、関白太政大臣を狙うことになる。

 摂政・関白になれるのは、平安時代の藤原良房に源流を発する5公家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)と決まっていたが、近衛家と二条家の間で関白の地位争奪戦が起きているのを知った秀吉は、そのどさくさに乗じて近衛前久(このえさきひさ)に近づく。
 
 そして秀吉は、「金銀財宝攻撃」という成り上がり者にふさわしい手法で近衛前久を陥落させ、「猶子」(ゆうし/親子関係)の縁結びを承諾させ、ちゃっかり関白という地位を手に入れるのだ。

 武士が関白になった例は、日本史上、それまで例がなかった。その関白になったという報告を秀吉は、いの一番に茶々にするのである。
 
 「自分の関心を引こうとして関白になった」という話を聞いて、宮沢りえ扮する茶々の顔が紅潮する。さて、どうなりますか? 続きは次週。

 ――といった内容だった。

 しかし、茶々の関心を引こうとして関白になったというのは、いかにもマンガチックで、説得力に欠ける。


「江」は、ご都合主義のお手軽ドラマなのか?

 生前やってもいなかったことを、あたかもやっていたかのように死後語られることは多い。

 テレビドラマでいうと、水戸光圀がモデルの「水戸黄門」にしても、吉宗の「暴れん坊将軍」にしても、歴史上の本人とはまったく異なる話、別人の話になっている。

 誰もその場にいたわけではないから、昔のことは想像するしかないが、その想像がありえる範囲なのか、まったくありえない範囲なのかを、作り手は考えながらやるしかない。

 NHK大河ドラマは、脚本家が好き勝手に書いているわけではない。
 時代考証をチェックする立派な専門家がついていて、「その程度ならいいでしょうとか」「それはマズイ」などとアドバイスしている。

 そういうシステムを考えると、まったくありえないことを描いているは思えない。

 しかし、これまでのドラマづくりを見ていると、どうもその一線を超えまくっているように思えてならない。


歴史を無視したらドラマづくりは簡単 
 
 小説でもドラマでも、実在の人物を登場させるときの制約になるのは、歴史上の事実である。
 事実というしばりが多ければ多いほど、作者の想像力が入り込む余地はなくなる。
 
 逆の言い方をすると、歴史的事実が少なければ少ないほど、作者は想像力をふくらませることができ、自由奔放な設定や展開を楽しむことができる。

 小説やドラマでは、歴史的事実を無視して歴史を捏造するというやり方も、よく行われる。
 その最たる例のひとつがが「義経は生きていて蒙古に渡ってチンギスハーンになった」である。
 「天草の乱の首謀者天草四郎時貞は女だった」などというのもそのたぐいだ。

 タイムスリップして過去の時代に入りこむというSF的手法もあるが、その場合は、現実には起こりえない設定で話を進めていることを読者や視聴者は知っていて、ドラマなり小説を楽しんでいるのだから、ある程度の嘘は許されるが、歴史上の事実を次から次へと否定するような描き方はありえない。

 一時、実は日本は太平洋戦争で負けていない設定し、日本軍が米軍をやっつけてしまうという「シミュレーション小説」が流行ったことがあるが、私の感覚ではありえない世界である。

 「江」の制作陣がどういう考え方をしているのかが視聴者側によく伝わってこないので――たとえば、秀吉の描き方なら、ドタバタ喜劇調と思ってみていると、突然シリアスドラマのような描き方になるといったような――そういう中途半端さが視聴率にも影響しているのではないか。

 秀吉の決断に実際に江が絡んだかどうかは誰も知らないし、資料も残っていないから、どう解釈しても勝手だが、ドラマだから何をやってもいいということにはならない。


初にはキリスト教徒だった時期があった

 ドラマのなかでは、初が大福を食べまくるところだけが強調され、がさつな感じの女性として描かれているが、彼女の遺言に書かれている内容から考えると、もっとやさしくて、繊細な女性に描くべきではないのか。

 初は、いとこと結婚した。お父さん(浅井長政)の姉の息子京極高次が夫である。
 お父さんの姉の名は、京極マリア。長女龍子は秀吉の側室になっている。京極龍子は京極家を救うために秀吉の側室になった。

 マリアは、洗礼名である。
 熱心なキリスト教の信者だったマリアは、大勢の人を信者にさせている。
 彼女の説教には説得力があったのだろう。

 当時の女性のキリシタンというと、明智光秀の娘で細川忠興(ただおき)に嫁いでいる細川ガラシャ(たま)が有名だが、水川あさみ扮する初もキリシタンだった時期があるのだ。

 初は、嫁ぎ先の義母マリアの影響で、マリアの息子である夫高次ともども洗礼を受けるのである。


細川ガラシャ

 細川ガラシャは、夫に隠れて洗礼を受けている。
 
 彼女は、悲劇的な女性として語り継がれている。

 秀吉は、関が原の合戦に臨んで、家臣が徳川方につくのを恐れ、彼らの妻子を人質として大阪城に集めようとしたが、ガラシャはそれを拒み、死を決意するのである。

 しかし、キリスト教では自害を認めていないので、自分を殺すように家臣に指示したという逸話は有名である。

 細川ガラシャが人質になることを拒否して死んだ理由は、2つあると推測される。
 ひとつは、大阪城に行けば好色な秀吉に目をつけられ、側室にされてしまう危険性を感じ、キリスト教の一夫一婦制の教えにそむくことになるからだ。
 もうひとつは、徳川につくか秀吉につくかという夫の判断を誤らせてしまうことを恐れたからだ。

 
初は心やさしい女性

  茶々――関白秀吉の側室となり、世継ぎの子秀頼を生む
  初――いとこの京極高次と結ばれ、若狭小浜藩の城主の正室となる
  江――徳川2代将軍秀忠の継室(後妻)となる

 流転の浅井3姉妹の妻としての地位を並べて見ると、初だけがただの大名夫人でおわっており、見劣りがする。

 初は、夫の高次が関が原の合戦で手柄を立てたと評価され、加増されて若狭の大名になり、そこへ移るが、大阪冬の陣・夏の陣では、姉茶々のもとへ家康の使いとして派遣されるなど重要な任務もこなしている。

 やがて高次が死ぬと、出家して「常高院」(じょうこういん)と名乗り、66歳まで生き、父母や茶々らの菩提を弔うのである。

 初が死を前にして書いた遺言には、自分の回りにいた女性たちの一人ひとり実名を挙げて、先々のことをこまごまと息子に頼んでいる。

 実に心やさしく気くばりのできる女性だったのである。

 そういう性格は、子どもの頃からのものだから、NHKのドラマでも、食い意地がはったところばかり強調せず、もっとそういう点を強調しておくべきだったのではないか。

(城島明彦)

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