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2011/04/25

ひしと抱き合う江姫と秀吉。彼女も、たらしこまれたのか?(NHK「江~姫たちの戦国」第15回「猿の正体」)

秀吉と江姫

4月24日放送のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」(第15回「猿の正体」)のストーリーは――

 秀吉とはどんな人物なのか!?
 好奇心旺盛な江姫は、秀吉の正体を探ろうとして、彼の腹心の石田光成(いしだみつなり)や軍師黒田勘兵衛(くろだかんべえ)、正室のねね(おね)や秀吉の側室になっている従姉の京極龍子(きょうごくたつこ)らを取材して回るが、誰も悪口をいわないので戸惑ってしまう。
 
 こうなったら、秀吉から直接聞き出すしかないと江姫は結論を下し、行動に移す。

 秀吉は、逆に江姫に、自分の養子で後継者の秀次(姉の息子)について質問した。
 「小牧長久手(こまきながくて)の合戦でドジを踏んだ秀次に、次のいくさの総大将を任せたものかどうか」
 江は、こう返事した。
 「任せた方がいいのでは。頼る人がいないと思うと頑張るから」
 秀吉はその意見を参考にする。仮病を使って自身が出陣できないように装うことで、秀次に指揮をとらせたのだ。
 すると、江の考えが的中。秀次は戦果を上げ、秀吉は喜ぶ。
 このことで、江姫と秀吉の間に横たわっていた隙間が少しせばまった。

 江姫は、秀吉に、
 「どうして自分と夫である佐治一成(さじかずなり)を引き裂くようなことをしたのか」
 と迫る。

 秀吉は、
 「畏敬してやまなかったお屋形さま(信長)の顔が江姫さまの顔にオーバーラップするのが怖かったから、自分のそばから離れさせようと思って一成と結婚させた」
 と話す。

 そして、
 「そうはしたものの、お屋形さまの面影を忍ばせるそなたがそばにいないと寂しくて仕方がないので、強引に離縁させて、またそばへ呼び戻したのだ」
 と打ち明け、
 「すまなんだ」
 と詫びる。

 本心を素直に吐露する秀吉の姿を見て、江姫は秀吉を許し、ひしと抱き合うのだった。

 ――といった内容だった。


秀吉の偽書の演出上の不足点 

 ここで、前回(第14回)のドラマを見て少し経ってから気づいたことを、ちょっと書き足しておきたい。

 ドラマでは、秀吉が佐治一成(さじかずなり)と江を引き離す策として、初の名を騙(かた)って「茶々が病気」といった内容のニセ手紙を出し、大野城にいた江を大阪城まで呼び出すという設定になっていた。

 その前に初が江に出した手紙も演出として見せており、その手紙では差出人が「初」と書かれていることを視聴者に示しておいて、次に送られた秀吉偽造の手紙の差出人が「はつ」と平仮名で書かれているところを映している。

 それを見たとき私は、
 「あれっ? さっきは確か漢字だったが、今度は平仮名になっている」
 と思ったが、その時点ではそれ以上の推理は働かなかった。
 気づく者だけ気づけという演出にしてあったのだ。

 あの場面は、彼女のそばの者に、
 「初様は気まぐれでございますね。この前のお手紙では『初』と漢字で書いておいででしたが、今度は平仮名でございますね」
 とでもいわせた方がよかった。

 そうしておけば、江姫が見舞いに大阪城へ行って、そこで初めて秀吉から「自分がニセの手紙を書いた」と告げられる場面で、「なるほど、そういうことだったのか」と得心(とくしん)する。
 

秀吉は初の字を真似できたのか?

 筆跡についても、疑問がある。
 「男の秀吉が、はたして、江が初本人と錯覚するほどそっくりの字で偽手紙を書くことができたかどうか」
 ということだ。

 「祐筆」(ゆうひつ)と呼ばれる代筆担当者が側近としているから、その連中に書かせたという設定だろうが、現実では文字のくせまでまねて本人になりすますのはとても難しい。

 「怪人二十面相」とか「鞍馬天狗」あたりでも、観客は誰が変装しているのかは顔を見てすぐにわかるが、ドラマのなかでは誰も気づかないような設定になっているから、江姫のニセ手紙も、ドラマなのだからそう細かくいう必要はないかもしれない。


家康と江姫

 さて、大河ドラマでは、ソフトバンクのおとうさん犬の声で人気の北大路欣也が演じている徳川家康は、最初から江姫に対して好感を持っているように描かれている。

 家康は「神君」などといわれ、日光東照宮に神様として祭られるほどの人だったから、為政者としての能力・実績には抜きんでたものがあるが、一筋縄ではいかなかったところから、〝タヌキおやじ〟ともいわれていた。

 家康は、老獪(ろうかい)で、腹のうちをそう簡単に明かすタイプではないが、江姫に対してはとても素直に接しているように描かれている。

 おそらく、彼女が徳川家康の息子秀忠と結婚し、2代将軍の妻となるということを前提にそういう設定にしたのだろう。家康は江姫の義父になるのだ。


「伊賀越え」で生死をともにしたから?

 家康は、信長が本能寺で光秀に討たれたとき、信長のはからいで堺見物をしていたから、光秀の敵とみなされ、命を狙われた。

 その危険から逃れるために、通常の道路ではない難所の伊賀越えを敢行して海辺に出、そこから船で三河まで逃れたのだが、そのとき江も同行していたというのがNHK大河ドラマの設定だった。

 もし江姫が家康のところにたとしても、光秀は信長の姪っ子である江姫のことはよく知っていたし、彼女を殺すようなまねはしないだろうと考えるのが普通で、「伊賀越え」にわざわざ幼い姫を同行させることはかえって危険である。

 足手まといにもなるから、どこかに預けてから伊賀越えするのが自然だが、NHKがそうしなかったのは、その先、
「生死をともにした間柄だから、家康は江をほかの2姉妹とはちょっと違う目で見ている」
 という展開にしたかったからだろう。

 一種のご都合主義というわけだが、その方がドラマとしては確かに盛り上がる。


信長と平家の公達の接点

 ここで話は変わって、家康、秀吉、信長の比較である。

 顔は家康がタヌキで、信長は面長だからキツネ、そして秀吉はサルだ。
 動物比較で一番頭がいいのは、人間に近いサルだろう。サル知恵が働く。

 気性の違いは、昔からよく例として挙げられ、誰もが知っている次の句で大体想像がつく。
  鳴かぬなら 殺してしまえ     ホトトギス   (信長)
  鳴かぬなら 鳴かせて見せよう  ホトトギス   (秀吉)
  鳴かぬなら 鳴くまで待とう    ホトトギス   (家康)

 短気で激情家の信長、手なづけようとする「人たらし」の秀吉、「急(せ)いては事をし損じる」とばかりにじっくりと腰をおろして機が熟すのを待つ家康と、三人三様だが、気の長い順に天下を取っていた時間も長くなっている。


信長の辞世の句

 信長は、天下統一途上に本能寺で予期せぬ死を迎えたので、
 「是非に及ばず」(もはや、何もいうことはない)
 という最期の言葉は伝わっているが、辞世の句は残してはいない。

 強いて挙げるなら、信長が愛好していた幸若舞(こうわかまい)「敦盛」(あつもり)の出だしの次の一節が、辞世の心情に近いといえるかもしれない。

  人間五十年 下天のうちを 比ぶれば 夢幻の ごとくなり

 この文言のあと、「ひとたび生を得て 滅せぬものの あるべきか」と続いていく。

 敦盛というのは、来年のNHK大河ドラマの主人公「平清盛」の甥っ子で、笛の名手だった貴公子であり、このときの年齢は10代半ばである。
 敦盛といえば「青葉の笛」。そして、熊谷直実(くまがいなおざね)を昔の人は連想した。

 ♪一ノ谷の        いくさ破れ
  討たれし平家の    公達(きんだち)あわれ
  暁(あかつき)寒き   須磨(すま)の嵐に
  聞こえしはこれか   青葉の笛

 文語体の文章からわかるように、これは明治時代につくられた唱歌「青葉の笛」の歌詞の一番で、「討たれし平家の公達」と書かれているのが敦盛である。

 この歌は昭和30年代くらいまでは、よく知られていた。
 私の場合、小学6年のときの担任の先生が、学芸会用に昔の唱歌を企画し、クラス全員で合唱させられたおかげで、この歌やら楠木正成(くすのきまさしげ)の歌やら乃木大将の歌やらといった昔の歌をいっぱい覚えている。


話は飛んで源平合戦

 話は、いつのまにか源平合戦である。それを小説風の書き方で紹介しよう。

 源氏勢によって京を追われた平家軍は、幼い安徳天皇を連れて西へと落ちてゆき、一ノ谷の海ぎわに陣を構えて、海から現れるはずの源氏軍を待っていた。
 平家は陸戦が苦手だが、海戦は得意。海戦に持ち込んで劣勢を挽回し、再び京の都に帰ろうと思っていたのである。
 背後は鹿しか通れるものがないといわれた急峻(きゅうしゅん)な崖である。
 守りは万全。完璧な陣地だと思われた。
 ところが、〝小柄で歯の出た色白の源氏の指揮官〟が、急勾配の坂を前にして崖の上で二の足を踏む部下たちに信じられないことを口走るのである。
 「鹿も四足、馬の四足。なんでおりられないことがあろう。馬が嫌がるなら、背負ってでも駆けおりろ」
〝奇襲大好き男〟の義経だった。
 馬を背負ったら間違いなく押しつぶされてしまうから、これは誇張とわかるが、そういう心意気で駆けおりよといったニュアンスのことをいったのだろう。
 義経は、自ら先頭になって急勾配の崖を駆けくだり、平家を背後から襲ったのである。


敦盛の最期と熊谷直実

 来るはずのないところから敵が降ってわいたのを知って、平家軍は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 われがちにと、沖に停泊している軍船をめざして逃走を開始した。
 出遅れた敦盛が馬にまたがり、海へ乗り入れると、背後から、
 「卑怯者(ひきょうもの)!」
 と大音声(だいおんじょう)で呼ばわる者がいる。
 振りむくと、鎧兜(よろいかぶと)に身を包んだ一人のむくつけき武者が、
 「敵に背を向けて逃げるとは卑怯千万(ひきょうせんばん)。戻ってきて、尋常に勝負せよ」
 と怒気をはらんだ声で叫んでいる。
 そこまでいわれては引き返さないわけにはいかない。

 敦盛はその男と戦ったが、力が違いすぎた。
 あっというまに組み伏せられた。
 男が兜(かぶと)を押し上げると、わが子と同じ年頃の貴公子の顔が現れた。

 直実は、年端(としは)もいかない若武者をわが手にかけるのが憚(はばか)られ、逃がしてやろうと思った。
 ところが、味方の軍勢が何十騎かこちらへ向かってるのが目に入った。

 (自分が手を下さなくても、この若武者は殺される。もはやこれまで)
 そう思った直実(なおざね)は、仕方なく、
 「覚悟めされい。では、ごめん」
 といって首をはねたのだった。
 若武者は笛を持っていた。
 それは、音に聞こえた「青葉の笛」であった。

 話はここで終らない。
 熊谷直実は、うら若い平家の公達の首を討ったことをさかんに悔いて、この後、出家してしまうのである。


信長の死生観と『平家物語』

 信長というと、どちらかといえば猛々(たけだけ)しい話が好きで、『平家物語』のよう暗くてじめじめした話は好まないような印象があるが、信長が好んで歌い舞ったといわれている幸若舞「敦盛」は、『平家物語』が好んだ死生観がテーマである。

 その敦盛を描いた唱歌「青葉の笛」には、『平家物語』の冒頭の4行に凝縮された「無常観」という当時の死生観が綴られているのだ。

  祇園精舎の 鐘の声 
  諸行無常の 響きあり
  沙羅双樹の 花の色
  盛者必衰の 理(ことわり)をあらわす

 信長は、自分はまだ夢の途上におり、栄花を極めたとは思っていなかったろうが、なぜ「滅びの美学」に貫かれた平家の公達「敦盛」を好んだのか?

 思いがけない自らの突然死を予期していたのだろうか。


秀吉の辞世の句

 秀吉も天下を統一しはしたが、朝鮮出兵に失敗するなど思い残すことはあって、それが彼の辞世の句に現れてもいる。

  露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 (私は今、明け方の冷気のなかでひっそりと大地にしたたり落ち、やがて日が昇ると消えていく朝露のように、死んで行こうとしている。百姓から身を起こし、とうとう天下を取って大阪城を築き、思い通りに世の中を動かした日々のことが、遠い遠い昔に見た夢のような気がするなあ)

 秀吉は、自分はもう長い命ではないと自覚したとき、過去を振り返って、次の二つのことを考えたはずだ。

  ①百姓に生まれながら、よくここまでやってきた。
  ②60近い年齢で誕生した幼い息子秀頼が、自分が築いた体制を「磐石」(ばんじゃく)なものとしてくれるかどうか。

 秀吉は、自分の生き方には満足しながらも、それでも大きな不安を感じながら死んでいったのではないか。
 私は、前記の辞世の和歌からそういうことを感じるのである。

  旅に病んで 夢は枯野を 駆けめぐる

(思いがけなく旅先で病気になってしまい、回復できずにこのまま死んで行こうとしている私の脳裏には、若い頃から思い続け、願い続けてきた夢や理想が走馬灯のように浮かんでは消えているよ)

 これは俳聖芭蕉の辞世の句であう。そのとき芭蕉は50歳ぐらいだった。

 秀吉と芭蕉の辞世の句は、短歌と俳句という違いはあるものの、どこか似ている。
 対する秀吉は61歳で死んでいる。それでも50前に死んだ信長に比べたら長生きだった。

 信長や秀吉の辞世の句には、「この世への未練」のようなものが感じられるが、家康にはそれがない。

 家康は、天下を統一し、体制もある程度まで固め、秀忠という後継者も育てた。しかも当時としては長生きの73歳まで生きたからか、辞世の句は恬淡(てんたん)としている。

  先に行く 後に残るも同じこと 連れて行けぬを 別れとぞ思う

(人は必ず死ぬ。遅いか早いかの違いだけだ。死んでいく私としては、死出の旅にほかの者を連れていけないのが別れというものなのだな)

(城島明彦)

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