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2011/04/19

江姫と佐治一成は、本当に夫婦の営みなしに別れさせられたのか? (NHK「江姫~姫たちの戦国」第14回)

 秀吉が江姫たちにすることは、単純な意地悪や策謀ではない。信長への畏敬の念と信長の血を引く姫たち〝貴種〟に対していだく屈折した思いの裏返しである、と私は考えている。

 第13回「花嫁の決意」(4月10日)は、NHKの都合で放送時間が繰り上がっていたのに気づかず見られなかった。初めての見落としで、しかも、週末(土曜)の昼間の再放送も見逃したので、ストーリーがどうなっていたかわからない。タイトルからおおよその見当はつくものの、感想は述べられない。


第14回「離縁せよ」(4月17日)のストーリー

「離縁せよ」は見た。そのなかで描かれたのは――

 江姫は、秀吉のさしがねで、愛知県知多半島にある大野城の城主佐治一成(さじかずなり)に嫁ぐのだが、一成は江姫に優しく、江姫は好感をいだく。

 一成は、まだ幼くバージンである江姫に気をつかって初夜の営みをしなくてもよいという心遣いを見せ、江姫はそのやさしさにひかれていく。
 
 その直後に織田信雄(のぶかつ)・家康連合軍と秀吉とが小牧長久手の合戦に突入し、一成は出陣。いくさは信雄・家康軍に有利に展開したので、秀吉は信雄とのみ交渉して和睦するという巧妙な手を使い、家康の戦意を削いで戦いを終らせ、家康とも和解した。

 戦場から戻った一成と、さあこれから本当の夫婦になるという矢先に、大阪城の秀吉のところに庇護されている茶々から病気になったという手紙が届く。一成に見舞いに行ってやれといわれ出かけてみると、姉の茶々と初は雪の庭で遊んでいるではないか。
 
 驚く江に、秀吉は、あの手紙は自分が書いた偽りの内容で、一成とは離縁させ、大野城から追放したという。それだけでなく、江を自分の養女にしたと伝えた。

 自分に一言の相談もなく、勝手なことをされて頭にきた江姫は、秀吉に雪の玉を投げつける。さて、おあとは、どうなりますか。

  ――というのが、第14回「離縁せよ」であった。


「枕絵」を見てみて卒倒した江姫

 ドラマのなかで、江姫が「枕絵」を見せられて卒倒するシーンが描かれていた。
 江が表紙をめくり、あっと驚く最初のページをちらっと映していたので、「NHKもやるなあ」というか、「変わったな」と思ったものだ。

 江姫が一成と結婚するのは、遅くとも彼女が11歳前後であるから、驚かない方が不思議だ。

 あぶな絵は今の言葉でいうと「危ない絵」、つまり、18歳未満禁止の「ひそかに鑑賞する絵」のことで、男女の交接時の「体位」を描いた春画である。

 江戸時代になると、葛飾北斎やら北川歌麿といった著名な画家が将軍家やら大名家などからも注文を受けてアルバイトの一環として危ない浮世絵を描くようになり、一般向けにも書いたから町人たちにも浸透した。


ウタマロ伝説

 枕絵は、男どもがエロ本として鑑賞するケースと、新婚夫婦の夜の教科書というまじめな使われ方をするケースの2通りの用途があった。

 その手の本では、男性のナニが誇張して描かれているのが普通だ。
 それをバージンの江姫がいきなり見たとすれば、
 (こ、こんなことするの!?)
 と卒倒してもおかしくない。男でもびっくりするのだから――。

 戦後、日本へ乗り込んできた進駐軍の軍人がその手の浮世絵を見て、
 「トゥー・ビッグ!」
 と驚いたという話が巷に広がった。
 
 それ以来、日本人のそれを「ウタマロ」と呼ぶ軍人も多く現れたほどだったが、現実はまったく逆。日本人は白人やら黒人やらのそれをみて、それこそ目を白黒してしまい、この方面でも降伏した。


性教育と枕絵

 話を江姫に戻すと、公家、大名、武士の格式の高い家に生まれ育った深窓の令嬢のほとんどは「うぶな女性」で、男女間の性の儀式について無知なものが多かった。
 
 江姫の育った環境を考えると、幼くして父母に死に別れ、居場所も転々としていたから、性のことを考えている余裕などなかっただろう。〝ねんね〟だったのだ。

 そういう娘が嫁ぐと決まったとき、両親や既婚者の兄や姉があからさまに「初夜の心がけ」を詳細に教育したとは思えない。おおざっぱなことはいったかもしれないが、詳細なことまでは伝えなかったろう。

 そのかわり、百聞は一見にしかず。枕絵を日常よく使う花嫁道具のなかにそっとしのばせたのである。江姫の場合は、誰が配慮したのかわからないが、そういうこともあったかもしれない。しかし、まさかNHKがそれを使うとは思わなかった。


一成と江姫は気心知れたいとこ同士

 佐治一成と江姫の婚姻をNHKは「秀吉が政略結婚させた」という見方を前面に出していたが、必ずしもそうとばかりいえない、と私は考えている。

 江姫の初婚の相手佐治一成は、江姫より4~5歳年長である。

 知多半島に居城を構える佐治家の4代目の佐治一成と江姫は、お母さんが姉妹なので、いとこ同志にあたる。

 一成の母はお犬の方は、江の母のお市の方の姉なので、江は小さい頃から一成という名前を折に触れて聞かされていたはずで、しかも尾張界隈に住んでいたころには、そう遠い距離ではないので、遊びにいったり、向こうが遊びにきたりして会っていた可能性も高い。


江姫は良縁と思って嫁いだ

 一成のお母さんと江姫のお母さんは「美人姉妹」として天下に知られた存在であり、そんな母やおばが江は自慢だったろう。

 その母親が自害してこの世を去った今、面影が似たおばさんに甘えたい気持ちもどこかにあったはずである。

 残存する肖像画で見ると、信長の血筋は面長で色白な者が多く、美男、美女ぞろいだ。お犬の方もお市の方も面長で細面な〝しょうゆ顔系美人〟である。

 しかし、江姫の晩年の肖像画と伝えられるもののなかには、丸顔のものもあるが、概して面長なものが多い。年を取って丸顔になる人は多いから、そういう可能性もなくはない。江姫がもし丸顔だったとすれば、丸顔だった父浅井長政の血を継いだのかもしれない。

 秀吉が決めた婚儀ではあったが、江姫は嫌ではなかったと思える。秀吉のそばに残される姉2人と別れる寂しさはあったにしろ、やさしいおばさんがいる家に嫁ぐのだから、安心だという気持ちもあり、どちらかといえば、喜んで嫁いでいったのではないか。


一成の先祖は熊野の海賊?

 一成の父、信方(のぶかた)は、信長の妹を嫁にもらっているのだから、信長の信は厚かったと考えるのが常識。しかし、その父は伊勢長島(現在、「グランスパー長島」という娯楽施設があるところ)の一向一揆を鎮圧に行って二十代前半の若さで死んでいる。

 佐治氏の本家は、近江国甲賀郡とされているが、武士が勃興した源平時代あたりまでさかのぼると、『平家物語』に出てくる熊野別当湛増(くまののべっとうたんぞう)の仲間で、伊勢湾や熊野灘あたりを支配していた海賊ではないかと推測される。

 壇ノ浦の戦いのキャスティングボートを握っていたのが熊野湛増で、この男、闘鶏でどちらにつくかを決めようとした。
 源氏は白い旗、平家は赤い旗を使っていたので、赤い鶏と白い鶏を戦わせ、勝った側につこうとしたのである。

 結果は赤い鶏が全滅。それを見て湛増は源氏につき、平家は敗れてしまったのだ。


一成との仲を引き裂かれる 

 一成との仲を引き裂かれた理由は、明確ではない。
 
 佐治家は織田家の家臣であり、信長の妹をもらっている家柄であるから、小牧長久手(こまきながくて)の合戦が勃発したときの立場ははっきりしている。

 一成は、織田信長の遺児信雄(のぶかつ)と家康の連合軍についた。いくさは信雄・家康軍に優勢となり、家康のおそるべき野戦力を思い知った秀吉は、信雄と家康の分断作戦を取り、信雄と和睦する。

 信雄が和睦してしまったので家康も手を引かざるを得ず、秀吉と講和を結ぶ。
 しかし、このいくさで家康は秀吉に力を見せつけることができ、合戦の効果は大きかった。

 そのいくさの後、秀吉は、佐治一成から城や領地を取り上げ、江姫と離縁させている。
 戦勝軍についた佐治一成をなぜ!? 
 このあたりの事情は、歴史上のなぞである。よくわかっていないので、いかような解釈も成り立つ。

 江は秀吉の居城である大阪城に引き取られるが、NHKドラマのような、秀吉が江をニセの手紙で江姫を大阪城へおびきよせたという当時の歴史的記録はない。

 NHKは「離縁と同時に秀吉が江姫を自分の養女にした」と解釈しているが、江をいつ養女にしたのかについての信頼できる資料はない。

 詳しくは後述するが、江姫は、秀吉の命令で、離婚の翌年、秀吉の姉の子で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(はしばひでかつ)と再々婚させられる。

 秀吉には当初からそういう考えがあって佐治一成に難癖をつけて離婚させたことも十分考えられる。あるいは、一成との間に政争のようなものがあって彼を追放し、江姫と離婚させたとしても、江姫と秀勝の結婚が一成との離婚から1年以内であることを考えると、「離婚即養女入籍」を急ぐ必要性などないのではないか。

 小牧長久手の合戦で家康に屈した秀吉は、江と秀勝を結婚させた翌天正14年(1586年)、すでに嫁いでいたもう一人の40代前半の妹(朝日姫)を、45歳の家康の正室として送り込み、親戚の縁組をするという強引なことをして家康にゴマをすっている。

 家康は迷惑だったろうが、断らずにすんなり受け入れるところが〝タヌキ〟たるゆえんである。

 別れさせられた朝日姫の夫は自刃(じじん)して果て、長年連れ添った夫との仲を引き裂かれた彼女も、数年後に心痛死してしまうのだから、むごい。


離婚理由は何とでもつけられる

 佐治一成は切腹を命じられたのではなく、大野城から追放され、伊勢国(いせのくに)に蟄居(ちっきょ)を申し付けられているので、たとえば秀吉の命を狙うような大事件をやらかしたわけではなかったろう。

 離婚させる理由は、何とでもこじつけられる。たとえば、こういう例がある。

 後日のことになるが、家康は、のちに方広寺(ほうこうじ)の鐘に刻まれた「国家安康」という文字を見て「家康という字を分断している」とか、「君臣豊楽」という字は「豊臣家は栄える」といっているなどと難癖をつけて、秀吉亡き後の豊臣家にいくさを仕掛け、豊臣家を滅ぼすのである。

 失意の一成を庇護(ひご)したのは、母方のおじさん(お犬の方の兄)だった。信長亡き後、妹のお市の方や江たちの世話をしたこともある織田信包(のぶかね)である。
 信包は、何かとめんどうがよく、江たちにもやさしかった。

 江との仲を裂かれた一成は、再婚し、子供にも恵まれるが、やがて信包が丹波国(たんばのくに)に移封されると、一緒についていくことになる。江の三度目の結婚から数年後(1598年)の出来事だ。

 一成は60代まで生きるので、江姫が三度目の結婚をして徳川第2代将軍秀忠(ひでただ)の正室となり、次々と女の子を生み、結婚10年目にやっと跡継ぎの男の子(のち第3代将軍家光)を生んで、将軍の生母になるという事実を知ることになる。

 一度は妻となった江姫が、遥か遠く、しかも身分も高くなり、手の届かぬ存在になってしまったことをどう思っていたのかは、想像するしかない。


江姫は二度目の再婚相手とは死別

 秀吉によって、生木を割くようにして一成と別れさせられた江姫の再婚相手は、秀吉の甥っ子だった。

 羽柴小吉秀勝(はしばこきちひでかつ)。1568年生まれで、一成より1歳か2歳年上。
 ミドルネームの小吉は幼名である。
 秀勝は、秀吉の実の姉の子供だが、子どもがいなかった秀吉の養子となっていた。

 羽柴小吉秀勝と再婚したのは、天正13年(1585年)秋といわれ、江姫が12歳前後のときである。
 大河ドラマを見ていると、とてもこの年齢とは思えない言動をしているが、そこには目をつむるしかない。

 秀吉は、長浜城に天正3年(1575年)から8年ほど住んでおり、そのとき長男が生まれたといわれている。その名前が秀勝。しかし、秀吉の後を継ぐべく生まれたその子は幼くして死んだ。正室ねね(おね)との間には子供は生まれなかったので、側室の子とされている。

 どうしても跡取りがほしかった秀吉は、信頼すべき姉の日秀(「とも」と読む)の子小吉(こきち)を養子にし、亡き子と同じ名前をつけたのである。
 
 江はその男と再婚したのである。

 浅井3姉妹の長女茶々を自分の側室にして子供を生ませ、3女の江姫は息子の嫁にするのだから、秀吉はお市の方の血がどうしてもほしかったのだろう。

 だが、こんな見方も成り立つ。大事な自分の跡取り息子に江姫を嫁がせたという見方だ。そう考えると、秀吉は、江姫を幸せにしてやろうと思ったということになる。


信長の呪縛と秀吉の屈折した愛のかたち
 
 ここで考えなければならないのは、百姓のせがれだった秀吉の氏素性(うじすじょう)である。

 そして、そんな人間に目をかけてくれ、一国一城の城主にまで取り立ててくれた信長を信奉しまくっていた秀吉の熱い思いである。

 そしてさらに、尊敬してやまない信長の血とつながっているお市の方やお犬の方、彼女たちが生んだ織田家の遺伝子を継承する娘たちへの「屈折した愛情」である。

 「その裏返しが、茶々を側室にしたり、江姫を一度は嫁がせながら気が変わって自分の跡取り養子の嫁にしたのではないのか」
 というのが、私の推理である。


秀勝の顔はサルっぽかった?

 サルの姉の子だから、美男とは縁遠い顔をしていたであろう可能性は高い。

 その点、一成は美形の血筋だったから、容貌の差は歴然としているが、江はサルの血を引く甥っ子の子供を生むのである。

 女の子で、名前は「さだこ」。
 井戸から這い出てくるあの「こわ~い貞子」ではなく、のちに関白九条兼孝の息子と結婚し、その子孫は今日の皇室につながってくる「完子」と書く「さだこ」である。

 皇室には、秀吉の血も信長の血も浅井長政の血も入り、さらに徳川の血も入ことになるのだから天下無敵というべきか。

 しかし、第2の夫秀勝は、秀吉が始めた朝鮮出兵の総大将に任ぜられ、朝鮮半島にわたるが、そこで病死してしまうのだから、江もかわいそうだ。
 秀勝は向こうで荼毘に付された可能性もあり、江姫が変わり果てた夫の遺骸と対面できたかどうかは不明である。

 最初の夫とは生き別れ、次が死に別れと不幸続きの江姫が、徳川家の跡取り息子と再々婚するのは、その3年後である。

                  佐治一成に嫁ぐ(時期不明)  
 天正12年(1584年)3月   小牧長久手の合戦(11月終結)    江姫11歳前後
                  最初の夫佐治一成と離婚
 
 天正13年(1585年)秋    羽柴小吉秀勝と再婚。         江姫12歳前後

 文禄元年 (1592年)秋    秀勝、戦地で病死。           江姫19歳前後

 文禄4年 (1595年)      徳川秀忠と再々婚            江姫23歳前後

 こうやって江姫の履歴を眺めると、上野樹里が大人の江姫を演じられるまでにはまだしばらくかかりそうだと気づく。

 江姫が、徳川秀忠と再々婚するのは、秀吉が死ぬ3年前である。

 江は、愛娘を秀吉の側室となった大阪城の長姉茶々に託して、今度は家康の跡取り息子秀忠の後妻として嫁いでいくのだが、徳川家の跡取りとなる男の子を生むまでには十年もかかる。
 その間の風当たりがすごかったであろうことは想像に難(かた)くないが、それでも気丈な彼女は秀忠がほかの女に目を移さないように目を光らせる。
 
 秀忠の先妻は、織田信雄(のぶかつ)の娘小姫(おひめ)で、この女性も秀吉は養女にしている。
 しかし、信雄と秀吉のなかが悪くなってしまい、離縁され、翌年死去する。
 小姫の正確な生年月日は不詳だが、10歳未満で亡くなっていることを考えると、気の毒を通り越して残酷である。

 その後釜として送り込まれたのが江姫である。
 江姫もまた秀吉の養女にされており、秀吉は〝養女作戦〟を活かして家康と血縁を結び、懐柔しようとしていた腹のうちが読める。

 それにしても、ハゲネズミのあの手この手の策略で、何人の女性が運命を狂わされたことか。
 秀吉の考え方は、今日のまともな感覚ではさっぱり理解できないが、ついこの間までは豊臣秀吉の人気は織田信長よりもはるかに高かったのである。

(城島明彦)

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