昭和の伝説「天地真理の光と影」
◆60年代後半の吉永小百合と70年代前半の天地真理
1960年代の国民的アイドルが吉永小百合なら、70年代前半の国民的アイドルは天地真理だった。
天地真理ほど幅広い層に人気があったタレントは、その後、出ていないのではないか。
天地真理 1951年11月5日 大宮市(現さいたま市)生まれ。
吉永小百合 1945年3月13日生まれ 東京都生まれ。
吉永小百合は早生まれなので、天地真理より7つ年長のお姉さんということになる。
天地真理は、1971年夏に始まったTBSの連続ドラマ「時間ですよ」で「隣のまりちゃん」役でデビュー。10月には水色の恋」で歌手としてもデビューし、この曲が大ヒットした。
彼女が所属するナベプロは、彼女の人気に目をつけ、12月にこの曲以外はほかの歌手のヒット曲で構成したアルバム(LPレコード)を発売した。
これがオリコンチャート1位となって、一気に「歌手・天地真理」の人気が爆発。以後、出す曲、出す曲が大ヒットし、テレビに顔が出ない日はないような超人気者になった。
彼女のやさしそうな笑顔が、つくりものではないことを視聴者は見抜き、男女を問わず、幼児から年寄りまで、幅広い層に支持されたのだった。
そんな歌手は、彼女以後、いない。
◆歳月が天地真理を激変させた
吉永小百合は美しく老いてきたが、天地真理は老いに失敗した。
歳月は残酷である。国民的アイドルだった天地真理の容姿を激変させてしまった。
天地真理は1977年に引退し、表舞台から消えていたが、彼女は太りやすい体質だったのか、1977年に再デビューしたときは、顔がふっくらした印象を与えた。が、86年に結婚したときもアイドル時代の面影から大きく隔たるような顔つきではなかった。彼女の結婚生活は10年で、96年に離婚に至る。
いきなり驚かせたのは、2003年9月14日に日テレのバラエティ番組「壮絶バトル 花の芸能界 衝撃の天地真理スペシャル!」に、往時のイメージとは似ても似つかぬ〝変わり果てた姿〟でゲスト出演したときだった。
子供を産んでから太ったのだろう。彼女が長女を出産したのは1987年8月16日、35歳のときで、その頃の写真はかなりふっくらとしている。
バラエティ番組に出演したときは、それから約16年後、彼女はすでに50歳になり、すっかり肥満した体に変貌してしまっており、かつて「白雪姫」といわれた面影はまったくなくなっていた。
そんな変わり果てた姿でテレビ出演する6年前(1997年4月)に、彼女は『スリムになるってステキなことネ――天地真理の白雪姫ダイエット』という本を双葉社から出している。アイドル時代をほうふつさせる笑顔の天地真理の全身写真が表紙を飾っていた。離婚した翌年である。
そのことを知っていた人は、彼女がリバウンドしてしまったことを知って言葉をなくした。
その本のなかには、彼女が国立音大附属高校高1年生のある日、母親から「真理が2歳のときに父と離婚した」と打ち明けられたと書かれている。
天地真理が書いたダイエット本の第1章は「芸能界デビューから今日まで」、第2章「ダイエット失敗体験を告白します」、第3章「真理式食生活のポイント」、第4章「初公開ダイエット料理」、第5章「リバウンドはこうして防ぐ」となっていたが、うまくいかなかったのだろう。
別人に変貌していたのは、姿形だけでなく、声もだった。歌手とは思えないほどひどい歌い方をするのを聞いて、病気ではないのかと思った。声帯を痛めている。そうとしか思えなかった。
NHKも残酷である。バラエティ番組が放送された翌2004年の8月7日放送の「第36回思い出のメロディー」に彼女を引っ張り出し、「夏の日の恋」を歌わせた。
そのときの天地真理は、さらに肥満していて天童よしみもびっくりするような姿だった。
◆天地真理は松坂慶子より1歳上
彼女が最初に人々を驚かせたのは、1983年だった。その年の12月に講談社からヌード写真集(別冊スコラ10「天地真理写真集」/87ページ)を出したのだ。そのとき彼女は32歳になっていたが、顔だちはアイドル時代の面影を漂わせていた。
国民的アイドルがどうしてこんな姿をさらす必要があるのか、複雑な思いをいだいた人は多かった。
裸身をさらすことで吹っ切れたのか、天地真理は、1985年12月封切の日活ロマンポルノ映画「魔性の香り」に主演、ヌードになり、続いて1986年(昭和61年1月)には、17キロダイエットしたということを売りにして熟女ヘアヌード写真集「天地真理」(辰巳出版)を発売した。
83年のヌード写真集時から3年を経た彼女の乳房は、豊満になっていたが、そのことによって垂れ下がり気味となり、女体としての美しさは失われていた。
女優の松坂慶子は、天地真理より1歳下(1952年7月20日生まれ)で、2002年に50歳でヌード写真集を出している。彼女も中年期にえらく太って驚かせたが、美しい容貌は崩れていない。その点が、天地真理と違っている。
どこが違っていたのか。一言でいうと、見られ続けたかそうでないかの違いだろう。
松坂慶子はテレビや映画に出続けることで、美しさを保とうと努力して来たが、天地真理はテレビに出演しなくなって、ごく普通のおばさんとなり、太ってしまったのだろう。
松坂慶子は、その写真集を出して安心したのか、その後、急激に肥満していった。いや、好意的に考えると、しわをなくすために意図的に太ったのかもしれない。
◆天地真理のデビュー曲「水色の恋」
私は1970年に大学を卒業して東宝に入社し、新人研修を終えた夏から助監督として成城学園にある東宝撮影所勤務していた。天地真理のデビューはその翌年で、彼女の活躍した時期は私の青春後期と重なっている。
私は当時、撮影所から数分のところにあった独身寮に住んでいた。鉄筋コンクリートの2階建ての白い寮のロビーには白黒テレビが置いてあったが、仕事が多忙で、めったにテレビを見る暇などなかった。
時間があるときは、昔の映画を名画座に見に行ったり、寮でシナリオを習作したり読書したりしていた。
高校時代からの習性で〝ラジオのながら族〟だったから、寮の自室にいる時間のほとんどはソニーのトランジスタラジオをつけて、BGMとして音楽を流していた。
天地真理が出演している「時間ですよ」というテレビドラマにはまったく関心がなかったが、天地真理という新人がギターを弾きながら歌っている姿は知っていた。
最初は、その程度の認識だったが、「水色の恋」がヒットチャートをにぎわすようになって彼女の存在を意識するようになった。
この曲は、アルゼンチンタンゴの「ホテル ビクトリア」という曲の一部によく似た旋律の出だしが印象的な和製ポップスだった。アルゼンチンタンゴには哀愁があり、笑顔が似合う天地真理がふと見せる哀愁を帯びた表情とうまくマッチしていた。
◆お人形さんみたいだった美少女・吉永小百合
吉永小百合のことは、中学時代から知っていた。それ以前の小学生時代に、連続ラジオドラマ「赤胴鈴之助」を通じて彼女の声をすでに聞いていたが、名前と一致してはいなかった。
「お人形さんみたいな美少女だ。こんなきれいな顔の女の子がいるのか!? 」
という印象を受けたのは、1961年(昭和36年)に封切られた日活映画「草を刈る娘たち」の新聞広告の写真を見たときだった。私が中一のときだ。
彼女は、その前年に封切られた赤木圭一郎の「電光石火の男」に喫茶店の店員役に出ていたが、この映画は私の地元だった三重県の四日市市が舞台で、新聞広告にも彼女の顔写真は載っていたが、その写真はそんなに大きくはなかったように記憶している。
受像機こそまだ普及していなかったが、その年にはカラーテレビ放送が開始されている。
当時の新聞の夕刊最終面(通称〝ラテ欄〟)は、テレビやラジオの番組欄の下のスペースは、映画の広告で占められている日が多かったから、嫌でも目についた。
吉永小百合は小学生のとき(1957年)から子役としてラジオドラマや草創期のテレビドラマにも出演し、準主役級を演じてはいたが、主役の地位を確立するまでにはそれなりに苦労している。
対する天地真理のデビューは遅く、20歳の少し手前(正確には19歳と8か月)でテレビドラマに初番組し、そこから一気にブレークした。
吉永小百合は、映画全盛期に日活黄金期の銀幕スターとして不動の人気、主演女優としての揺るがぬ地位を築いた。
しかも1965年(昭和40年)に早稲田大学第二文学部に入学、きちんと単位を取って4年後に卒業している。
私は翌年早稲田大学の政経学部に入って、文学部の校舎の裏手にある下宿屋に住んだが、別の部屋にいる教育学部の1年先輩が「今日、吉永小百合を学食で見た」とうれしそうに吹聴するので、翌日出かけていったが、見つけることはできなかった。その後、これも同じ下宿の法学部の学生も「今日、吉永小百合に会った」と得意そうに話した。
その下宿には、もう一人、剣道部に所属する学生もいて、この男も後に吉永小百合をじかに見たといったから、彼女を見ることができなかったのは、その下宿で私だけだった。
◆天地真理のデビュー年は、日活がエロ路線に転換した年だった
映画人口のピークは1958年である。年間11億人(延べ人数)が映画を観ていた。映画館は「娯楽の殿堂」などというナレーションをかぶせた宣伝広告フィルムを上映映画の前に流したものである。
だが、テレビの台頭で、その映画の人気が凋落し、映画企業として成り立たなくなったため、「ロマンポルノ」と呼ぶエロ路線に全面的に移行すると発表、主だった専属俳優は日活を離れた。日活は1971年11月にロマンポルノの第1作を封切った。
日本映画史上に残る1971年は、彼女がテレビドラマ(TBS「時間ですよ」)でデビューした年であっただけでなく、ロマンポルノ第1作が上映された11月という月が、奇しくも、彼女の誕生月であった。
「時間ですよ」は1971年夏に始まった連続ドラマで高視聴率を獲得し、天地真理の名は一気に全国区となり、10月に歌手として「水色の恋」でデビューするや、たちまち大ヒット。以後、出す曲、出す曲が大ヒットし、あれよあれよというまに国民的アイドルとなった。
全盛期の天地真理を直接見た、あるいは彼女がテレビで歌うのを見た、彼女が主演した映画を封切館で見たという人は、若くても40代後半だ。それぐらいの歳月が流れすぎた。
◆きわだって美しく老いる吉永小百合
吉永小百合は人気女優としての自覚が強く、スポーツに励むなどして老いを最小限に食い止めて、いまだに美しさを保ち続けているのに対し、「白雪姫」といわれた天地真理は、娘から中年になっていく過程で、節制を怠り、昔日の面影がしのべないくらい、容姿が激変してしまった。
吉永小百合はハッと驚く美人だったが、天地真理は隣りのきれいなお姉さんという感じだった。そんな親しみやすさが天地真理にはあった。
吉永小百合は映画を中心にして歌も歌ったが、天地真理は歌が中心でテレビドラマや歌番組にも出演していた。そこが大きく異なる。
吉永小百合は、映画が娯楽の王様だった時代のビッグスターであり、今日に至るも絶大な人気を誇っているのに対し、天地真理は、テレビが白黒からカラーに移行しつつあった時代に彗星のように現れ、彗星のように消えていったビッグスターだった。
吉永小百合は、「サユリスト」と呼ばれる若い男たちから圧倒的支持を集め、同姓たちにも嫌われることはなかったが、テレビにはほとんど出なかったから、幼児や爺さん婆さんたちのファンは少なかった。
「○○イスト」と呼ばれるファンがいたビッグスターは、「コマキスト」の栗原小巻と吉永小百合だけだった。
◆天地真理の歌声は「癒し系」
天地真理は、若い女の子なら誰でも憬れる「ふりふりのついた洋服」がよく似合ったので、若い男たちから「憬れの清順派」として支持されたが、彼女よりずっと年下の幼児や中高生たちからも熱狂的に支持され、爺さんや婆さんからも好感を持たれていた。
天地真理はそんなに歌がうまくなかったと思い込でいる人は多い。が、彼女は〝ただかわいいだけの歌手〟ではなかった。
デビューの翌1972年に天地真理の人気は爆発した。ちいさな恋(1972年2月発売/安井かずみ作詞・浜口庫之助作曲)は、オリコンチャート1位を独走。
以後、3~4か月の間隔で出した新曲「ひとりじゃないの」(1972年6月)、「虹をわたって」(同年9月)「ふたりの日曜日」(同年12月)がことごとく大ヒットし、彼女は紅白歌合戦にも出場した。紅白は、以後3年連続で出演することになる。
「ひとりじゃないの」の作詞は小谷夏。「時間ですよ」を演出した久世光彦のペンネームである。作曲は森田公一。
1973年になると、「若葉のささやき」(3月)、「恋する夏の日」(7月)、「空いっぱいの幸せ」(10月)の3曲を出し、これまた全部ヒット。松竹映画「虹をわたって」に主演する。
私は映画監督への夢を断念し、その年の4月に東宝を辞めて、ソニーに移った。ちょうど本社に宣伝部ができ、そこへコマーシャル担当として配属された。
天地真理は、ソニーとアメリカのCBSとの合弁企業であるCBSソニー(現ソニー・ミュージック)に所属していた。
環境が激変して欝気味になったが、彼女の歌声を聞くとなぜか気持ちがなごんだ。
そういうことに気づき、「恋する夏の日」が出てしばらくたった頃だったと思うが、私は、広告代理店の営業マンに頼んで、CBSソニーから天地真理のポスターを入手してもらい、パーテションに貼った。
東宝の独身寮にいた頃、五島列島出身の若い照明助手は、天地真理が好きで、彼女が出演している「時間ですよ」を見たいがために、冬のボーナスでカラーテレビを買っていた。
私の部屋には古い小型の白黒テレビしかなかったので、そのテレビを始めて見たときは、画像の美しさに驚いた.ソニー製のトリニトロン13型だった。
のちに自分がソニーに入って、しかもそのトリニトロンの宣伝をやるようになるのだから、人生はわからない。
◆天地真理の曲はイントロが秀逸
1973年10月にオイルショック(第1次)が起きた。これにより、日本の高成長はストップしてしまうという大事件であった。今回の東日本大震災では、食料などの開始目が起きているが、そのときは「トイレットペーパー」の買占めが起きた。
天地真理のその年最後の新曲「空いっぱいの幸せ」が発売されたのは、その10月だった。
1972年と73年に彼女が歌った新曲のなかで、この曲と「ふたりの日曜日」だけがオリコン3位だが、それ以外はすべて1位。人気のすごさがわかろうというものだ。
天地真理の曲のほとんどを作曲したのは森田公一で、作詞は山上路夫である。
森田公一と編曲担当の馬飼野俊一のコンビは、どの曲も、イントロにきわめて印象的でインパクトがある覚えやすい旋律を短く配し、それが聴く者の心を捉えた。
私がもっとも好きな曲は「花ひらくとき」(1973年7月)と「想い出のセレナーデ」(1974年9月)だが、それ以外の曲もなかなかいい。
「花ひらくとき」は「恋する夏の日」のB面の曲だったが、森田公一のユニークな旋律が強烈な傑作だと思う。
「若葉のささやき」「恋人たちの港」(1974年2月)も捨てがたい。
「矢車草」(岩谷時子作詞・筒見京平作曲/1976年4月)は出だしが演歌っぽいが、若い女性の失恋の悲しさを綴った歌詞がいいのと、トランペットの哀愁を帯びた音色が印象的だ。
「ある日私も」(1972年2月/「ちいさな恋」のB面、浜口庫之助作曲)、「明日また」(1975年9月/「さよならこんにちは」のB面)、「木枯らしの舗道」(1974年12月)、LPに入っている「ミモザの花の咲く頃」(1973年4月の/森岡賢一郎作曲・安井かずみ作詞)という難しい曲もうまく歌いこなしている。
高い音域のところでは、同じナベプロのライバルだった小柳ルミ子の声と似ていると思わせる個所もある。
競作の多い「サルビアの花」(相沢靖子作詞・早川義夫作曲)も、なかなか聴かせる。
シモンズが歌って大ヒットした「恋人もいないのに」は、彼女の声の特徴がよく出ている。
今回、ほとんどの曲を聞いてみて気づいたのは、当時の天地真理の歌い方は、とりたててうまいというわけではないが、聴く者の心をどこか癒すような不思議な響きが声質にあるということだった。
You tubeには彼女の曲のほとんどがアップされているので、聴いてみることをお勧めする。
◆美しい詞と美しい曲
彼女が歌った歌は、詞も美しく、曲もきれいな和製ポップスだ。今のわけのわからない歌詞とは本質的に違う。
曲のテーマは、若い女性の恋にたいする憬れや不安、葛藤などだが、聴けば、なぜ彼女が幼児から高齢者までに支持されたかがわかるだろう。
天地真理は、前述したように、彗星のように現れ、20代前半に燃焼しつくして、ふたたび彗星のように表舞台から消えてしまったが、日本の音楽市場に残る偉大な歌手の一人であることは間違いない。
彼女の娘さんが書いているブログによると、それまで別々に住んでいた親娘が今年の2月から一緒に住むようになったという。
NHKの「思い出のメロディー」を見た限りでは、今の彼女に往時のファルセット(裏声)を駆使した癒し声を期待することは難しいが、その声に少しでも近づけるよう頑張ってもらいたいものである。
(注)当初の見出し「もう一度、天地真理! 彼女はただかわいいだけのタレントではなく、〝癒し声〟の持ち主だった」を2011年1月4日に現在の見出しに変更した。
(城島明彦)
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