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2011/03/30

倉木麻衣の「君が代」は、よかった

 昨29日に開催された東日本大震災復興支援サッカーチャリティーマッチ「日本代表対Jリーグ選抜」の開幕セレモニーで、倉木麻衣が「君が代」を歌ったが、妙な歌い方をする歌手が多いなかで、美しい日本語にふさわしいきちんとした歌い方をしたので、好感が持てた。

(城島明彦)

2011/03/28

「江~姫たちの戦国~」(第11回「猿の人質」)ドスケベ秀吉、江の従姉の次は茶々を狙う

 浅井3姉妹は、実父長政に続いて、継父柴田勝家と母お市の方までも自害に追いやった仇敵・秀吉の庇護を受けることに抵抗を感じ、長女の茶々がイニシアティブをとって、姉妹の結束を強める。
 秀吉は、彼女らを、本能寺の変のときに天守閣が焼け落ちた安土城に住まわせ、そこへ正室のねね(おね)が、彼女らの従姉(父浅井長政の姉の子)にあたる京極龍子(たつこ)を伴って現れるが、驚くべきことに龍子は秀吉の側室になっていたという展開が、第11回目「猿の人質」のストーリーである。

 京極家は、近江源氏の血を引く室町時代の名門だ。
 日本史で習う室町幕府の政治を動かしていた「三管領(さんかんれい)・四職(ししき、または、ししょく」)」の「四職」のひとつ。
 細川、斯波(しば)、畠山が「三管領」で、赤松、一色(いっしき)、山名、京極が四職である。
 しかし、応仁の乱で没落していた。
 3姉妹の従姉・京極龍子の母は、イエズス会の洗礼を受けていて「マリア」と呼ばれていた人である。5人いた娘のうち、龍子以外の4人は洗礼を受けたとされているが、1人だけはずれていたというのは不自然。

 浅井家は、もとは京極家の家来であり、家格からいうと龍子の方が3姉妹よりずっと上である。

 3姉妹の時代、京極家を継いでいたのは、同家の長男の高次(たかつぐ)という武将。
 京極高次は、当初、信長の部下だったが、本能寺の変で明智光秀が主君を殺すと、光秀についた。
 しかし、光秀はすぐに死に、替わって権力を把握した秀吉に圧力をかけられ、お家存亡の窮地に立たされていた。

 龍子は若狭の国の守護大名の血を継ぐ武田元明と結婚しており、3人の子供まであったが、夫も兄とともに光秀に味方したため、秀吉に殺された。

 京極高次と京極家の危機を、体を張って助けたのが龍子ではないか、というのが私の説である。

 秀吉は、名家の血を引く美女に弱いドスケベ男。たちまちグラッと来て、美女のほまれ高い龍子を側室にし、彼女の兄の高次の罪に目をつぶったのだ。
 そのとき龍子は、改宗させられたと解釈すべきだろう。

 ドスケベ秀吉が次に目をつけたのが、茶々。

 大河ドラマでは、お市の方によく似てきた茶々を見て、秀吉がでれでれするシーンをそばでねねがあきれ返って眺める様子がマンガチックに演出されていたが、それにしても、岸谷五郎が演じている秀吉は、あまりに戯画化されすぎていて、ただただあきれ返るしかない。

 話の展開としては、次は、信長の孫の三法師(さんぼうし)を擁する秀吉と信長の次男織田信雄(おだのぶかつ)と手を結んだ家康がドンパチやらかす「小牧長久手(こまきながくて)の合戦」(天正12年/1584年)になるが、結果的には秀吉と家康は和睦することになる。

 江姫の初婚の相手は、佐治一成(さじかずなり)だが、この男の母親はお市の方の妹「お犬の方」。
 つまり、江は従兄と結婚するのだ。完全な近親結婚である。

 お犬の方も、お市の方に負けないくらいの美人だったといわれている。
 石庭で有名な京都の龍安寺に残されているお犬の方と伝えられる肖像画は、信長の肖像画とどこか通じる面長で色白な美しい顔だちをしている。

 お犬の方というのは妙な呼び名であるが、戌年(いぬどし)か戌の月(旧暦9月)の生まれなのか、まるで犬のお産のように驚くほど安産で生まれたのだろうか。
 それとも、戌の方角(西北西)にある場所で、戌の刻(午後8時)に生まれたのか。

 お犬の方は佐治信方(さじのぶかた)に嫁いだが、夫が戦死したため、細川昭元と再婚したので、細川家の菩提寺である龍安寺に肖像画が残っているのだ。

 織田家の血を引くというフィギアスケートの織田信成は、例外か? 

 「サル」とか「ハゲネズミ」とかいわれた秀吉が、そういう織田家の血を引く美しい姫たちを見て、次から次へと鼻の下を伸ばしまくったのは、生来の好色さに加えて、自分の子孫を少しでもまともな顔だちにしたいと願う動物的本能のようなものがあったのかもしれない。

 江にしても茶々にしても、戦国女性の結婚形態は、今日の感覚ではまったくわけがわからない。
 
(城島明彦)

2011/03/27

テレビは被災地のトイレをなぜ映さないのか!? 被災者の女性がいいたくても、いえないのは大便の話だ。レスキュートイレを増やせ!

◆被災者にとって切実な問題は、食料や健康のことだけではない

 東日本大震災の被災地の人がテレビのインタビューでいいにくいのは、トイレのことだ。

 「トイレが詰まって」ということを口にした人もいたが、実際の様子を詳細に話すことはない。遠慮しているのだ。  昔の人はトイレのことを「はばかり」ともいったが、被災者は、テレビを見ている人たちのことが頭をよぎって、詳細に口にすることをはばかっているのだ。

 今回のように、若い人が大勢亡くなっているので、生き残った人の気持ちのなかに「助かっただけでもありがたいのに、ぜいたくはいえない」という思いがある。

 ところが、どのテレビ局も、そういう気持ちをわかっていながら、トイレ問題を声を大にして報道しようとしない。
 トイレがどうなっているのかと百万言をついやするより、映像を数秒映せば説得力があるにもかかわらず、テレビは映像を流そうとしない。

 そういう問題こそ、むしろ克明に報道しないといけないのではないか。

 どれくらいの人数がいたら、毎日、どれくらいの小便と大便が出、それを処理するにはどれくらいの水が必要で、どれくらいのトイレットペーパーが消費されるのかということを、テレビはまったく報道しない。

 テレビは、トイレのリアルな映像をバンバン流せ! ブツは、ぼかせばいいのだ。

◆阪神淡路大震災ではトイレの状況は悲惨だった

 阪神淡路大震災では、トイレは大問題だった。
 緊急避難先でも仮設トイレでも、ウンチの問題が起きた。夏場だったら伝染病が発生していたかもしれない。
 仮設トイレが増設されても、バキュームカーの台数には限りがあて、処理できないという問題もあった。

 避難先が学校のような公共の場所では、朝などトイレはラッシュになる。
 並んでいるうちに我慢できなくなり、順番が来てトイレに入ったのはいいが、ウンチング体勢が十分整わないうちに出てしまったという年寄りや子供はいっぱいいるはずだ。

 なかには下痢している人もいて、便器の周辺に飛ばしてしまうことだってあるだろう。
 あわてて紙で処理して詰まらせる場合も出てくる。
 水が不足気味だから、きれいにできない。

 使い回しされた中古の仮設トイレを、怖がる人もいる。
 和式・様式の問題もある。洋式しか知らない子供は、足腰も弱く、和式便所を汚しかねない。

 男なら、外で穴を掘ったり、そのあたりで用をすますこともできるが、女は無理だ。
 穴を掘って処理するのは一時的には致し方ないが、雨が降って流されるなどして疫病発生の原因ともなりかねず、勧められない処理方法である。

◆仮設トイレは500回でアウト
 
 人のウンチの量は、個人差があるが、平均すると約500グラム。オシッコは1回あたり300ccだから、朝起きてトイレに行き、大小便をすると1キロ(≒1リットル)近い排泄量になる。

 一方、仮設トイレの便槽(タンク)の満タン量は300~500リットルである。
 ということは、500人の被災者が朝、順番に1つの仮設トイレを利用すると、それで終わりになる。

 満タンになると、仮設トイレは、別の空っぽのタンクと取り替える必要がある。
 ウンチは1日1回ですむが、オシッコの方はそうはいかない。どんなにガマンしても1日に最低3~5回はしないと、尿毒症になってしまう。

◆仮設住宅にも「レスキュートイレ」は必要

 仮設住宅の建設が開始されたが、神戸淡路大震災時にはバキュームカー不足で処理しきれない問題は残る。 今回の地震では、罹災地の地方公共団体のバキュームカーはやられている。

 そこで注目されているのが、組み立て式の携帯型洋式トイレ「レスキュートイレ」だ。

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(写真は、製造元提供)

 こんな便利なものがあったのだ。

 被災地に食料や衣類を送るのもいいが、こういうものこそ送るべきではないのか。

 レスキュートイレを開発したのは、環境関連企業の「リブラン」という会社で、三重県桑名市に本社がある。

 開発したきっかけは、富士山が世界遺産への登録を拒まれたことだったという。
 世界遺産への登録を審査する調査団が来日し、富士山に登ったころ、あちこちに散乱する空き缶やら空き瓶、ゴミの山やら野グソに辟易(へきえき)し、不合格になり、日本はとんだ赤っ恥をかいてしまった。

 そのニュースを聞いて、リブランの社長が携帯用の簡易型トイレの開発に着手、2005年に実用化したのである。

◆犬用ペットシートを応用

 レスキュートイレは、野外で折りたたんで携帯する目的で作られたので、800グラムという軽量で、防災用としても使われ、これまでにも北海道庁、愛知県警、自衛隊などが購入して使っている。

 野外で組み立てたり折りたたんだりを頻繁に繰り返しても壊れないように、強度の強いプラスチックで作られており、体重150キロくらいの巨体にも耐えられるというスグレものだ。

 ビニール製の袋を便器にセットして、そこに大小をするのである。
 
 袋は、吸水性・消臭性・凝固性のある犬用ペットシートを応用してあるので、室内でも使える。

 小便だけなら、一袋で2回できる。

 ウンチをした場合は、袋をはずして上部をしばって密封し、燃えるゴミとして出す。
 袋は漏れ防止のために二重にしてあり、捨てるときは、外側の袋の上部をしばればよい。
 
 便器を買ったときに10袋付属しているが、スーパーなどの大きめの袋でも代用がきく。

 スーパーの袋を使った場合は、なかに新聞紙を何枚か敷くなどし、使用後、燃えるゴミとして出せばよい。

 レスキュートイレの値段は、10袋付きで5500円(送料・代引き込み)。

 袋だけを追加で買いたいときは、30枚以上という。袋1枚の値段は150円で、30枚では4500円になる。40枚、50枚と買う場合は割引すると製造元はいっている。
 ヤフーのブログ「レスキュートイレのブログ」には詳しいことが記されている。

◆参考
 リブラン株式会社のホームページ:www.rebran.com hihi@rebran.com 
 連絡先:TEL 0594-22-1939 FAX 0594-24-4173

(城島明彦)

2011/03/26

昭和の伝説「天地真理の光と影」

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◆60年代後半の吉永小百合と70年代前半の天地真理

 1960年代の国民的アイドルが吉永小百合なら、70年代前半の国民的アイドルは天地真理だった。
 天地真理ほど幅広い層に人気があったタレントは、その後、出ていないのではないか。

  天地真理  1951年11月5日 大宮市(現さいたま市)生まれ。
  吉永小百合 1945年3月13日生まれ 東京都生まれ。

 吉永小百合は早生まれなので、天地真理より7つ年長のお姉さんということになる。

 天地真理は、1971年夏に始まったTBSの連続ドラマ「時間ですよ」で「隣のまりちゃん」役でデビュー。10月には水色の恋」で歌手としてもデビューし、この曲が大ヒットした。

 彼女が所属するナベプロは、彼女の人気に目をつけ、12月にこの曲以外はほかの歌手のヒット曲で構成したアルバム(LPレコード)を発売した。

 これがオリコンチャート1位となって、一気に「歌手・天地真理」の人気が爆発。以後、出す曲、出す曲が大ヒットし、テレビに顔が出ない日はないような超人気者になった。

 彼女のやさしそうな笑顔が、つくりものではないことを視聴者は見抜き、男女を問わず、幼児から年寄りまで、幅広い層に支持されたのだった。

 そんな歌手は、彼女以後、いない。


◆歳月が天地真理を激変させた 

 吉永小百合は美しく老いてきたが、天地真理は老いに失敗した。

 歳月は残酷である。国民的アイドルだった天地真理の容姿を激変させてしまった。
 
 天地真理は1977年に引退し、表舞台から消えていたが、彼女は太りやすい体質だったのか、1977年に再デビューしたときは、顔がふっくらした印象を与えた。が、86年に結婚したときもアイドル時代の面影から大きく隔たるような顔つきではなかった。彼女の結婚生活は10年で、96年に離婚に至る。

 いきなり驚かせたのは、2003年9月14日に日テレのバラエティ番組「壮絶バトル 花の芸能界 衝撃の天地真理スペシャル!」に、往時のイメージとは似ても似つかぬ〝変わり果てた姿〟でゲスト出演したときだった。

 子供を産んでから太ったのだろう。彼女が長女を出産したのは1987年8月16日、35歳のときで、その頃の写真はかなりふっくらとしている。
 バラエティ番組に出演したときは、それから約16年後、彼女はすでに50歳になり、すっかり肥満した体に変貌してしまっており、かつて「白雪姫」といわれた面影はまったくなくなっていた。

 そんな変わり果てた姿でテレビ出演する6年前(1997年4月)に、彼女は『スリムになるってステキなことネ――天地真理の白雪姫ダイエット』という本を双葉社から出している。アイドル時代をほうふつさせる笑顔の天地真理の全身写真が表紙を飾っていた。離婚した翌年である。
 そのことを知っていた人は、彼女がリバウンドしてしまったことを知って言葉をなくした。

 その本のなかには、彼女が国立音大附属高校高1年生のある日、母親から「真理が2歳のときに父と離婚した」と打ち明けられたと書かれている。

 天地真理が書いたダイエット本の第1章は「芸能界デビューから今日まで」、第2章「ダイエット失敗体験を告白します」、第3章「真理式食生活のポイント」、第4章「初公開ダイエット料理」、第5章「リバウンドはこうして防ぐ」となっていたが、うまくいかなかったのだろう。

 別人に変貌していたのは、姿形だけでなく、声もだった。歌手とは思えないほどひどい歌い方をするのを聞いて、病気ではないのかと思った。声帯を痛めている。そうとしか思えなかった。

 NHKも残酷である。バラエティ番組が放送された翌2004年の8月7日放送の「第36回思い出のメロディー」に彼女を引っ張り出し、「夏の日の恋」を歌わせた。
 そのときの天地真理は、さらに肥満していて天童よしみもびっくりするような姿だった。

◆天地真理は松坂慶子より1歳上

 彼女が最初に人々を驚かせたのは、1983年だった。その年の12月に講談社からヌード写真集(別冊スコラ10「天地真理写真集」/87ページ)を出したのだ。そのとき彼女は32歳になっていたが、顔だちはアイドル時代の面影を漂わせていた。

 国民的アイドルがどうしてこんな姿をさらす必要があるのか、複雑な思いをいだいた人は多かった。

 裸身をさらすことで吹っ切れたのか、天地真理は、1985年12月封切の日活ロマンポルノ映画「魔性の香り」に主演、ヌードになり、続いて1986年(昭和61年1月)には、17キロダイエットしたということを売りにして熟女ヘアヌード写真集「天地真理」(辰巳出版)を発売した。
 83年のヌード写真集時から3年を経た彼女の乳房は、豊満になっていたが、そのことによって垂れ下がり気味となり、女体としての美しさは失われていた。

 女優の松坂慶子は、天地真理より1歳下(1952年7月20日生まれ)で、2002年に50歳でヌード写真集を出している。彼女も中年期にえらく太って驚かせたが、美しい容貌は崩れていない。その点が、天地真理と違っている。

 どこが違っていたのか。一言でいうと、見られ続けたかそうでないかの違いだろう。
 松坂慶子はテレビや映画に出続けることで、美しさを保とうと努力して来たが、天地真理はテレビに出演しなくなって、ごく普通のおばさんとなり、太ってしまったのだろう。
 松坂慶子は、その写真集を出して安心したのか、その後、急激に肥満していった。いや、好意的に考えると、しわをなくすために意図的に太ったのかもしれない。

◆天地真理のデビュー曲「水色の恋」

 私は1970年に大学を卒業して東宝に入社し、新人研修を終えた夏から助監督として成城学園にある東宝撮影所勤務していた。天地真理のデビューはその翌年で、彼女の活躍した時期は私の青春後期と重なっている。

 私は当時、撮影所から数分のところにあった独身寮に住んでいた。鉄筋コンクリートの2階建ての白い寮のロビーには白黒テレビが置いてあったが、仕事が多忙で、めったにテレビを見る暇などなかった。
 時間があるときは、昔の映画を名画座に見に行ったり、寮でシナリオを習作したり読書したりしていた。
 高校時代からの習性で〝ラジオのながら族〟だったから、寮の自室にいる時間のほとんどはソニーのトランジスタラジオをつけて、BGMとして音楽を流していた。
 
 天地真理が出演している「時間ですよ」というテレビドラマにはまったく関心がなかったが、天地真理という新人がギターを弾きながら歌っている姿は知っていた。
 最初は、その程度の認識だったが、「水色の恋」がヒットチャートをにぎわすようになって彼女の存在を意識するようになった。

 この曲は、アルゼンチンタンゴの「ホテル ビクトリア」という曲の一部によく似た旋律の出だしが印象的な和製ポップスだった。アルゼンチンタンゴには哀愁があり、笑顔が似合う天地真理がふと見せる哀愁を帯びた表情とうまくマッチしていた。

◆お人形さんみたいだった美少女・吉永小百合

 吉永小百合のことは、中学時代から知っていた。それ以前の小学生時代に、連続ラジオドラマ「赤胴鈴之助」を通じて彼女の声をすでに聞いていたが、名前と一致してはいなかった。

 「お人形さんみたいな美少女だ。こんなきれいな顔の女の子がいるのか!? 」
という印象を受けたのは、1961年(昭和36年)に封切られた日活映画「草を刈る娘たち」の新聞広告の写真を見たときだった。私が中一のときだ。

 彼女は、その前年に封切られた赤木圭一郎の「電光石火の男」に喫茶店の店員役に出ていたが、この映画は私の地元だった三重県の四日市市が舞台で、新聞広告にも彼女の顔写真は載っていたが、その写真はそんなに大きくはなかったように記憶している。
 
 受像機こそまだ普及していなかったが、その年にはカラーテレビ放送が開始されている。

 当時の新聞の夕刊最終面(通称〝ラテ欄〟)は、テレビやラジオの番組欄の下のスペースは、映画の広告で占められている日が多かったから、嫌でも目についた。

 吉永小百合は小学生のとき(1957年)から子役としてラジオドラマや草創期のテレビドラマにも出演し、準主役級を演じてはいたが、主役の地位を確立するまでにはそれなりに苦労している。
 
 対する天地真理のデビューは遅く、20歳の少し手前(正確には19歳と8か月)でテレビドラマに初番組し、そこから一気にブレークした。

 吉永小百合は、映画全盛期に日活黄金期の銀幕スターとして不動の人気、主演女優としての揺るがぬ地位を築いた。

 しかも1965年(昭和40年)に早稲田大学第二文学部に入学、きちんと単位を取って4年後に卒業している。

 私は翌年早稲田大学の政経学部に入って、文学部の校舎の裏手にある下宿屋に住んだが、別の部屋にいる教育学部の1年先輩が「今日、吉永小百合を学食で見た」とうれしそうに吹聴するので、翌日出かけていったが、見つけることはできなかった。その後、これも同じ下宿の法学部の学生も「今日、吉永小百合に会った」と得意そうに話した。

 その下宿には、もう一人、剣道部に所属する学生もいて、この男も後に吉永小百合をじかに見たといったから、彼女を見ることができなかったのは、その下宿で私だけだった。

◆天地真理のデビュー年は、日活がエロ路線に転換した年だった

 映画人口のピークは1958年である。年間11億人(延べ人数)が映画を観ていた。映画館は「娯楽の殿堂」などというナレーションをかぶせた宣伝広告フィルムを上映映画の前に流したものである。

 だが、テレビの台頭で、その映画の人気が凋落し、映画企業として成り立たなくなったため、「ロマンポルノ」と呼ぶエロ路線に全面的に移行すると発表、主だった専属俳優は日活を離れた。日活は1971年11月にロマンポルノの第1作を封切った。

 日本映画史上に残る1971年は、彼女がテレビドラマ(TBS「時間ですよ」)でデビューした年であっただけでなく、ロマンポルノ第1作が上映された11月という月が、奇しくも、彼女の誕生月であった。

 「時間ですよ」は1971年夏に始まった連続ドラマで高視聴率を獲得し、天地真理の名は一気に全国区となり、10月に歌手として「水色の恋」でデビューするや、たちまち大ヒット。以後、出す曲、出す曲が大ヒットし、あれよあれよというまに国民的アイドルとなった。

 全盛期の天地真理を直接見た、あるいは彼女がテレビで歌うのを見た、彼女が主演した映画を封切館で見たという人は、若くても40代後半だ。それぐらいの歳月が流れすぎた。

◆きわだって美しく老いる吉永小百合
 吉永小百合は人気女優としての自覚が強く、スポーツに励むなどして老いを最小限に食い止めて、いまだに美しさを保ち続けているのに対し、「白雪姫」といわれた天地真理は、娘から中年になっていく過程で、節制を怠り、昔日の面影がしのべないくらい、容姿が激変してしまった。

 吉永小百合はハッと驚く美人だったが、天地真理は隣りのきれいなお姉さんという感じだった。そんな親しみやすさが天地真理にはあった。

 吉永小百合は映画を中心にして歌も歌ったが、天地真理は歌が中心でテレビドラマや歌番組にも出演していた。そこが大きく異なる。

 吉永小百合は、映画が娯楽の王様だった時代のビッグスターであり、今日に至るも絶大な人気を誇っているのに対し、天地真理は、テレビが白黒からカラーに移行しつつあった時代に彗星のように現れ、彗星のように消えていったビッグスターだった。

 吉永小百合は、「サユリスト」と呼ばれる若い男たちから圧倒的支持を集め、同姓たちにも嫌われることはなかったが、テレビにはほとんど出なかったから、幼児や爺さん婆さんたちのファンは少なかった。
 「○○イスト」と呼ばれるファンがいたビッグスターは、「コマキスト」の栗原小巻と吉永小百合だけだった。
 
◆天地真理の歌声は「癒し系」

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 天地真理は、若い女の子なら誰でも憬れる「ふりふりのついた洋服」がよく似合ったので、若い男たちから「憬れの清順派」として支持されたが、彼女よりずっと年下の幼児や中高生たちからも熱狂的に支持され、爺さんや婆さんからも好感を持たれていた。

 天地真理はそんなに歌がうまくなかったと思い込でいる人は多い。が、彼女は〝ただかわいいだけの歌手〟ではなかった。

 デビューの翌1972年に天地真理の人気は爆発した。ちいさな恋(1972年2月発売/安井かずみ作詞・浜口庫之助作曲)は、オリコンチャート1位を独走。

 以後、3~4か月の間隔で出した新曲「ひとりじゃないの」(1972年6月)、「虹をわたって」(同年9月)「ふたりの日曜日」(同年12月)がことごとく大ヒットし、彼女は紅白歌合戦にも出場した。紅白は、以後3年連続で出演することになる。

 「ひとりじゃないの」の作詞は小谷夏。「時間ですよ」を演出した久世光彦のペンネームである。作曲は森田公一。

 1973年になると、「若葉のささやき」(3月)、「恋する夏の日」(7月)、「空いっぱいの幸せ」(10月)の3曲を出し、これまた全部ヒット。松竹映画「虹をわたって」に主演する。

 私は映画監督への夢を断念し、その年の4月に東宝を辞めて、ソニーに移った。ちょうど本社に宣伝部ができ、そこへコマーシャル担当として配属された。

 天地真理は、ソニーとアメリカのCBSとの合弁企業であるCBSソニー(現ソニー・ミュージック)に所属していた。
環境が激変して欝気味になったが、彼女の歌声を聞くとなぜか気持ちがなごんだ。
 
 そういうことに気づき、「恋する夏の日」が出てしばらくたった頃だったと思うが、私は、広告代理店の営業マンに頼んで、CBSソニーから天地真理のポスターを入手してもらい、パーテションに貼った。

 東宝の独身寮にいた頃、五島列島出身の若い照明助手は、天地真理が好きで、彼女が出演している「時間ですよ」を見たいがために、冬のボーナスでカラーテレビを買っていた。

 私の部屋には古い小型の白黒テレビしかなかったので、そのテレビを始めて見たときは、画像の美しさに驚いた.ソニー製のトリニトロン13型だった。
 のちに自分がソニーに入って、しかもそのトリニトロンの宣伝をやるようになるのだから、人生はわからない。

◆天地真理の曲はイントロが秀逸

 1973年10月にオイルショック(第1次)が起きた。これにより、日本の高成長はストップしてしまうという大事件であった。今回の東日本大震災では、食料などの開始目が起きているが、そのときは「トイレットペーパー」の買占めが起きた。

 天地真理のその年最後の新曲「空いっぱいの幸せ」が発売されたのは、その10月だった。

 1972年と73年に彼女が歌った新曲のなかで、この曲と「ふたりの日曜日」だけがオリコン3位だが、それ以外はすべて1位。人気のすごさがわかろうというものだ。

 天地真理の曲のほとんどを作曲したのは森田公一で、作詞は山上路夫である。
 森田公一と編曲担当の馬飼野俊一のコンビは、どの曲も、イントロにきわめて印象的でインパクトがある覚えやすい旋律を短く配し、それが聴く者の心を捉えた。

 私がもっとも好きな曲は「花ひらくとき」(1973年7月)と「想い出のセレナーデ」(1974年9月)だが、それ以外の曲もなかなかいい。
 「花ひらくとき」は「恋する夏の日」のB面の曲だったが、森田公一のユニークな旋律が強烈な傑作だと思う。

 「若葉のささやき」「恋人たちの港」(1974年2月)も捨てがたい。
 「矢車草」(岩谷時子作詞・筒見京平作曲/1976年4月)は出だしが演歌っぽいが、若い女性の失恋の悲しさを綴った歌詞がいいのと、トランペットの哀愁を帯びた音色が印象的だ。

 「ある日私も」(1972年2月/「ちいさな恋」のB面、浜口庫之助作曲)、「明日また」(1975年9月/「さよならこんにちは」のB面)、「木枯らしの舗道」(1974年12月)、LPに入っている「ミモザの花の咲く頃」(1973年4月の/森岡賢一郎作曲・安井かずみ作詞)という難しい曲もうまく歌いこなしている。

 高い音域のところでは、同じナベプロのライバルだった小柳ルミ子の声と似ていると思わせる個所もある。
 競作の多い「サルビアの花」(相沢靖子作詞・早川義夫作曲)も、なかなか聴かせる。
 シモンズが歌って大ヒットした「恋人もいないのに」は、彼女の声の特徴がよく出ている。

 今回、ほとんどの曲を聞いてみて気づいたのは、当時の天地真理の歌い方は、とりたててうまいというわけではないが、聴く者の心をどこか癒すような不思議な響きが声質にあるということだった。

 You tubeには彼女の曲のほとんどがアップされているので、聴いてみることをお勧めする。

◆美しい詞と美しい曲

 彼女が歌った歌は、詞も美しく、曲もきれいな和製ポップスだ。今のわけのわからない歌詞とは本質的に違う。

 曲のテーマは、若い女性の恋にたいする憬れや不安、葛藤などだが、聴けば、なぜ彼女が幼児から高齢者までに支持されたかがわかるだろう。

 天地真理は、前述したように、彗星のように現れ、20代前半に燃焼しつくして、ふたたび彗星のように表舞台から消えてしまったが、日本の音楽市場に残る偉大な歌手の一人であることは間違いない。

 彼女の娘さんが書いているブログによると、それまで別々に住んでいた親娘が今年の2月から一緒に住むようになったという。

 NHKの「思い出のメロディー」を見た限りでは、今の彼女に往時のファルセット(裏声)を駆使した癒し声を期待することは難しいが、その声に少しでも近づけるよう頑張ってもらいたいものである。

 (注)当初の見出し「もう一度、天地真理! 彼女はただかわいいだけのタレントではなく、〝癒し声〟の持ち主だった」を2011年1月4日に現在の見出しに変更した。

(城島明彦)

2011/03/25

ロボット大国の日本が、なぜ福島原発事故にロボットを使わないのか!?

 日本は世界に冠たるロボット大国で、さまざまなロボットがある。

 それなのに、人間が近づけない原発事故現場に、無線で遠隔操作できるロボットを活用しないのは、なぜなのか。

 ラジコンのヘリにも優秀なものがある。
 それに超小型のCCDカメラをつけて、破損された原子炉のなかを遠隔撮影できたのではないか。

 コードレスでなくても、原子炉の内部にカメラを運べる能力のあるロボットは、日本国内にあるはずだ。

 東京電力や政府が、そういうものを活用する方法をまったく考えなかったとは思えない。

 消防車の放水では、民間企業が持っていた生コン圧送機を借りて、58メートルの高さからピンポイントで放水するということもしている。これは日本製ではなくドイツ製だったが、一種のロボットである。

 政府は根拠のない風評が流布されるを恐れているが、日本のロボット技術を考えると、

 「実際には何らかの方法で内部を撮影していても、内部が公開できないくらい破損されていて、公開するとパニックになることを恐れたからではないのか?」

 などと、痛くもない腹を探られかねない。

 今からでも遅くはない。ロボットをもっと活躍させてはどうか。

(城島明彦)

2011/03/21

「ACの広告がしつこすぎる」という国民の声を、無視し続ける民放各局の偽善性を問う!

 各企業がCMを自粛しているなかで、テレビで流れるCMの最後に「AC」というサウンドロゴが流れる公共広告を「しつすぎる」と何千万人もの人間が感じているはずだ。

 テレビ局に直接文句をいっている人も少なくないはずだが、民放各局は知らん顔で、同じ広告を流し続けている。

 脳溢血検査や子宮頸がんの検査促進CMなら、流していいのか?

 震災が原因の負傷や病気と、どこでどうつながっているのか?

 震災の被害者を気遣っているかのような偽善的な内容に対して、良心の痛みはないのか?

 民放のアナウンサーや司会者は、「CMです」と告げはするが、「なぜACジャパンのCMばかり流し続けるのか」というコメントをいっさい発しないのはなぜか。

 おかしいじゃないか。

 何かというと調査する民放各社が、ACジャパンの公共広告を、しつこいと感じられるほど繰り返し流し続けることに対して、視聴者がどう思っているかの調査はしないのか?

 もうやっているのかもしれないが、それなら、なぜその結果を公表しないのか?

 「東電や政府が、原発情報を隠していたのではないか」
 などと偉そうなことをいう民放各局自身が、自分たちに不利なCM情報を隠蔽しているのではないのか?

 政府も、民放に注意すらしていないのはどういうことか。

 (城島明彦)

お市の方は、秀吉の女になるのが嫌で自害した!?(「江~姫たちの戦国~」第10回「わかれ」)

 「江~姫たちの戦国~」第10回「わかれ」は、賤(しず)ヶ谷の合戦で秀吉に敗(やぶ)れて逃走し、自らの居城(北ノ庄城)に戻った柴田勝家(しばたかついえ)が、まだ幼い娘3人を秀吉の手元へ送り出した後、お市の方とともに自害するという天正11年(1583年)4月の話である。

 大軍で北ノ庄城を包囲した秀吉は、部下の石田三成(いしだみつなり)を使いとして城中に送り込み、お市の方と3人姉妹を保護しようとするが、お市の方はその申し出を断り、娘たちだけを場外に逃れさせ、自らは死を選ぶのだ。

 なぜ、お市の方が自死の道を選んだのかは、よくわかっていないので、推理してみたい。

 賤ヶ岳の合戦から遡(さかのぼる)こと約10年。
 天正元年(1573年)8月、織田信長の妹お市の方が夫の浅井長政(あさいながまさ)と住んでいた小谷(おだに)城は、信長の命を受けた秀吉の軍勢に包囲され、夫は自決、自身と3人の娘は保護されるという同じ場面に遭遇していた。
 お市の方は、信長と夫の命に従って、3人の娘をつれて門外に出、生き延びたのである。

 お市の方が浅井長政と暮らしたのは、5~6年間である。その間に、茶々、初、江の3人の姫たちは生まれたのだ。

 その後、お市の方と3人の姫たちは、信長の弟でお市の方の兄に当たる織田信包(のぶかね)の世話で、尾張の清洲城で楽しく過ごす。
 
 そして10年近い歳月が流れるのだ。
 3人姉妹にとって、その間は、実父と暮らした時期を除いて、かなり幸せな日々だったと推測できる。

 そんなある日、お市の方は、突然、3人の娘を連れて柴田勝家と再婚し、福井の北ノ庄城という北国へ移るのである。天正10年(1582年)のことだった。

 お市の方が自害するのは、その翌年の1583年4月である。3人の姫たちが義父の柴田勝家と暮らした月日は、1年にも満たなかったという計算になる。

 思えば、お市の方は、死ぬために柴田勝家と再婚したようなものだ。

 10年近くも、母娘だけの穏やかな暮らしをしていたのに、なぜ、お市の方は、ふたまわりも歳の違う無骨者(ぶこつもの)のじいさんと再婚しなければならなかったのか!?

 なぜ!?

 賤ヶ岳の合戦で、織田信包(のぶかね)は秀吉勢につき、兄信長の遺児(3男)の甥信孝(のぶたか)と戦っているのがヒントになるのではないか、と私は推理している。
 そう推理する理由を説明しよう。

 お市の再婚相手柴田勝家は、信長の死後、ずっと信孝をかついできた。

 一方、お市の方たちの面倒をみていた兄織田信包は、信長の孫(嫡男信忠(のぶただ)の息子)三法師(さんぼうし)をかつぐ「秀吉派」であった。信包は、兄信長が本能寺の変で殺され、その仇を討った秀吉についていたのだ。

 ここで、話は変わる。
 秀吉は、「人たらし」といわれている。人たらしの「人」のなかには、「女」も含まれている。
 秀吉の女好きは有名で、ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、秀吉には300人もの側室がいたと書かれている。
 一方、信長を本能寺に襲った明智光秀には、1人の側室もいなかったといわれている。

 秀吉は、顔が猿っぽく、生まれも下賎で下品、教養がなく、しかも好色とくれば、現代の女性には徹底的に嫌われて当然だが、当時の女からはさほど嫌われてはいなかったようである。

 宮沢りえ扮する浅井3姉妹の長女茶々は、その秀吉に乞われて側室になり、秀吉の子供まで生むのだから、秀吉の女たらしぶりは普通ではない。
 
 正室(正妻)でも、家督を継ぐ男子を産まないと肩身が狭く、側室を認めるという考え方の時代だったから、今日の感覚とはかなり違うが、かといって、次から次へといろいろな女に手を出しまくる夫を、心底から喜ぶ妻などまずいない。

 秀吉は、百姓の出でありながら、気難しがり屋の信長に気に入られて、どんどん出世していったが、彼の正室の「ねね」(「おね」ともいう)も、信長にもえらく気に入られた。
 秀吉は、ねねのふところが広いのをいいことに、秀吉は好色の限りを尽くした。「英雄色を好む」を地でいったというわけだ。

 織田信長の一族は、色白で面長な顔だちで、美男美女が多く、信長もハンサムであり、お市の方も「戦国一の美女」といわれた絶世の美人だったから、秀吉は、信長に仕えるようになって初めてお市の方を見て以来、憬れの人になってしまった。

 異性に対する好き嫌いの感情には個人差があり、理屈ではない。ただし、必ずしも顔の美醜に対してではないから、「蓼(たで)食う虫も好き好き」ということわざが存在するのである。

 しかし、お市の方は、秀吉を生理的に嫌っていた、と私は考えている。

 嫌だと思ったら、誰が何といってもダメである。
 しかし、秀吉は口がうまく、どんな女でも時間をかけて口説けば、ものになると思っていた。

 お市の方に懸想(けそう)し続けてきた好色男秀吉は、〝熟柿(じゅくし)作戦〟(柿が熟して自然に落ちてくるのをじっと待つ戦法)で、お市の気持ちが変わるのをひたすら待ち望んでいた。
 自分の地位がどんどん高くなれば、たとえ最初は「雲の上の人」でも、その距離も次第に近づき、やがては自分を振り向くようになるだろうと不遜なことを考えていた。

 秀吉は、畏敬し続けた信長や憬れ続けた美しいお市の方に流れる織田家の血をわが子孫に残すことを切望したのである。

 ところが、いつまでたってもお市の方は秀吉を毛嫌いし続けので、さすがの秀吉もとうとうしびれを切らす。
 お市の方もすでに30代半ば。自分の子供を生むには、もはや猶予はならないと、秀吉はあせり、「将を射んと欲しれば馬を射よ」の故事にならって、お市の方の馬に見立てた後見人の織田信包(のぶかね)に圧力をかけた。

 困ったのは、信包である。

 秀吉の好色な申し出を飲むとなると、お市の方は側室になるしかない。正室なら話も変わってくるかもしれないが、側室などということは許されない。

 お市の方はプライドが高いので、そういう道を選べといえば自害してしまうかもしれない。

 信包は、窮余の一策とばかり、1人者のじいさま柴田勝家に再婚させるという奇手を思いついたのではないか。

 織田家の筆頭家老だった勝家の正妻となるのであるから、さすがの秀吉も文句はいえまい。

 信包はそう考えたのではないか。
しかも、そうすることで、信包自身は、秀吉と勝家のどちらも敵に回さずにすむ。まさに一石二鳥である。

 やがて、柴田勝家と秀吉は、いくさに突入。ここで話はもとに戻るのだ。

 兵力で劣る勝家軍は、秀吉軍に賤ヶ谷の合戦で負け、勝家は居城に逃げ帰り、死を決意する。

 秀吉は、石田三成を使者に立て、お市の方と3姉妹を助けると申し出た。

 お市の方は、10年前に小谷城が滅ぶとき娘たちとともに城外に出て保護されたから、今度もそうするだろうと秀吉は軽く考えていた。

 浅井長政とお市の方の結婚生活は9年ほどと長く、しかも3人もの娘も生まれているのに対し、柴田勝家との結婚生活は1年にもみたず、子供もいない。

 そう考えて秀吉は、お市の方は、夫が城を枕に自刃(じじん)しても、小谷城で長政が自刃したときと同じように、娘たちとともに自分のところへ来るだろう、それが当りまえだと読んだ。

 ところが、現実はそうではなかった。お市の方は勝家とともに城に残り、自害する道を選んだ。

 石田三成からそう報告されて、秀吉は、
 (おれは、お市の方さまにそこまで毛嫌いされているのか)
 と、大変なショックをうけたはずである。

 しかし、秀吉という男、執念深いというか、どこまでもお市の方への思慕の情を貫こうとするのである。

 彼女と一番顔つきが似ているといわれた茶々を、手練手管(てれんてくだ)で篭絡(ろうらく)し、とうとう側室にして、子供まで産ませてしまうのだから恐れ入る。

 NHK大河ドラマが、そのあたりをどう描くのか、見ものである。

(城島明彦)

2011/03/20

東京消防庁の139人の隊員たちは日本男児の鑑(かがみ)! そして彼らを率いた警防部長の妻は大和撫子の鑑だ!

 東京消防庁から派遣された特殊消防車は、昨19日午後3時前から福島第1原発の3号機への10時間余に及ぶ放水を決行し、数字で確認できる成果を上げたが、午後10時半過ぎから開いた記者会見は泣かせた。

 指揮官である佐藤康雄警防部長の理路整然とした説明もさることながら、記者から問われて彼が語った妻からもらったメールの内容が胸を打った。

 石原慎太郎都知事から福島の原発への派遣命令を受けて任務に就く際に、これからいくと彼が妻に打ったメールに対し、こういう返事があったというのだ。

 「日本の救世主になってください」

 こんなことをいえる妻は、そうはいないだろう。
 彼女こそ真の大和撫子だ。

 佐藤指揮官が声を詰まらせたのは、そのエピソードを語ったときではなかった。部下が東京に残した家族への気づかいを見せたときだった。

 日本人も、まだまだ捨てたものではない。そう思って、私は胸を熱くした。

 (城島明彦)

2011/03/19

民放は、なぜ、「ACジャパンの広告だけを流す理由」をニュースのなかで報じないのか?!

 東日本大震災が発生して1週間が過ぎた。
 被災者が1日も早く、昔の生活に戻れるように祈るばかりである。

 災害発生以来、各企業はCMを自粛し続けてきたが、民放はそれに変わるACジャパンの公共広告だけを、繰り返し流し続けている。

 オシムを使った脳卒中のときの対応CM(日本脳卒中協会)、金子みすゞの詩を使ったCMなどだが、直接、大震災とは関係ないと思われるものが多い。

 たとえば、そのうちのひとつに女優の仁科亜季子(旧芸名明子)親娘が乳がん、子宮頚がん検査を視聴者に促すCMがあるが、この時期に乳がんチェック、子宮がんチェックをするように何百回も呼びかける必要性が、どこにあるのか。

 ましてや被災地の病院は、まともに機能していない。

 何を考えているのか、といいたい。

 たとえ短くてもいいから、そのCMの替わりに、被災者に役立つ情報をなぜ流そうととしないのか。

 なぜ、それらのCMをしつこいくらい繰り返し流し続けなければならないのか?!

 多くの視聴者が、その理由を解(げ)しかねている。

 にもかかわらず、私の知る限り、各テレビ局は、「どうしてこれらのCMだけを繰り返し、流し続けているのか」という理由を、一度も説明していない。

 ACジャパンのCMだけを流すという出来事は、大震災にともなう特別の処置であり、異常な事態であるから、それこそ、繰り返し、ミュース番組のなかで国民に説明する必要があるのではないか。

 (注)ACジャパンがCMについて「お詫び」(というより言い訳)していることについては、昨日付けの本ブログ「民放は、なぜ同じ『AC』のCMばかり、しつこく流し続けるのか?」を参照のこと。

(城島明彦)

2011/03/18

民放は、なぜ同じ「AC」のCMばかり、しつこく流し続けるのか?

 東日本大震災で、各テレビ局の報道が果たしている力は限りなく大きい。

 だが、どの民放も、その報道の合間に数パターンの同じ公共広告を繰り返し流し続けている。
 ほとんどの企業がCMを自粛しているので、余計にそのしつこさが目立ち、視聴者を不快にさせている。
 それらのCMの最後には、「AC」というサウンド・ロゴが入っている。

 ACは、正式名を「社団法人ACジャパン」という。昔は「公共広告機構」といっていた。

 大震災で各企業が自社CMを自粛した穴埋めに、民放が公共広告なら問題なかろうと流しているのである。ACが流すことを拒めば流れないが、ACはそうしていない。

 今、この時期に、AC広告は必要なのか。

 CMの役割とは何か?

 普通のCMの場合は、どの企業も、好感度・好印象を消費者に与えるであろうと考えるCMを繰り返し流すことで、自社の新製品の発売告知をしたり、購買意欲を刺激することで自社製品の売上アップを狙ったり、企業イメージをアップさせたりするのがCM本来の役割だが、しつこすぎて消費者を不快に思わせたら効果はない。

 これに対し、公共広告は、ちょっと趣旨が異なる。ACジャパンのホームページにはこうある。

 「ACジャパンは、広告を営利目的のためでなく、公共のために役立てようと、全国の企業が集まった団体です。広告を通じて住みよい社会作りに貢献することが、私たちの願いです」

 ACジャパンとは、どのような団体なのか。

 同社のHPを見たら、相当数のクレームが寄せられているようで、
 「『東北地方太平洋沖地震』にあたってACジャパンCM放送についてのお詫びとご報告」
 という一文が掲出されていたので、以下に引用する。

 「この度、東北地方太平洋沖地震で被災された皆様、ご関係者の皆様には謹んでお見舞い申し上げます。
 現在、民放テレビ・ラジオ各局において、震災の報道の合間にACジャパンのCMが多数放送されております。
 これらのCMは、ACジャパンの会員社である放送各局でACジャパンが制作した公共広告を放送していただくためにご提供し、放送局のご判断で必要と思われた場合にお使いいただく広告素材です。
 未曾有の大惨事となったこの度のことを受けて、多くの企業がCMの放送を自粛され、ACジャパンのCMが放送されることになりました。
 これらのCMはかならずしも非常時に対応できるようには作られておりません。そのため、視聴者の皆様に大変ご不快な思いをおかけしましたことを、心より深くお詫び申し上げます。
 CMの最後に ♪エーシー という音声(サウンド・ロゴ)が流れておりますが、すでに音声削除作業を始めており、多少なりとも耳障りさは軽減されるかと存じます。
 また、ACジャパンでは、「東北地方太平洋沖地震」で被災された方々を応援する臨時キャンペーンCMを企画・制作中でございます。
 被災地の方々におかれましては、一日も早い復旧がなされますことをお祈りいたしますとともに、ACジャパンでは広告活動を通じて支援活動を続けていく所存でございます。
 皆様には、何卒ご理解をいただきたくお願い申し上げます。 以上」

 よくわかっていないようである。

 視聴者が文句は、サウンド・ロゴがうるさいといって文句をいっているのではないのだ。
 「被災地を応援する別バージョンをつくれ」といっているのでもない。
 しつこく流さないでくれ、あるいはたの民間企業同様、流すのを自粛せよと求めているのだ。

 ACジャパンは、こう謳(うた)っている。

 「たった一人で世の中を変えるのはむずかしい。しかし、たくさんの人が集まって支え合えば、変えることはできるかもしれません。ACジャパンは、全国約1300社の企業(正会員)から寄せられる会費によって制作される広告を通じて、さまざまなメッセージを発信している民間の団体です。このACジャパンの趣旨に賛同する企業のご参加をお待ちしています。
 正会員:会費1口年額12万円(何口でも結構です)」

 ACジャパンのお詫びのなかには、放送局の判断で流していると弁解している文章もあった。

 日テレ、テレ朝、フジ、TBSの各民放局は、制作費のかからないバラエティ番組などでコスト削減を図り、軒並み、大幅な売上増を見込んでいる。

 国家の非常時に限っては、CMをまったく流さないということがあってもいいのではないか。

(城島明彦)

2011/03/17

どの市町村長も耐えているのに、「自分のところだけが差別されている」と繰り返す南相馬市の桜井市長の発言は、いかがなものか

 福島県の南相馬市の桜井市長は、あちこちのマスコミを通じて、

 「南相馬市は、放射能被ばく注意地域の30キロ圏内に指定されていることにより、輸送業者がそこからこちらへ来ない。差別され、孤立化し、支援がなされていない。放射能を測量した結果では問題ないのだから、国や東電は、『行っても大丈夫だ』と明言してほしい」

 と繰り返し声高に叫んでいる。

 原発から30キロ圏内にあることで不利益を被っており、国が「外出を控え、自宅退避するように」とした命令が気に食わないというのだ。

 気持ちはよくわかるが、外部からの輸送業者や域内の家屋に避難している人たちに対する放射能の被ばく量が今現在は軽微だからといって、外に出て自由に動き回ったら、30キロ圏という規制そのものが必要ないということになってしまう。

 危険な可能性もあるから、30キロ圏が設定され、屋内退避命令が出ているのである。
 桜井市長の頭から、そのあたりのことが完全に飛んでいる。

 そういうことをいう者に限って、万が一、事態が突然悪化して人身に被害が及ぶと、「なぜあのとき、外出するなと国や東電はいわなかったのか」といいかねない。

 「ガソリンがほしい」
 と彼が電話で発言しているときに映し出された南相馬市の映像では、家屋の前を車が何台も通っていた。
 壊れた家を片づけている人の姿も映っていた。

 テレ朝もいいかげんで、延々と語り続ける彼の話を流す間、ごく短い同じ映像を繰り返し繰り返し映し続けていたから、見た人は「何だ、車はいっぱい走っているじゃないか」と思ったに違いない。

 「スーパーモーニング」の鳥越俊太郎キャスターも、延々と同じ文句をいい続ける桜井市長の矛盾をはらんだ独演にさすがに辟易したのか、最後の方は困ったものだというような表情になっていた。

 アメリカはどうしたか。80キロ圏内を危険域とみなし、駐日の自国民に対し、圏外に出るようにとの命令を発しているではないか。
 現時点では安全であっても、30キロ圏がこれからも安全という保障はないのだ。

 テレ朝の前には、「みのもんたの朝ズバッ!」でも、彼は電話でまったく同じ内容のことを話していた。

 たくさんある南相馬市以外の近隣の被害地域の首長や住民は、救援が来るのをじっと耐え続けており、桜井市長ほど繰り返し、声高に、しかもあっちこっちのマスコミを通して感情的に文句をいっているところはない。

 自分のところだけが支援から取り残され、差別を受け続けている被害者であるかのようにいうのは、いかがなものか。

 それだけ文句があるのなら、なぜ直接、福島県や国や東電に陳情しないのか。

 国や県を説得し、動かすのが視聴の仕事ではないのか。

 彼は、NHK,TBSテレビ、テレ朝などからの電話インタビューを受け、窮状を訴え続けている。
 読売新聞なども、彼の発言を大きな記事にしている。

 そのことによって、尾ひれがつき、騒ぎが大きくなっている。
 ここまでやられたら、国も動かざるを得ないだろう。
 そういう作戦なのだろう。

 マスコミを通じて声高に訴えたら、30キロ圏内の規制が解除になるのなら、ほかの地区の首長たちも、われがちに文句をいい始めるかもしれない。

 そうなったら統制がとれなくなり、パニックになる。

 テレビも新聞も、「弱者の味方」という形で「国が悪い」という論調で報道しがちだが、そうすることによって、それまでじっと耐え続けてきた他地域の人たちの不満感情が連鎖的に爆発しかねない危険性をはらんでいる。

 マスコミは、そのことをよく考えて報道すべきである。

 (城島明彦)

2011/03/14

3月11日を忘れない

 「何とか今週中に」
 と思って徹夜して本の原稿を完成させたのは、3月11日の早朝だった。

 介護関係の本で、病気、ケガ、障害にも触れている。

 その原稿をメールに添付して出版社の編集者に送った。

 執筆途中で何度も体調をこわすなどして、原稿の完成までに1年半以上も費やしてしまった。
 そんなこともあって、虚脱感を感じた。

 だがそれは単なる虚脱感ではなかった。悪寒がした。熱が出てきたらしかった。
 薬を飲んで床につき、そのまま眠った。

 電話で目覚めた。午後2時40分過ぎであった。
 喉が痛く、完全に風邪だと思った。

 電話は、飯田橋にある会社のトップからだった。

 電話で仕事の打ち合わせを開始してほどなく、先方が叫んだ。

 「地震だ!」

 しかし、横浜の私のところは何も感じない。

 「こっちはなんともないよ」
 と私が答えて1分ぐらいたったとき、グラグラッと揺れた。

 後になって、震源地が東北地方の太平洋沖から茨城県沖だとわかり、東京から横浜まで揺れが伝わるのに「時差」があるのだと知った。
 
先方があわてて電話を切った。
 その直後に私のところも激しい揺れに襲われ、尋常ならざる事態を知ったのだった。

 最初の気象庁の発表した数値は、当初、2006年夏にインドネシア共和国のジャワ島南方沖で発生した地震・津波と同じM7・7より少し大きいM7・9ということだったが、テレビに次々と映し出される恐ろしい光景はインドネシア・ジャワ津波のそれを軽く越えている感じがした。

 その後、M8.8、さらにM9.0と訂正されて、実感に合致する感じがした。
 新聞報道によれば、M9.0はM7.9の45倍、8.8の約2倍ものエネルギーだという。

 私は熱っぽく、体がだるくて起きることができないので、床についたままテレビを見ていた。
 その間にもくりかえされる余震。
 報道を重ねるたびに増えていく死傷者の数。
 倒壊という言葉で言い表せない家屋の無残な姿。

 「HELL ON EARTH」(この世の地獄)という見出しをつけて報道した海外メディアがあったが、そうとしかいえない惨状だ。

 あちこちのチャンネルを変えてニュースを見たが、そのなかで、テレビ朝日を見ていたとき、アナウンサーが「今揺れました」といってから2分後くらいに横浜が揺れた。そのときの余震の震度は4と出たので、震度が小さくなると、その分、揺れの伝わり方も遅くなるだと思った。

 3月11日――一年半がかりの原稿の脱稿日、高熱を出して3日も寝込んだ日、電話中の大地震。
私は死ぬまでこの日を忘れない。

 被災地の復旧が1日も早く実現し、被災者が悲しみと苦しさと辛さを乗り越えて1日も早く笑顔を取り戻せることを祈るばかりである。

 どんな小さなことでもいい。自分には何ができるのか。
 そのことを日本人一人ひとりが考えないといけない。
 
 そう思った。

(城島明彦)

2011/03/10

新都市伝説「横浜三塔物語」の謎を追って (2) キング・クイーン・ジャックと誰が命名したのか

 「キング・クイーン・ジャックと呼ばれる3つの塔が同時に見える場所を回ると願いが叶う」
 という新都市伝説「横浜三塔物語」は、いつ、どうやって生まれたのだろう。その謎に迫った。

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(三陽物産の山本博士社長提供「1950年代の三塔の見える光景」。左がキングの塔、中央がジャックの塔、右がクイーンの塔)
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(現在の三塔。左にキングの塔、中央の鉄塔と高層ビルの間にわずかに見えるジャックの塔、右端にクイーンの塔。手前左側に少し突き出たのは〝象の鼻〟。城島撮影)

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(現在の横浜三塔のある風景の記念切手。2007年3月発行。写真提供 郵趣サービス社 沖野信昭氏)

人気急上昇中のデートスポット

 八景島シーパラダイス、横浜港大さん橋国際客船ターミナル、中華街、赤レンガ倉庫、ランドマークタワー、日本郵船氷川丸、山下公園、港の見える丘公園、みなとみらい21、三渓園、野毛山動物園、ラーメン博物館……。

 横浜名所数(かず)あるなかで、近年、若い男女のデートスポットとして人気が高まってきたのが「三塔が同時に見える場所めぐり」である。

 特に3月10日は、語呂合わせで「三塔の日」と命名され、各種のイベントが開催され、にぎわっている。

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(写真は横浜文明堂のカステラ「横浜三塔物語」)

 トランプの絵札が〝ピラミッドパワー〟を形成

 横浜三塔は、トランプのキング、クイーン、ジャックの愛称で呼ばれている。
 神奈川県庁の塔がキングで、横浜税関の塔がクイーン、横浜市開港記念会館の塔がジャックだ。

 これらの3つの塔がある場所を空から眺めると、〝ピラミッドパワー〟ともいうべき三角形を形づくった位置にあることがわかる。

 三塔は、同じ関内地区の100メートル圏内にあり、いずれも、みなとみらい線の「日本大通り駅」から徒歩10分の距離にあるが、3か所を同時に見える場所はちょっと歩かないといけない。
 楽をして願いはかなわないというわけだ。
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(大通り駅の地下コンコースにある「三塔物語」の広告柱とその背後の壁画)

三塔が同時に見えるパワースポット

 昔は周辺に背丈の高いビルもなかったので、いろんな場所から三塔を同時に見ることができたのだろうが、今では林立する高層ビルに邪魔されて同じ場所から眺望できる公共の場所は、たった数か所しか残っていない。

 数か所――正確にいうと、4か所。たったこれだけしかないのである。
 数が少ないからこそ、「パワースポット」としては価値があるといえる。

  ①赤レンガ倉庫(1号棟そばの新港埠頭南端の甲板)
  ②大さん橋(〝くじらの背中〟の愛称で呼ばれる屋上)
  ③神奈川県庁(本庁正門前の向かいにある分庁舎前の歩道)
  ④象の鼻パーク(横浜港発生の地)

 象の鼻パークは、2009年6月に追加された新しいスポットである。しかし、ここは、最初の3か所に比べると、かなり見劣りがする。背の低いジャックが高層ビルに隠れて、ごく一部しか見えないのだ。

 これらの場所には、立ち位置を教えるマークが描かれたり、プレートが埋め込んだりしてあるのが、わかりにくい場所もある。時間をムダにしたくない人はそのあたりにいる人に聞いたほうがよい。

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 三塔を眺められる場所にあるマークは、誰が、いつ、なぜつくったのか?

 キング、クイーン、ジャックの三塔に関する第1の謎は、「それらのマークは、いつ誰がつくったのか」ということだ。

 最初に設置されたのは、神奈川県庁正門の真向かいにある分庁舎前の歩道に埋め込まれた半円形のプレートで、「船の羅針盤(コンパス)」をかたどってある。

 港ヨコハマを象徴するような、なかなかしゃれたデザインである。

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 このプレートが生まれたきっかけは、第17回FIFAワールドカップである。

 「2002FIFAワールドカップ」が日韓共催と決まり、横浜国際総合競技場で決勝を行う権利を獲得した横浜市は、2002年(平成14年)5月31日~6月30日の開催に向けて道路整備などをしたが、「日本大通り」もその対象になった。

 そのとき、神奈川県庁の文庁舎前で、ある市の職員が「ここに立つと、3つの塔が全部見える」といいだし、街づくりのアイデアとして設置されたのだ。

 羅針盤型のプレートは、横浜市の「都市整備局都市デザイン室」がデザインし、マンホールなどに使われているのと同じ素材を使ってつくられた。

 このことを教えてくれたのは、横浜港振興協会の専務理事永田隆さんだ。
 彼は当時、横浜市の都市整備局都市デザイン室にいたのである。

 その後、永田さんは横浜市港湾振興局に異動したが、そこで、ある日、元横浜市議会議長の鈴木正之さんから相談を受けた。
 「三塔を同時に見える場所は、ここだけじゃない。リニューアルされた横浜港の大さん橋からも三塔が見える。そのことを広く周知させたいのだが」

 大さん橋以外にも、三塔を同時に眺望できる場所として知られている〝第3のビュー・ポイント〟があった。赤レンガ倉庫のある埠頭だった。
 赤レンガの歴史は後述するが、横浜市が国から買い取ってその4年前に再生させていた。

 永田さんは、古巣の都市デザイン室と相談した。
 大さん橋の屋上の床は、船の甲板をイメージして木でできているので、白いペンキで立ち位置のマークを描くことにし、赤レンガ倉庫がある埠頭の石畳にもプレートを埋めた。2006年(平成18年)3月頃のことだった。

 永田さんは、PRしようと思い、知り合いの新聞記者に話した。
 しかし、すぐには取り上げてくれず、読売新聞などが記事にするのはその半年後のことになる。


 2011年が「創建100周年」の赤レンガ倉庫

 三塔を同時に眺望できるフットマークがある赤レンガ倉庫は、明治から大正にかけて保税倉庫・共同上屋としてつくられ、「新港埠頭保税倉庫」が正式名であった。

 2号は明治44年(1911)5月、1号は大正2年(1913年)に完成。

 横浜税関の保税倉庫としての役割は平成元年に終え、放置されていたのを、横浜市が平成4年に国から買い取って、平成14年(2002年)に商業施設として再生した。

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ショート・ストーリー『くじらの背中』と象の鼻

 〝くじらの背中〟(横浜港大さん橋国際客船ターミナル)は、〝象の鼻〟の近くにある。
 くじらの背中ができたのは2002年で、相鉄企業、横浜港振興協会、相鉄エージェンシーによる共同事業体「大さん橋プロジェクト」が横浜市から指定管理者を委任され、管理運営している。

 〝象の鼻〟という表現が初めて登場するのは、内務省臨時横浜建築局が明治29年(1896年)に著した『横浜建築史』である。そこには次のように記されていた。

 「其(その)埠頭は海岸より直に海面に突出すること五百余尺、西方に屈曲して一の象鼻形を為せり」(原文はカタカナ表記。五百余尺)
 1尺は約30.3センチだから、500尺は1500メートルである。

(象の鼻パークにあるフットマーク)
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 くじらの背中は、3万トンクラスの客船なら4隻、それ以上のクラスの客船なら2隻の同時着岸が可能な日本最大の桟橋で、総床面積は約44,000㎡。

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(左の写真は大さん橋プロジェクト提供)

(くじらの背中にある三塔が眺望できるフットマーク)
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 屋上には、芝生と船の甲板をイメージさせるウッドデッキを敷きつめた広場、送迎デッキ、野外イベント広場がある。そのウッドデッキにパワースポットは描かれている。


(神奈川県庁の)分庁舎前の歩道

 日本大通りを挟んで、1996年に国の登録文化有形財に指定された神奈川県庁本関庁舎(キング)と向かいあう分庁舎の前の歩道に、このパワースポットはある。

 半円形の羅針盤型のフットプレートに立つと、不思議な感動に包まれる。

 道路を挟んで真正面に神奈川県庁本館がそびえ立ち、そのてっぺんに和洋折衷のキングの塔を仰ぎ見ることができる。そして、その本館の建物の右端にはクイーンの塔が見え、左端にはジャックの塔がわずかに顔をのぞかせているのだ。

 クイーンの塔は季節を問わずよく見えるが、ジャックの塔は道路脇の銀杏並木のせいで、夏場は枝葉が繁り、その隙間からわずかに見えるだけである。

 だが、銀杏がすっかり葉を落とした冬場は、ジャックの塔も見やすい。
 3月10日を語呂合わせで「三塔の日」としたというが、理にかなっているのである。
 感動してカメラに収めようとすると、左右の距離があって三塔全部を一枚に納められないのが難点といえば難点か。

キング、クイーン、ジャックの命名の謎
 
 第2の謎は、「どうして県庁がキングで、税関がクイーンで、横浜市開港記念会館がジャックと呼ばれるようになったのか」ということである。

 建築された年が古い順なのだろうか。調べて見ると、
  ジャック(1917年)
  キング(1928年)
  クイーン(1934年)
 となるので、建築年代によって命名されたことではないことがわかる。

 ついでに竣工月を調べてみると、

  クイーン3月
  ジャック7月
  キング11月

 これは偶然なのか? ラッキーナンバーの3・7・11で、縁起がいいといわれる奇数月に竣工しているのである。

(記念乗車券のデザイン)
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 塔の高さで決めた?

 三塔の呼称は、塔の高さに基づいているのか?
一般論でいうと、ジャックを青年とみなすなら、背の高さは、

  キング>ジャック>クイーン

 または、

  ジャック>キング>クイーン

 の順になるが、ジャックを少年と解釈すると、年齢的には、

  キング>クイーン>ジャック

 という順番になる。

 ところが、実際の三塔は、そのいずれでもない。

  クイーン51m>キング49m>ジャック36m

 で、女性のクイーンが一番高くなっている。
 クイーンがキングより長身というのは、不自然ではないか?

 そこで、よく調べてみると、クイーンは当初47メートルで計画されていたことがわかった。
 その高さで建てられていたなら、

  キング>クイーン>ジャック
 の順の高さになり、必ずしも不自然ではないということになる。

(三陽物産のスティックケーキ「横浜三塔物語」)
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4m上乗せした理由とは?

 なぜ、クイーンは、47mの予定が4m上乗せされて51mになったのか!?

 それは、横浜税関長のツルの一声であった。
「横浜港は国の表玄関だ。諸外国の船が入港してくる日本の表玄関の国の建物が、なぜ県の建物より低いのだ」

 このエピソードはよく知られているが、いわれてみれば、確かにそうだ。

 税関長は、塔の高さを威厳の象徴と考え、県庁より2メートル高く作らせたのである。その結果、キングよりも背の高い〝大女のクイーン〟誕生となったのである。

 トランプでは「キング>クイーン>ジャック」の序列が当たり前なのに、横浜三塔では、立場や権威を重視するという理由で「国>県>市」という背の高さになってしまったのだ。

 高さにこだわるのは、昔も今も同じ。
 2012年開業予定の「スカイツリー」も当初計画では610メートルだったが、中国の光州テレビ・観光塔が同じ高さだと知って、急遽(きゅうきょ)、24メートル上乗せして634メートルとし、「武蔵野(634)を眺望できる」などという後説(あとせつ)をくっつけた。

 世界一が2つでは、集客力に影響するというのが、そうした最大の理由である。


 塔の姿・かたちから命名?

 三塔の愛称が、建築年代によるものではなく、高さでもないとすると、どういう理由によるのか。
 これが第3の謎である。

 その謎を解くカギは、塔の形状にある。

 キングは、どっしりとして重厚かつ威厳がある。鉄筋コンクリートの建物に城郭風の瓦屋根を載せた、いっぷう変わった建物で、屋根が階段状のピラミッドのようになっていて、個性的である。

 クイーンは、国会議事堂を設計した人物が設計した横浜税関の建物で、鉄骨鉄筋コンクリート造5階建てのてっぺんにドームが乗っていて、イスラム寺院のモスクをほうふつさせる女性的なデザイン・色彩の建物になっている。

 ジャックは、時計台の塔が細くて、〝ハマのジャック〟とでも呼びたくなる若者のようなイメージがある。
横浜港は2009年に開港150周年を迎え、さまざまなイベントが開催されたが、ジャックは開港50周年を記念してつくられた赤レンガと白い花崗岩(かこうがん)の時計塔が特徴の建物である。

 つまり、キング、クイーン、ジャックという愛称は、「見た目の塔の姿・かたちからの印象」でトランプの絵札からつけられたということがわかるのである。

 だが、三塔のニックネームを形状からの命名とすると、「チェス説」も浮上する。だが、この説は却下だ。
 なぜなら、クイーンの形状はチェスの駒のデザインと極めて近いものがあるが、チェスの駒にキングはあっても、「ジャック」はないので、この説には無理がある。
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(県庁舎の屋上に君臨するキングの塔)
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第4の謎「キング、クイーン、ジャックの命名者は誰?」

 三塔ができた当時の日本人が、キング、クイーン、ジャックなどというハイカラなネーミングを考えついたとは思えない。

 中学の英語の教科書「JACKandBETTY」(ジャック&ベティ/開隆堂出版)が検定教科書第1号となるのは1948年(昭和23年)だから、ジャックという名前がポピュラーになるのはそれ以降と考えると、日本人説は否定できる。「JACK&BETTY」は、改定を重ねながら昭和40年代半ばまで発行され、総発行部数は4000万部に達した。書名は当初「ANDYandBETTY」とする予定だったが、進駐軍から「アンディでは語呂が悪いからJACKに変えた方がよい」との指導があって変更されたということである。

 そうしたことなどから、三塔の命名者は間違いなく外国人であることはわかるが、どこの国の人間なのか? 

 この謎を解くには、キング、クイーン、ジャックというトランプの絵札の呼び方に注目だ。
 英語圏のトランプの絵札はKQJだが、それ以外の国、たとえばドイツではKDB、フランスではRDVである。

 ドイツのトランプは、キングは「コエーニッヒ」(Koenig)、クイーンは「ダーメ」(Dame)、ジャックは「ブーべ」(Bube)と呼ばれている。ジャックは「少年」という意味である。

 フランスの絵札は、キングは「ヴァレ」(vaket)、クイーンは「ダーメ」(dame)、ジャックは「ロワ」(roi)。

 こういう風にして国を絞っていくと、英語を話す国の船乗りが三塔にトランプの絵札の名前をつけたということがわかる。


 トランプの起原

 トランプが、いつ、どこでできたのかはよくわかっていない。中国、インド、イスラム圏など諸説あるが、特定できていないのだ。ヨーロッパに広く普及したのは14世紀頃である。

 日本に初めて輸入されたのは室町時代の終わりだが、現在のトランプとは違っていて、それが花札やカルタに発展したといわれている。

 現在使われているような形のトランプが日本に輸入されたのは明治時代だが、カルタや花札ほど人気はなかった。


 クイーンは特別な存在

 キング、クイーン、ジャックの絵札のなかで、船乗りたちにとって特別の意味があるのはクイーンだ。遠い昔から外国の船の船首の守り神は「女神」と決まっており、船名にも女性の名前をつけてきたからである。

 だから、陸にもクイーンがいることは船乗りたちにしてみれば、とても心強い。安全に横浜港の大桟橋に着岸できることを祈願して、彼らはクイーンと命名したはずである。

 クイーンで思い浮かぶ英語圏の国といえば、女王が君臨するイギリスしかない。

(横浜税関の建物にそびえるクイーンの塔)
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 イギリス波止場

 イギリス船の船員命名説を裏づけるもうひとつの証拠ともいうべきものは、交易量である。

 慶応元年の輸入品は綿織物、毛織物、薬品などで、輸入先はイギリス85.9%、フランス8.2%、オランダ4.2%、アメリカ1.5%となっており、イギリス船がダントツだったことがわかる。

 江戸幕府は、安政6年(1959年)に横浜港を開港するとき、東波止場と西波止場の2つの石積みの波止場をつくっている。どちらも長さ109.2m、幅18.2mの小さな波止場だった。

 「沖に停泊した客船からは、小舟に乗り換えて上陸した。大型船が直接、着岸できるようになったのは1894年(明治27年)以降のこと。イギリス人技師パーマーの設計案をもとに石積みの西波止場を鉄製の桟橋に改修した。これが現在の大桟橋の原型である」(横浜税関『横浜港の生い立ちと税関』より)

 西波止場は国内の貨物を扱ったので〝税関波止場〟と呼ばれ、東波止場は輸出入貨物を扱い、イギリス領事館の前にあったことから別称〝イギリス波止場〟であった。

 東波止場は、その後、慶應3年に改築され、その形状から〝象の鼻〟と呼ばれるようになり、アメリカとの交易が増えるとメリケン波止場と呼び名が変わる。

 フランス波止場は、イギリス波止場より4年遅れて文久3年(1863年)に東方(氷川丸が停泊している山下公園のあたり)にあったフランス人居留区の前に築造されたが、規模が小さかった。
 
 これらのことから、日本にやってきたイギリスの船の乗組員たちが、横浜港に安全に入港するための目印として、最初に3つの塔にトランプのキング、クイーン、ジャックの愛称をつけ、進路の目安のではないかと推理できる。


 愛称の起原を探る

 第5の謎は、いつごろから三塔がキング、クイーン、ジャックという愛称で呼ばれるようになったのかということだ。

 「建築年代の古い順に、バラバラに命名されたのではないか。つまり、最初にジャックというニックネームだけがあり、次にクイーンが誕生し、やがてキングというニックネームがつけられた」
 「2つの建物ができてからジャックとキングという愛称をつけ、最後にできた女性的な塔をクイーンとした」

 といった考え方もあるが、どうもそうではないらしい。

 『霧笛と共に 横浜市開港記念会館史』(横浜市開港記念会館史刊行委員会編)によると、そう呼ばれるようになったのは日米開戦以前の昭和10年代かららしい。

 昭和10年代つまり昭和10年~19年は、西暦では1935年~1944年だから、戦前の10年間のどこかで命名されたらしい。

 前述したように、ジャック(1917年)、キング(1928年)、クイーン(1934年)の順に建設されているので、三塔が全部そろってから命名され、終戦後にはそれらの愛称で呼ばれていたということになる。


 古くて新しい横浜のシンボル「横浜三塔物語」の仕掛け人たち

 横浜と元町・中華街を結ぶ「みなとみらい線」は、2004年2月に開業した。横浜高速鉄道が運営している。
 同鉄道は第三セクター方式で、神奈川県や横浜市も出資しており、市の職員の牧野孝一(現経済観光局理事)さんが部長として出向した。

 2009年の横浜港開港120周年を控えて、横浜の再開発が企図され、観光都市としての集客策もあれこれと練られた。

 そうした動きのなかで三塔の話は浮上した、と牧野さんが教えてくれた。

 会議の出席者の間で、三塔をめぐる言い伝えなどが話題になった。

 「昔は、外国船の船乗りが帰国するとき、三塔に航海の安全を祈願していたらしい」
 「そういえば、三塔は関東大震災で罹災(りさい)したが、なんとか持ちこたえてきたし、太平洋戦争時の大空襲やその後の天変地異などにも耐えてきた」
 「三塔には、困難を乗り切るパワーが宿っているのではないか」
 「三塔をめぐると、交際している若い男女が、行く手にたちはだかるさまざまな困難を乗り越えて結ばれるという噂もあるみたいだ」
 「トランプの絵札が三塔のニックネームになっているのが、横浜らしくていい」
 「三塔にちなんで、3月10日を『三塔の日』にしてはどうだろう」

 大さん橋プロジェクト、横浜観光コンベンション・ビューロー、横浜高速鉄道の3者は「横浜三塔物語実行委員会」を結成、事務所を大さん橋プロジェクトに置き、牧野さんが〝仕掛け人の元締め〟事務局長に就任した。

 大さん橋プロジェクトは、横浜市から大桟橋の管理運営を委託された「指定管理者」で、「横浜三塔物語実行委員会」の事務局がある。

 横浜観光コンベンション・ビューローは、社団法人横浜国際観光協会と財団法人横浜コンベンション・ビューローが合併して平成10年(1998年)4月に発足した組織で、会長は横浜市長が務めている。

 横浜高速鉄道は、神奈川県・横浜市などが出資・運営している第三セクターで、みなとみらい線には横浜、新高島町、みなとみらい、馬車道、日本大通り、元町・中華街の6駅がある。

 横浜高速鉄道は、2006年11月1日から横浜駅や桜木町駅の観光案内所などで「横浜三塔物語マップ」を配り、3日からみなとみらい線の各駅(横浜駅を除く)で「横浜三塔物語」の写真を載せた記念パスネットを1枚1000円で3000枚限定販売した。つまり、「横浜三塔物語」キャンペーンは、官民一体で考案された観光客誘致の目玉の一つだったのだ。

 「横浜三塔物語」は、こうして横浜への観光客誘致を目的として官民一体で企画されたのである。
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(赤レンガ倉庫のところにあるマーク)
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 2006年誕生の新都市伝説「横浜三塔物語」は、官民一体の観光客誘致作戦
 
 第1回のキャンペーンは、2006年11月1日から翌年3月10日まで実施された。

 横浜高速鉄道は、横浜駅や桜木町駅などで三塔物語のマップを配ったり、みなとみらい線各駅で三塔の写真入り記念パスネット(1000円)を3000枚限定販売するなどいち早く動いた。

 2008年には横浜赤レンガも参画、2010年からは横浜ベイスターズも委員会に加わって、さらにスケールアップした。

 かくて、「三塔を同時に見えるスポットを回ると願いがかなう」という新都市伝説「横浜三塔物語」は人口に膾炙(かいしゃ)するようになったのだ。

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(交叉点にそそり立つジャックの塔は、三塔のなかで一番人気が高い)
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 関連商品・グッズが続々登場 牧野さんは、一社10万円で協賛企業を集めた。

 そして1年目の2007年の「三塔の日」には、横浜市開港記念会館、大さん橋、日本大通り駅の「三塔広場」の3か所をまわる「スタンプラリー」、横浜三塔物語ガイドツアー、ペーパークラフト教室、写真展などのイベントが開催され、その様子がテレビや新聞などで報道され、全国的に知られることになった。

 このキャンペーンに合わせて、霧笛楼の「横濱レンガ・横濱三塔物語」、モンテローザの「横濱三塔物語スティックケーキ」といったイベント商品がたくさん売り出された。「横濱三塔物語紅茶」「横濱三塔メモブック」「黒船ハーバー 横濱三塔物語」「横濱三塔Tシャツ(キング・クイーン・ジャック)」「横濱三塔物語船絵馬」「横濱三塔ポストカード」などである。

 本稿の執筆に当たっては、横浜市の町おこしに日頃から尽力されている以下の方々や関係役所の取材協力・写真提供を得た。名前を記し、感謝申し上げる。(順不同・敬称略)

 横浜市経済観光局 牧野孝一(コンベンション担当理事)、(財)横浜観光コンベンションビューロー 藤原修吾、大さん橋プロジェクト 原田務(マネージャー)、横浜文明堂 飯田健(企画課)、横浜高速鉄道、郵趣サービス社 沖野信昭、(財)横浜港振興協会、三陽物産山本博士(社長)、横浜市港湾局

 特に注記していない写の撮影は城島。

 (注)本原稿は、㈱アイ・ティー・エーという横浜に本社を置く通信機器の販売・施工会社が立ち上げた「はまれぽ.com」というところに掲出されるとういうことで執筆したが、同社の社長豊川徹という人物のたびたびの方針変更にともない、何度も原稿の書き直しを要求されただけでなく、三塔関係の写真まで撮影してくることを求められた。

 そのあげく、原稿をボツにされ、その慰謝料として「3,000円支払う」(3万円ではない!)というので、受け取りを拒否した。

 「横浜の知名度をアップするため」といいながら、豊川社長のアイ・ティー・ティーという会社が本件でやったことは、自分自身の会社に利することだけであり、横浜の発展を心底から願って取材に協力してくれた上記の人々の顔に泥を塗ったことになる。

 IT関連企業の成り上がり連中には、このように商売だけは巧みだが、人を人とも思わず、文章もロクにわからないこの手の輩が多いことを付記しておきたい。


(初出2011年3月10日。加筆3月14日、3月25日)

 (城島明彦)

2011/03/09

こんな電子書籍、出てました。『幻想曲(ファンタジア)』(城島明彦)

  電子書籍の小説『幻想曲(ファンタジア)』(いるかネットブックス)が1月末に出ていたことを偶然知った。

 発売時期は配信業者の思惑で勝手に決められ、いつ本が出るのか、作者自身がわからないのが電子書籍の特長らしい。

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 去年の夏に書いた短編である。リレー小説として何人かで書き(オムニバス)、私がアンカーを務めたが、単独でも成り立つように当初から計算して書いた。

 蜉蝣(かげろう)の刺繍のある義母の形見の帯を締めた里花。
 蜉蝣飾りのついた古い万年筆を持つ峰島。
 2つの品が、19世紀後半に活躍したフランスの工芸家エミール・ガレの最後の作品となった蜉蝣をモチーフにしたガラス製の杯を飾った展示会で出会ったのは、単なる偶然か? それとも……。
 時空を超えた怪しくて不思議な出来事が次々と起っていく。

 価格は105円。短編だから安い。

 拙著『怪奇がたり』(扶桑社文庫)や、それの電子書籍を読んでくれた読者で、そこに収載された「記憶」(2人の学生が夏休みに巻き込まれる事件を描いた短編)を覚えている人は、にやりと笑うかもしれない。話が関連しているのだ。

(城島明彦)

新都市伝説「横浜三塔物語」の謎を追って (1)願いがかなう3月10日

 受験生、恋人たちは横浜へ急げ! 
 
 キング・クイーン・ジャックと呼ばれる横浜にある3つの塔が同時に見える場所をめぐると、

 「願いがかなう」

 といわれているぞ。

 3つの塔を同時に見える場所は、昔はいっぱいあったが、今では高層ビルに邪魔されて4か所しかない。

 だからこそ希少価値で、パワースポットというわけだ。

 いつ回っても構わないが、特に3月10日は語呂合わせで「三塔の日」。イベントがたくさんある。

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 これは、三陽物産の山本博士社長秘蔵の「横浜の伊勢山皇大神宮から眺めた昔の風景」で、白黒写真に〝じんちゃく〟(人工着色)と呼ばれる手法で彩色した絵葉書。眼下に3つの塔が見えている。
 中央がキングで、向かって左にクイーン、右にジャックを従えている。

※写真はクリックすると拡大できる

(城島明彦)

 

2011/03/07

ほろりとさせたNHK「江」(第9回)VS超最悪映画「ゼロの焦点」のテレ朝「日曜洋画劇場」

 (1)「江~姫たちの戦国~」第9回

 「江~姫たちの戦国」第9回は、信長亡き後、天下取りへと暗躍する秀吉の術中にはまって戦わざるを得なくなった柴田勝家(しばたかついえ)と「戦争はいやだ」という3姉妹の話。

 勝家と秀吉が賤ヶ岳で戦ったのは、お市の方が3姉妹を連れて勝家と再婚した翌年であるから、わずか1年の間に3姉妹と勝家が本当の親子のような絆が生まれたかどうかは疑わしいが、少なくともお市の方は、勝家が敗れると、一緒に自害して果てているから、夫婦としての絆は強かったと考えてもおかしくはない。

 柴田勝家の現存する肖像画が正しいとすると、大地康雄の顔は実物に近いかもしれない。

 髪はチリチリ。
 熊のようなひげづら。
 お市の方と結婚したときすでに60歳で、額は禿げ上がりつつあり、広くなってはいたが、頭髪は豊かな感じだった。
 
 勝家は、剛勇無双で無骨でやさしいところがあったと言い伝えられている。

 勝家は信長の父信秀に仕えていたが、信秀の死後、〝うつけ者〟(バカ者の意味)といわれていた若き日の信長が家督を継ぐのを不安に思い、信長を葬り去ろうとしたが、信長の母のとりなしで命を助けられたのを機に、信長という人間を知って、自分は天下取りに向く器ではなく、「補佐役」に徹するのが適役だと悟ったのだろう。

 その後のいくさでは数々の手柄を立て、信長の筆頭家老に任ぜられたこともあって、生涯、信長を信奉していたらしい。

 勝家は秀吉に敗れて「敗軍の将」になるので、その記録は歴史上から抹殺され、詳しいことはわかっていない。

 『日本史』を著したイエズス会の宣教師でポルトガル人のルイス・フロイスは、信長に謁見し、明智光秀、秀吉との関係を見ているが、彼の目に映ったのは勝家が信長に継ぐ副将だった。

 勝つか負けるか。2つに1つしかない戦国時代の父と娘の関係は、どうだったのか?
 
 戦国時代は、領土のぶんどり合戦の時代。

 下克上あり、血肉を分けた親子、兄弟の殺し合いは当り前。
 娘は、政略結婚の道具。
 同盟を結べば、城主の母や姉妹を人質として差し出す。

 それが戦国時代である。

 そういう過酷な時代に生きた3姉妹が、義父となった柴田勝家を「父上」と呼んだかどうかははっきりしない。

 しかし、一緒に暮らした期間がたとえ1年未満ではあっても、同じ1年が今日とは時間の経ち方が違うということも考えなければならない。
 福井の北ノ庄というへんぴなところでは、娯楽も少なく、時間はさらにゆっくりと流れただろうから、同じ1年でも、今の人間の感覚からすると3年にも4年にも匹敵するかもしれない。

 また、いつ死ぬかもしれないという不安と覚悟を決めた人たちにとっては、1日1日が大切だったはずで、短期日のうちに親子の情が育(はぐく)まれた可能性もある。

 NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第9回の「義父の涙」は、そういう面をクローズアップした内容で、「勝家とお市の方、3姉妹の短くも美しく結ばれた親子の絆」がテーマだった。

 田淵脚本は、「刺繍」を通じて親子の絆をうまく描いていた。
 勝家の刺繍の腕に娘たちが感心する場面があり、勝家が、「戦場でつくろいものをするから」と答えていたが、これはおかしい。
 
 刺繍が趣味で、気分を落ち着けるために刺繍をするというのならわからなくもないが、常識的に考えて、戦場で城主自らつくろいものをするわけがない。
 そう考えると、第9回の話自体が成り立たなくなるが、そこはドラマ。絵空事(えそらごと)と目をつぶるしかない。

 ドラマでは、長女の茶々と次女の初は、出陣する勝家に神社からもらってきたお守りを渡すが、3女の江は、勝家の姿を刺繍したものをお守りとして渡す。
 ほろりとさせるところだ。
 
 史実はどうなのかとこまごまと詮索しなければ、なかなかいいドラマだったといえる。


(2)テレ朝「日曜洋画劇場」の「ゼロの焦点」 

 テレ朝の「日曜洋画劇場」は洋画だけを放送するわけではない。日本映画もやっている。なぜタイトルを「日曜映画劇場」に変えないのか不思議だ。

 3月最初の日曜日の「日曜洋画劇場」が取り上げたのは、特別企画の「松本清張スペシャル」と銘打った映画「ゼロの焦点」(2009年封切)だった。

 松本清張原作の「ゼロの焦点」は、今日のサスペンスドラマの定番シーンの元祖である。
 犯人と刑事がラストで、なぜか断崖のところで対峙し、話をするという原点になったのが、1961年に封切られた「セロの焦点」なのだ。

 名匠野村芳太郎監督が松本清張原作『ゼロの焦点』を初めて映画化してから、今年で50年になる。

 その映画と比べると、今回のリメイク版は最低以下。超最低だった。

 リメイク版は東宝が製作し、松本清張生誕100年記念ということで電通、テレ朝、木下工務店、朝日新聞社、日販が出資するという賑々(にぎにぎ)しさだったことが、かえって災いしたのかもしれない。
 金を出すかわりにあれこれと口出しし、その結果、どうしようもない超駄作を作ってしまったのではないかと思われるのである。

 旧作は、山田洋次と橋本忍の共同脚本。出来が違う。橋本忍は黒澤作品などを執筆した手だれである。
 リメイク版は、それを意識しすぎるあまり、妙な脚本になり、演出も最低。脚本・監督は犬童一心。

 これはテレビドラマかと思ってしまうようなレベルの低い演出がリメイク版では随所に見られた。
 松本清張が存命なら失望を通り越して怒ったに違いない。

 映画のストーリーは、結婚まもなく、金沢に赴任した夫が失踪。その謎を追って新妻が金沢に飛び、事件の核心に迫っていくというサスペンス物である。

 リメイク版は時代考証に金をかけてはいるが、まったく原作の舞台である昭和31年という時代の空気とか匂いが感じられないのが致命傷だ。「売春防止法」が施行されたのは、この年だ。

 昭和31年という年は、経済白書が「もはや戦後ではない」と記した年でもある。

 『ゼロの焦点』で松本清張が描いたのは、戦後、「パンパン」と呼ばれる街娼に身を落とし、そこから這い上がっってきた女の暗い情念である。  

 だが、リメイク版からはそういう情念のようなものはまったく感じられず、全編を通じて、
 「これは、一体、いつの時代を描いているのか」
 という疑問だけを感じた。

 50年前の映画では、妻に久我美子、高千穂ひずる、有馬稲子が競演し、過去の影におびえるすさまじい女の情念が画面から漂ってきた。
 
 リメイク版では、妻に広末涼子、中谷美紀、木村多江が張り合ったが、主演の広末がすべてをぶち壊していた。

 この女優に主演は無理なのではないか。
 中谷美紀も熱演はしているのだが、当時の雰囲気が伝わってこない。

 3人のなかでは木村多江が原作が書かれた当時の一般的な日本人女性の顔に一番近いが、彼女も薄幸の感じが今一つだった。

 こういう映画を高い金をかけてつくった連中の顔が見たい。

(城島明彦)

2011/03/03

氷川きよしの新曲「野菊とあの娘(こ)と渡し舟」と伊藤左千夫の小説『野菊の墓』

 氷川きよしが2月3日に発売した新曲のタイトルが「野菊とあの娘(こ)と渡し舟」だったと知ったときは驚いた。

 実は、昨年夏、私は伊藤左千夫の短編小説『野菊の墓』を現代語に訳していたからだ。
 その訳本が、このほど、ケータイ小説として「いるかネットブックス」から発売された。
 最初にアップされたのは「どこでも読書」で、そのうち「パピレス」あたりでもアップされるはずだ。

 氷川きよしの歌は、明治時代に書かれた伊藤左千夫の短編小説『野菊の墓』に材を取っており、プロモーションビデオの映像は、舟に乗って学校の寄宿舎生活に戻る政夫を民子が「矢切の渡し」で見送る光景だった。
 政夫と民子の永遠の別れになる場面である。
 作詞が水木れいじ、作曲が水森英夫で、氷川を含め、全員が水に関係があるというのも不思議だ。

 『野菊の墓』の冒頭の部分と、政夫と民子が間接的に恋心を打ち明けるハイライト・シーンを原文と私が現代語に訳した文章を併記して紹介したい。

出だし

●原文
 後(のち)の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣(わけ)とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年余も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧(むし)ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪(むさぼ)って居る事が多い。そんな訣から一寸(ちょっと)物に書いて置こうかという気になったのである。

◆城島訳
 後(のち)の月――それは、中秋の名月から一か月後(のち)の陰暦九月十三日の夜空に照る月であるが――その季節がめぐってくると、僕はあることを思い出さずにはいられなくなってくる。
心身ともにまだ幼かった十代半ばの頃の出来事ではあるが、どうにもそのときのことを忘れることができないでいるのだ。
 もう十年あまりも昔のことになるので、細《こま》かいことはそんなに覚えてはいないけれど、胸の思いに限っていうなら、今でもつい昨日《きのう》の出来事のように鮮明であり、その頃のことを考えていると、たちまち当時の気持ちに戻ってしまって、涙がとめどなくあふれてくるのである。
 悲しくもあり楽しくもあるというような複雑な心境になってしまうので、過ぎたこととして忘れようと思わなくもないのだが、どちらかというと、繰り返し思い返しては、まるで夢か幻のような世界にひたっていることの方が多いのだ。
 そんなわけで、ふと思い立って、そのことを書き残しておこうという気持ちになったのである。

ハイライト・シーン

●原文
 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。
 「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」
 「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
 「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
 「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
 「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
 「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
 「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
 「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
 「僕大好きさ」

◆城島訳
 民子は一町(約一〇九メートル)ほど行ったあたりでうしろを振り返ったが、ついてきているはずの僕の姿がないことに気づいて、「あら、いやだ」と小さく叫んで駆け戻ってきた。
 「民さん、そんなにあわてて駆けてこなくたって、僕の方で追いかけていくのに」
 「政夫さんはなにをしていたの。姿が見えないから、私、びっくりしちゃって……あらっ、きれいな野菊。政夫さん、私に半分ちょうだい。私、野菊が大好きなの」
 「僕は小さい頃から野菊が大好きだよ。民さんも野菊が好きだったなんて、ちっとも知らなかった」
 「私はね、きっと野菊の生まれ変わりよ。だって、野菊の花を見ると身ぶるいしてしまうくらいだもの。それぐらい好き。どうしてそんなに好きなのか、自分でも不思議に思うくらいなの」
 「民さんがそんなに野菊を好きだなんて気づかなかった。道理で民さんは野菊のような人だ」
 民子は、半分こした野菊を頬《ほお》に押しあてて、とてもうれしそうだった。
 やがて僕らは歩き出した。
 「政夫さん……どうして私が野菊のようだと思うの」
 「どうしてっていわれると説明しづらいけど、民さんにはどことなく野菊のような雰囲気があるからさ」
 「それで、政夫さんは野菊が好きだって……」
 「うん、僕、大好きさ」
 ここからはあなたが先になってといいながら、民子は僕のうしろへ回った。

(城島明彦)

2011/03/02

おじいちゃんもパパも、みんな泣いた『野菊の墓』の現代語訳をケータイ小説で!

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 読んだ男は、なぜか、みんな泣く伊藤左千夫の初恋物語『野菊の墓』。

 明治、大正、昭和、平成と時代は変わっても、異性を恋する気持ちは変わらないのだ。

 しかし、この短編は明治時代に書かれたので、現代の若い人には読みづらく、意味がわからない言葉や表現も多い。
 会話もどこか変である。
 だから、現代語訳した。

 「どこでも読書」にアップされたので、ぜひ読んでほしい。
 
 http://www.iruka-books.net/static/mobilebook_QR.html

 (城島明彦)

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