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2011/03/07

ほろりとさせたNHK「江」(第9回)VS超最悪映画「ゼロの焦点」のテレ朝「日曜洋画劇場」

 (1)「江~姫たちの戦国~」第9回

 「江~姫たちの戦国」第9回は、信長亡き後、天下取りへと暗躍する秀吉の術中にはまって戦わざるを得なくなった柴田勝家(しばたかついえ)と「戦争はいやだ」という3姉妹の話。

 勝家と秀吉が賤ヶ岳で戦ったのは、お市の方が3姉妹を連れて勝家と再婚した翌年であるから、わずか1年の間に3姉妹と勝家が本当の親子のような絆が生まれたかどうかは疑わしいが、少なくともお市の方は、勝家が敗れると、一緒に自害して果てているから、夫婦としての絆は強かったと考えてもおかしくはない。

 柴田勝家の現存する肖像画が正しいとすると、大地康雄の顔は実物に近いかもしれない。

 髪はチリチリ。
 熊のようなひげづら。
 お市の方と結婚したときすでに60歳で、額は禿げ上がりつつあり、広くなってはいたが、頭髪は豊かな感じだった。
 
 勝家は、剛勇無双で無骨でやさしいところがあったと言い伝えられている。

 勝家は信長の父信秀に仕えていたが、信秀の死後、〝うつけ者〟(バカ者の意味)といわれていた若き日の信長が家督を継ぐのを不安に思い、信長を葬り去ろうとしたが、信長の母のとりなしで命を助けられたのを機に、信長という人間を知って、自分は天下取りに向く器ではなく、「補佐役」に徹するのが適役だと悟ったのだろう。

 その後のいくさでは数々の手柄を立て、信長の筆頭家老に任ぜられたこともあって、生涯、信長を信奉していたらしい。

 勝家は秀吉に敗れて「敗軍の将」になるので、その記録は歴史上から抹殺され、詳しいことはわかっていない。

 『日本史』を著したイエズス会の宣教師でポルトガル人のルイス・フロイスは、信長に謁見し、明智光秀、秀吉との関係を見ているが、彼の目に映ったのは勝家が信長に継ぐ副将だった。

 勝つか負けるか。2つに1つしかない戦国時代の父と娘の関係は、どうだったのか?
 
 戦国時代は、領土のぶんどり合戦の時代。

 下克上あり、血肉を分けた親子、兄弟の殺し合いは当り前。
 娘は、政略結婚の道具。
 同盟を結べば、城主の母や姉妹を人質として差し出す。

 それが戦国時代である。

 そういう過酷な時代に生きた3姉妹が、義父となった柴田勝家を「父上」と呼んだかどうかははっきりしない。

 しかし、一緒に暮らした期間がたとえ1年未満ではあっても、同じ1年が今日とは時間の経ち方が違うということも考えなければならない。
 福井の北ノ庄というへんぴなところでは、娯楽も少なく、時間はさらにゆっくりと流れただろうから、同じ1年でも、今の人間の感覚からすると3年にも4年にも匹敵するかもしれない。

 また、いつ死ぬかもしれないという不安と覚悟を決めた人たちにとっては、1日1日が大切だったはずで、短期日のうちに親子の情が育(はぐく)まれた可能性もある。

 NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第9回の「義父の涙」は、そういう面をクローズアップした内容で、「勝家とお市の方、3姉妹の短くも美しく結ばれた親子の絆」がテーマだった。

 田淵脚本は、「刺繍」を通じて親子の絆をうまく描いていた。
 勝家の刺繍の腕に娘たちが感心する場面があり、勝家が、「戦場でつくろいものをするから」と答えていたが、これはおかしい。
 
 刺繍が趣味で、気分を落ち着けるために刺繍をするというのならわからなくもないが、常識的に考えて、戦場で城主自らつくろいものをするわけがない。
 そう考えると、第9回の話自体が成り立たなくなるが、そこはドラマ。絵空事(えそらごと)と目をつぶるしかない。

 ドラマでは、長女の茶々と次女の初は、出陣する勝家に神社からもらってきたお守りを渡すが、3女の江は、勝家の姿を刺繍したものをお守りとして渡す。
 ほろりとさせるところだ。
 
 史実はどうなのかとこまごまと詮索しなければ、なかなかいいドラマだったといえる。


(2)テレ朝「日曜洋画劇場」の「ゼロの焦点」 

 テレ朝の「日曜洋画劇場」は洋画だけを放送するわけではない。日本映画もやっている。なぜタイトルを「日曜映画劇場」に変えないのか不思議だ。

 3月最初の日曜日の「日曜洋画劇場」が取り上げたのは、特別企画の「松本清張スペシャル」と銘打った映画「ゼロの焦点」(2009年封切)だった。

 松本清張原作の「ゼロの焦点」は、今日のサスペンスドラマの定番シーンの元祖である。
 犯人と刑事がラストで、なぜか断崖のところで対峙し、話をするという原点になったのが、1961年に封切られた「セロの焦点」なのだ。

 名匠野村芳太郎監督が松本清張原作『ゼロの焦点』を初めて映画化してから、今年で50年になる。

 その映画と比べると、今回のリメイク版は最低以下。超最低だった。

 リメイク版は東宝が製作し、松本清張生誕100年記念ということで電通、テレ朝、木下工務店、朝日新聞社、日販が出資するという賑々(にぎにぎ)しさだったことが、かえって災いしたのかもしれない。
 金を出すかわりにあれこれと口出しし、その結果、どうしようもない超駄作を作ってしまったのではないかと思われるのである。

 旧作は、山田洋次と橋本忍の共同脚本。出来が違う。橋本忍は黒澤作品などを執筆した手だれである。
 リメイク版は、それを意識しすぎるあまり、妙な脚本になり、演出も最低。脚本・監督は犬童一心。

 これはテレビドラマかと思ってしまうようなレベルの低い演出がリメイク版では随所に見られた。
 松本清張が存命なら失望を通り越して怒ったに違いない。

 映画のストーリーは、結婚まもなく、金沢に赴任した夫が失踪。その謎を追って新妻が金沢に飛び、事件の核心に迫っていくというサスペンス物である。

 リメイク版は時代考証に金をかけてはいるが、まったく原作の舞台である昭和31年という時代の空気とか匂いが感じられないのが致命傷だ。「売春防止法」が施行されたのは、この年だ。

 昭和31年という年は、経済白書が「もはや戦後ではない」と記した年でもある。

 『ゼロの焦点』で松本清張が描いたのは、戦後、「パンパン」と呼ばれる街娼に身を落とし、そこから這い上がっってきた女の暗い情念である。  

 だが、リメイク版からはそういう情念のようなものはまったく感じられず、全編を通じて、
 「これは、一体、いつの時代を描いているのか」
 という疑問だけを感じた。

 50年前の映画では、妻に久我美子、高千穂ひずる、有馬稲子が競演し、過去の影におびえるすさまじい女の情念が画面から漂ってきた。
 
 リメイク版では、妻に広末涼子、中谷美紀、木村多江が張り合ったが、主演の広末がすべてをぶち壊していた。

 この女優に主演は無理なのではないか。
 中谷美紀も熱演はしているのだが、当時の雰囲気が伝わってこない。

 3人のなかでは木村多江が原作が書かれた当時の一般的な日本人女性の顔に一番近いが、彼女も薄幸の感じが今一つだった。

 こういう映画を高い金をかけてつくった連中の顔が見たい。

(城島明彦)

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