3月11日を忘れない
「何とか今週中に」
と思って徹夜して本の原稿を完成させたのは、3月11日の早朝だった。
介護関係の本で、病気、ケガ、障害にも触れている。
その原稿をメールに添付して出版社の編集者に送った。
執筆途中で何度も体調をこわすなどして、原稿の完成までに1年半以上も費やしてしまった。
そんなこともあって、虚脱感を感じた。
だがそれは単なる虚脱感ではなかった。悪寒がした。熱が出てきたらしかった。
薬を飲んで床につき、そのまま眠った。
電話で目覚めた。午後2時40分過ぎであった。
喉が痛く、完全に風邪だと思った。
電話は、飯田橋にある会社のトップからだった。
電話で仕事の打ち合わせを開始してほどなく、先方が叫んだ。
「地震だ!」
しかし、横浜の私のところは何も感じない。
「こっちはなんともないよ」
と私が答えて1分ぐらいたったとき、グラグラッと揺れた。
後になって、震源地が東北地方の太平洋沖から茨城県沖だとわかり、東京から横浜まで揺れが伝わるのに「時差」があるのだと知った。
先方があわてて電話を切った。
その直後に私のところも激しい揺れに襲われ、尋常ならざる事態を知ったのだった。
最初の気象庁の発表した数値は、当初、2006年夏にインドネシア共和国のジャワ島南方沖で発生した地震・津波と同じM7・7より少し大きいM7・9ということだったが、テレビに次々と映し出される恐ろしい光景はインドネシア・ジャワ津波のそれを軽く越えている感じがした。
その後、M8.8、さらにM9.0と訂正されて、実感に合致する感じがした。
新聞報道によれば、M9.0はM7.9の45倍、8.8の約2倍ものエネルギーだという。
私は熱っぽく、体がだるくて起きることができないので、床についたままテレビを見ていた。
その間にもくりかえされる余震。
報道を重ねるたびに増えていく死傷者の数。
倒壊という言葉で言い表せない家屋の無残な姿。
「HELL ON EARTH」(この世の地獄)という見出しをつけて報道した海外メディアがあったが、そうとしかいえない惨状だ。
あちこちのチャンネルを変えてニュースを見たが、そのなかで、テレビ朝日を見ていたとき、アナウンサーが「今揺れました」といってから2分後くらいに横浜が揺れた。そのときの余震の震度は4と出たので、震度が小さくなると、その分、揺れの伝わり方も遅くなるだと思った。
3月11日――一年半がかりの原稿の脱稿日、高熱を出して3日も寝込んだ日、電話中の大地震。
私は死ぬまでこの日を忘れない。
被災地の復旧が1日も早く実現し、被災者が悲しみと苦しさと辛さを乗り越えて1日も早く笑顔を取り戻せることを祈るばかりである。
どんな小さなことでもいい。自分には何ができるのか。
そのことを日本人一人ひとりが考えないといけない。
そう思った。
(城島明彦)
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