お市の方は、秀吉の女になるのが嫌で自害した!?(「江~姫たちの戦国~」第10回「わかれ」)
「江~姫たちの戦国~」第10回「わかれ」は、賤(しず)ヶ谷の合戦で秀吉に敗(やぶ)れて逃走し、自らの居城(北ノ庄城)に戻った柴田勝家(しばたかついえ)が、まだ幼い娘3人を秀吉の手元へ送り出した後、お市の方とともに自害するという天正11年(1583年)4月の話である。
大軍で北ノ庄城を包囲した秀吉は、部下の石田三成(いしだみつなり)を使いとして城中に送り込み、お市の方と3人姉妹を保護しようとするが、お市の方はその申し出を断り、娘たちだけを場外に逃れさせ、自らは死を選ぶのだ。
なぜ、お市の方が自死の道を選んだのかは、よくわかっていないので、推理してみたい。
賤ヶ岳の合戦から遡(さかのぼる)こと約10年。
天正元年(1573年)8月、織田信長の妹お市の方が夫の浅井長政(あさいながまさ)と住んでいた小谷(おだに)城は、信長の命を受けた秀吉の軍勢に包囲され、夫は自決、自身と3人の娘は保護されるという同じ場面に遭遇していた。
お市の方は、信長と夫の命に従って、3人の娘をつれて門外に出、生き延びたのである。
お市の方が浅井長政と暮らしたのは、5~6年間である。その間に、茶々、初、江の3人の姫たちは生まれたのだ。
その後、お市の方と3人の姫たちは、信長の弟でお市の方の兄に当たる織田信包(のぶかね)の世話で、尾張の清洲城で楽しく過ごす。
そして10年近い歳月が流れるのだ。
3人姉妹にとって、その間は、実父と暮らした時期を除いて、かなり幸せな日々だったと推測できる。
そんなある日、お市の方は、突然、3人の娘を連れて柴田勝家と再婚し、福井の北ノ庄城という北国へ移るのである。天正10年(1582年)のことだった。
お市の方が自害するのは、その翌年の1583年4月である。3人の姫たちが義父の柴田勝家と暮らした月日は、1年にも満たなかったという計算になる。
思えば、お市の方は、死ぬために柴田勝家と再婚したようなものだ。
10年近くも、母娘だけの穏やかな暮らしをしていたのに、なぜ、お市の方は、ふたまわりも歳の違う無骨者(ぶこつもの)のじいさんと再婚しなければならなかったのか!?
なぜ!?
賤ヶ岳の合戦で、織田信包(のぶかね)は秀吉勢につき、兄信長の遺児(3男)の甥信孝(のぶたか)と戦っているのがヒントになるのではないか、と私は推理している。
そう推理する理由を説明しよう。
お市の再婚相手柴田勝家は、信長の死後、ずっと信孝をかついできた。
一方、お市の方たちの面倒をみていた兄織田信包は、信長の孫(嫡男信忠(のぶただ)の息子)三法師(さんぼうし)をかつぐ「秀吉派」であった。信包は、兄信長が本能寺の変で殺され、その仇を討った秀吉についていたのだ。
ここで、話は変わる。
秀吉は、「人たらし」といわれている。人たらしの「人」のなかには、「女」も含まれている。
秀吉の女好きは有名で、ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、秀吉には300人もの側室がいたと書かれている。
一方、信長を本能寺に襲った明智光秀には、1人の側室もいなかったといわれている。
秀吉は、顔が猿っぽく、生まれも下賎で下品、教養がなく、しかも好色とくれば、現代の女性には徹底的に嫌われて当然だが、当時の女からはさほど嫌われてはいなかったようである。
宮沢りえ扮する浅井3姉妹の長女茶々は、その秀吉に乞われて側室になり、秀吉の子供まで生むのだから、秀吉の女たらしぶりは普通ではない。
正室(正妻)でも、家督を継ぐ男子を産まないと肩身が狭く、側室を認めるという考え方の時代だったから、今日の感覚とはかなり違うが、かといって、次から次へといろいろな女に手を出しまくる夫を、心底から喜ぶ妻などまずいない。
秀吉は、百姓の出でありながら、気難しがり屋の信長に気に入られて、どんどん出世していったが、彼の正室の「ねね」(「おね」ともいう)も、信長にもえらく気に入られた。
秀吉は、ねねのふところが広いのをいいことに、秀吉は好色の限りを尽くした。「英雄色を好む」を地でいったというわけだ。
織田信長の一族は、色白で面長な顔だちで、美男美女が多く、信長もハンサムであり、お市の方も「戦国一の美女」といわれた絶世の美人だったから、秀吉は、信長に仕えるようになって初めてお市の方を見て以来、憬れの人になってしまった。
異性に対する好き嫌いの感情には個人差があり、理屈ではない。ただし、必ずしも顔の美醜に対してではないから、「蓼(たで)食う虫も好き好き」ということわざが存在するのである。
しかし、お市の方は、秀吉を生理的に嫌っていた、と私は考えている。
嫌だと思ったら、誰が何といってもダメである。
しかし、秀吉は口がうまく、どんな女でも時間をかけて口説けば、ものになると思っていた。
お市の方に懸想(けそう)し続けてきた好色男秀吉は、〝熟柿(じゅくし)作戦〟(柿が熟して自然に落ちてくるのをじっと待つ戦法)で、お市の気持ちが変わるのをひたすら待ち望んでいた。
自分の地位がどんどん高くなれば、たとえ最初は「雲の上の人」でも、その距離も次第に近づき、やがては自分を振り向くようになるだろうと不遜なことを考えていた。
秀吉は、畏敬し続けた信長や憬れ続けた美しいお市の方に流れる織田家の血をわが子孫に残すことを切望したのである。
ところが、いつまでたってもお市の方は秀吉を毛嫌いし続けので、さすがの秀吉もとうとうしびれを切らす。
お市の方もすでに30代半ば。自分の子供を生むには、もはや猶予はならないと、秀吉はあせり、「将を射んと欲しれば馬を射よ」の故事にならって、お市の方の馬に見立てた後見人の織田信包(のぶかね)に圧力をかけた。
困ったのは、信包である。
秀吉の好色な申し出を飲むとなると、お市の方は側室になるしかない。正室なら話も変わってくるかもしれないが、側室などということは許されない。
お市の方はプライドが高いので、そういう道を選べといえば自害してしまうかもしれない。
信包は、窮余の一策とばかり、1人者のじいさま柴田勝家に再婚させるという奇手を思いついたのではないか。
織田家の筆頭家老だった勝家の正妻となるのであるから、さすがの秀吉も文句はいえまい。
信包はそう考えたのではないか。
しかも、そうすることで、信包自身は、秀吉と勝家のどちらも敵に回さずにすむ。まさに一石二鳥である。
やがて、柴田勝家と秀吉は、いくさに突入。ここで話はもとに戻るのだ。
兵力で劣る勝家軍は、秀吉軍に賤ヶ谷の合戦で負け、勝家は居城に逃げ帰り、死を決意する。
秀吉は、石田三成を使者に立て、お市の方と3姉妹を助けると申し出た。
お市の方は、10年前に小谷城が滅ぶとき娘たちとともに城外に出て保護されたから、今度もそうするだろうと秀吉は軽く考えていた。
浅井長政とお市の方の結婚生活は9年ほどと長く、しかも3人もの娘も生まれているのに対し、柴田勝家との結婚生活は1年にもみたず、子供もいない。
そう考えて秀吉は、お市の方は、夫が城を枕に自刃(じじん)しても、小谷城で長政が自刃したときと同じように、娘たちとともに自分のところへ来るだろう、それが当りまえだと読んだ。
ところが、現実はそうではなかった。お市の方は勝家とともに城に残り、自害する道を選んだ。
石田三成からそう報告されて、秀吉は、
(おれは、お市の方さまにそこまで毛嫌いされているのか)
と、大変なショックをうけたはずである。
しかし、秀吉という男、執念深いというか、どこまでもお市の方への思慕の情を貫こうとするのである。
彼女と一番顔つきが似ているといわれた茶々を、手練手管(てれんてくだ)で篭絡(ろうらく)し、とうとう側室にして、子供まで産ませてしまうのだから恐れ入る。
NHK大河ドラマが、そのあたりをどう描くのか、見ものである。
(城島明彦)
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