「江~姫たちの戦国~」は「異聞 江姫」とすべき。ご都合主義の典型で〝一種の空想小説〟だが、面白い
NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第5回「本能寺の変」)は、ベッドで見ていたら途中で眠ってしまったので再放送を見た。
第6回「光秀の天下」を見て、
「面白いドラマだ。脚本の田淵久美子はすごい」
と、物書きとして感心した。
「江」のストーリーは、史実を考えるとありえない可能性が極端に高く、あきれ返っている視聴者もいっぱいいるだろうが、空想小説と思えば楽しめる。そういう意味で感心したのだ。
「江」は、主人公の江姫が見た歴史なのだから、江姫が聞いた話だけでは面白さに欠ける。
そこで、すべての事件の現場に主人公を直接関わらせるというテクニックが必要になる。
大河ドラマでは、明智光秀が反乱を起こし、信長を本能寺に葬った直後に、江姫は野武士につかまって光秀のところへつれてこられ、対面するという設定などまさにそれである。
光秀は、人払いをして一対一で、今でいえば小学生の年令でしかない信長の姪っ子の江姫と向かい合い、その子供から説教されるという発想は常識では考えつかないが、そうしないとドラマが面白くならない。
いってみれば、意表を突く〝レディースコミック的発想・展開〟で、異聞も異聞である。
光秀と江姫が本能寺の変の直後に会った可能性は常識的に判断するとありえないが、歴史的事実としてまったくなかったかというと、そうともいえない。
もしかすると億万分の一、いや兆万分の一の確率で会ったかもしれない。史書に2人が会っていないという記録はいっさいないのだから。
常識的には、光秀は主君を討った直後であり、家康や秀吉らの反撃が予想される超多忙な大事な場面で、小学生相手に自分の腹のうちを話すなどということは99.999%ありえない。
ましてや、信長の小姓だった森蘭丸が「信長は自分の後継者として光秀を考えていると語った」と記した手紙を本能寺から光秀に送っていたという設定や、それをもう少し早く手にしていたら謀反を起こさなかったなどというドラマチックな筋書きは空想ドラマでしか起こりえない。
だが、森蘭丸が光秀に本能寺からそういう手紙を送ったかどうかの記録は残っていないのだから、可能性がゼロというわけではない。その可能性は0.0001%ぐらいはあったかもしれないのだ。
0.0001%以下の可能性をアッチでもコッチでもやっているのが「江~姫たちの戦国~」だ。
家康の「伊賀越え」のときにも、江姫は家康と行動をともにしたというドラマ設定になっている。
家康は、天正12年6月2日に「本能寺の変」が起こったとき、堺にいた。
信長から駿河の所領を与えられた家康は、5月に安土城にいた信長を訪ねて礼をいい、そのあと堺へ足を伸ばして滞在していたのだ。
家康は身の危険を感じ、駿河に戻ろうとしたが、部下は少人数。
そのとき手助けしたのが〝忍者〟服部半蔵だ。
「明智光秀の軍勢がいて正規のルートをたどっては危険。彼らが知らない裏道を自分が案内します」
と進言した。
家康はそれに従い、伊賀を越えて伊勢に出、海路、三河へ戻ったのである。これが史上有名な「伊賀越え」である。
私は三重の出身で、伊賀には親戚もあるのでよくわかるが、あのあたりは山が多いから見つかりにくい。
伊賀は、信長によって女子供まで皆殺しにされており、信長の部下や同盟者には根深い怨念を持っていた。
したがって、家康は伊賀忍者の頭領の血を引く服部半蔵の手引きがなければ、殺されていた可能性が高い。
一方、光秀は、百姓たちの落ち武者狩りにあって竹槍で突かれ、あっけなく命を落とす。
「光秀の三日天下」がこれである。
大河ドラマは、信長の妹とその娘たちの視点で戦国乱世を見、そして乱世を統一しようとした信長、秀吉、家康を描こうとするのだから、無理がいっぱい出てくる。
たとえば日本を動かしている大企業の社長夫人や娘たちは、食事時などに父親から会社の話を聞かされるだろうが、その程度の情報でどれだけ正確かつ詳細に事実関係を知ることができるかと考えると、江姫や彼女の母お市の方の知識のレベルが推測できようというもの。
今日なら、その大企業のことをいっぱい記した本もあるし、社史も読もうと思えば手に入る。しかし当時は、その手の本もなく、女性がその手の本をむさぼり読むなどということもなかったから、彼女たちの知識はきわめて乏しいはずである。
戦国時代でも、好奇心の強い女性は夫や部下たちから根掘り葉掘り聞いたかもしれないが、あまりに詮索すると、当時は政略結婚が多かった関係で、実家の父親あたりから様子を探るように頼まれているのではないかと疑われかねないから、そういうことはやらないのが普通だ。
しかし、「江」は空想ドラマ。
女性層が喜ぶレディースコミックタッチなのだから、記録にある歴史的事実を改ざんすること(たとえば、「本能寺の変はなかった」とするようなこと)さえなければ、すべて許されるというスタンスなのだろう。
そういう認識に立つなら、話は完全な絵空事として、おもいっきり話を面白くおかしくすればいいのだ。
明るくて、おきゃんなお姫様、上野樹里、がんばれ!
(城島明彦)
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