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2011/02/28

「江~姫たちの戦国」(第8回) お市の方は、江と同じファザコンだったから爺さん(柴田勝家)と再婚した

 お市は、娘3人を連れて兄信長の重臣だった柴田勝家の居城がある福井へ嫁ぐ。

 3人の娘は、勝家を新しい父と認めず、勝家もまた、父として接することができずにいたが、江がうさ晴らしに馬に乗って一人で遠出し、行方不明となって夜通し探すことになる。

 朝になって、戻ってきた江を勝家は平手打ちし、「もし江が戻らなかったら、厩番(うまやばん)の男は打ち首になるところだったんだぞ」といってその男に土下座して謝らせる。

 この事件がきっかけとなって、3姉妹と勝家の間の垣根が取り払われ、勝家を「父上」と呼ぶようになる。
 
 ――というのが、2月27日放送の「第8話」のお話。

 大地康雄扮する勝家は、亡き主君の姪っ子という意識から、妻となったお市の方や連れ子の3姉妹に敬語を使うなどして丁重に接していたが、「江、土下座事件」後、態度を一変させ、実の娘に対するように厳(いかめ)しく接するようになるという筋書きは、いかにも唐突で、とってつけたような感じで、違和感があった。

 それにしても、お市の方は、どうしてふたまわりも年の離れた爺さんの勝家と再婚したのか。
 
 お市は、秀吉が信長の家臣になったときから自分に憬れていることを知っていた。

 お市の方は、秀吉からみると、自分に目をかけて百姓から取り立ててくれた主君信長がかわいがっていた妹で、「当代一の美女」といわれた雲の上の存在のマドンナであった。

 秀吉が信長に使えたのは17歳ぐらいの頃で、そのときお市の方は7歳。秀吉はお市より10歳上なのである。

 秀吉は、本能寺の変で信長を殺した明智光秀を討つという功績をあげたが、お市は好きにはなれなかった。

 猿のような下品で貧相な顔。
 百姓あがりの粗野で品のない言動。
 あくが強い野心家。
 〝人たらし〟といわれる巧妙でわざとらしい人心掌握術。
 愛妻家ではあるが、無類の女好き。

 そういう秀吉をお市は生理的に受け付けなかったのではないか。

 江姫が生まれたのは、父浅井長政が死んだ年であり、彼女は父の顔を知らずに育ったが、お市もまた3~4歳で父織田信秀を亡くしているから、父の記憶はないに等しい。

 お市は信秀が40歳近い頃の子供である。
 信秀は短命で40歳を越えたあたりで死んでいるが、精力絶倫で、男女合わせて20人以上の子供をつくっている。

 そんなに兄弟姉妹がいるのだから、お市と3人娘が望めば受け入れてくれる兄弟姉妹があったはず。

 にもかかわらず、爺さんで、しかも兄信長の家臣だった勝家と再婚し、それまで一度もいったことのない福井間で行ったのは、なぜなのか!?

 お市も、江と同じく、父の顔を知らず、ファザコンだった可能性が強い。だからこそ、父親のような年齢の柴田勝家との再婚の道を選んだのだ、というのが私の説である。

 大河ドラマでは、江がおじの信長に父親の姿をだぶらせる設定になっていたが、そういう解釈は正しいと思う。

 お市が勝家に走った理由はほかにもある。

 信長が殺された後、柴田勝家と秀吉は、信長の後継者選びで対立したが、信長の三男信孝を推挙した勝家の案は敗れ、信長の孫の三法師(さんぼうし)を立てた秀吉の案が通った。
 これにより、秀吉は幼い後継者の後見人として政治の実権を握ることになる。

 そういうことがあった後で柴田勝家と再婚するということは、「お市は秀吉を受け入れない」「夫勝家ともども、どこかで秀吉と戦火を交えることになる」と宣言したのも同じである。

 「いくら乱世、下克上の世とはいえ、百姓上がりの成り上がり者に天下を思いのままにはさせたくない」
 という気持ちがお市にはあったのではないか。
 
 実際、勝家と秀吉は戦争(賤(しず)ヶ岳の合戦)をし、秀吉が勝って、勝家とお市は自害することになる。これが描かれるのは、大河ドラマでは次回とその次あたりか。

 秀吉はお市を救いたかったとされているが、お市が拒否。夫勝家とともに自害して果てるのである。お市は享年37(ぐらい)。
 
 秀吉は、そこまで嫌われていたのである。

 そのとき江ら3姉妹は助け出され、以後の数奇な人生が始まるのだが、江は10歳か11歳である。宮沢りえが演じている茶々は15~16歳で、水川あさみ演じる次女の初は13~14歳。
 
 ドラマで3姉妹を演じている女優たちとの年齢ギャップが、やはり気になる。

(城島明彦)

2011/02/27

久しぶりにいいドラマを見た「遺恨あり~明治十三年 最後の仇討~」(テレ朝)

 2月26日(土)夜9時から放送された「遺恨あり 明治十三年 最後の仇討」(テレ朝)は、冒頭から最後まで内容が濃く、見ごたえがあった。

 「史実を克明に調べ上げて小説にする達人」だった作家吉村昭の原作(『敵対』収載の「最後の仇討」)がしっかりしていることもあるが、演出も巧みで、よく描けたドラマだった。
 見なかった人のためにいうと、もうじき明治という頃に屋敷で就寝中に暗殺された父母の仇を、時代が変わって「仇討禁止令」が出されたにもかかわらず実行して本懐を遂げるという実話に基づいた話である。

 主人公の秋月藩(九州の小藩)の武士臼井六郎(うすいろくろう)には藤原竜也が扮し、熱演していた。
 六郎の気持ちを知った上で剣道を教える山岡鉄太郎(鉄舟)に北大路欣也。
 幼い頃、臼井家の下女として暗殺現場を目撃したことから、仇討をめざす六郎のために他人の妾になってまで六郎に資金援助と情報収集で援助するという、今の日本には絶対にいない女を松下奈緒が演じた。

 どの役者もなかなか頑張っていたが、六郎を裁く判事役でナレーションもやっていた吉岡秀隆だけはミスキャスト。例のへなへなとした声と表情、くさい演技は、しらけさせた。別の俳優にやらせるべきだった。
 吉岡の演じた判事は、六郎の父を暗殺した元秋月藩士の同僚。武士あがりのくせに、軟弱な雰囲気を漂わせていては話にならない。

 くだらない報道番組より訴える力が何百倍も強いドラマになっていた。
 しかも、テレビ局の考えを押しつけるのではなく、見た人それぞれが考えるような内容だった。

 日本人とは何か。
 日本人の鏡とされてきた武士道とは何か。
 男の本懐とは何か。
 価値観の変化とは何か。
 欧米流の正義とは何か。それは日本に合っているのか?
 自分の身を犠牲にしてまで尽くす女の美学は、なぜその後失われたのか?
 
(城島明彦)

2011/02/26

〝元モー娘。の人妻〟藤本美貴の焼肉店と〝幻の陶器〟眞葛焼(まくずやき)

(第1部)
 横浜駅の海側にある〝幻の横浜の陶器〟「眞葛焼」(まくずやき)の美術館へ行き、山本博士(ひろし)館長と1時間少々話をした。
 「宮川香山(みやがわこうざん)眞葛ミュージアム」というのが正式名である。
 横浜に陶器があったのかとビックリする人が多いかもしれない。

 眞葛焼は京都にもある。というより京都が発祥の地である。
 眞葛焼は、宮川小兵衛が江戸時代に京都で始めた焼き物だ。
 以後、長男治兵衛が京都で、次男長兵衛が横浜で、それぞれ窯を開き、子孫に受け継がれた。

 長兵衛が陶商らに勧められて横浜に移り住み、「香山」と称して眞葛焼をつくリ始めるのは1871年(明治4年)。29歳のときだ。

 初代香山は、普通の花瓶や壷も作ったが、目を引くのは、壷の上にまるで生きているかのような花、鳥、昆虫、魚などの動物や草花をくっつけた作品群である。

 初代香山は、1889年(明治22年)のパリ万博で金賞を受賞し、エミール・ガレにも少なからぬ影響を与えたはずである。
 それ以前から香山は〝賞男〟であった。
  1876年 フィラデルフィア万博 銅牌(どうはい)
  1878年 パリ万博 金牌(きんぱい)
  1879年 シドニー万博 特絶一等賞、一等賞、小銀牌
  1880年 メルボルン万博 一等賞状、三等褒状
  1883年 アムステルダム万博 銀牌
  1888年 バルセロナ万博 銀牌
 と来て上記の1889年の「パリ万博金賞」と続くのだ。
 その4年後のシカゴ万博でも金牌を受賞している。
 海外での評価が普通ではないことがわかるだろう。
 
 眞葛焼は宮川の子孫に受け継がれたが、1945年(昭和20年)の横浜大空襲で三代目香山とその家族、弟子たちはすべて死亡。窯もすべて破壊しつくされ、眞葛焼は消滅したのである。

 (第2部)
 美術館からの帰り道、家からそう遠くない車通りのビルに、ド派手で巨大な焼肉屋の看板が飾られていた。若い女性の顔写真まで飾ってある。
  「藤本美貴の焼肉店」
 店の前には、若い男もが何人もたむろしている。

 (藤本美貴というと、あのミキティか?)
 おじさんは知っているのだ。
 最初は「ミキティ」と聞いて、アイススケートの安藤美姫かと思ったが、そうじゃなかった。
 元モーニング娘。

 (吉本興業のお笑い芸人「品川庄司」の庄司の方と結婚した子じゃないのか。そんな子が、なぜ焼肉屋を?)

 家に戻って早速パソコンで検索してみると、焼肉店「美貴亭」(みきてい)2月26日オープンと書いてあった。

 (なあるほど。それでファンの男どもか、事務所が金を払って集めたサクラかはわからないが、店の前に何十人もの人だかりというわけだ。それにしても、愛称の「ミキティ」と「美貴亭」をかけたところなど、オヤジギャグっぽくナイジェリア?)

 美貴亭は新規にできた店じゃない。以前あった焼肉屋を買収して内装を変えただけ。
 以前の焼肉屋は、私も1回だけいったことがあるが、味は悪くなかったが、値段が高く、二度と足を運ぶ気にならなかった。

 もっと安くしていたら、そのあたりに焼肉店はないから繁盛したはずである。
 そういうことに気づかなかった経営者も経営者だ。
 その後も気になって、店のあるビルの前を通るときに見上げると、いつも人影がなかった。
 (この店、よくつぶれないな)
 と思っていたら、案の定、売却していた、というより、商売が成り立たなくなって出ていった。

 「品川庄司」の品川のお母さん(マダム路子という名で、国際魅力学会というよくはわからないことをやっている、毒気の強いおばさん)とは、パーティーなどで何度か顔を合わせたことがあり、言葉も一度ならず交わしているので、相方の庄司の女房のミキティのPRを少ししてあげよう。

 藤本美貴のホームページより引用。(絵文字省略)

 『ヤバイくらいの焼肉好きなのはもう
 知ってくれてますか
 この度、焼肉が好き過ぎる事から
 「焼肉 美貴亭」1号店を
 横浜青葉台にてオープンさせていただく事に
 なりました
 こだわりの国産のホルモンをリーズナブルに  』

 1号店ということは? 次々出すということか?

 リーゾナブルな値段と客が思うようなら繁盛するかもしれない。

 親切に、というか、余計なおせっかいを焼くと(焼肉だから焼くのだ)、その通りの飲食店は「大成功か、撤退か」という両極端の場所なのよ。中途半端な入りのお店はないの。(となぜか、オカマ口調に)

 もっと駅に近いところにあった中華料理屋は、最近つぶれた。昭和57年だったかに開業したと張り紙がしてあったわ。
 その店は赤いタイルを使った趣味の悪い装飾に変えたのね。でもって、なかが見づらくなり、背伸びするようにして覗いてみると、あんまり人相のよくない板前が何人かいるだけで、なんとも入りづらかった。
 この店も1回入って、ラーメンと餃子で味見して、それでおしまい。

 ところが、最近オープンした「お好み焼き屋」は、開業したその日からわんさかお客が入っているじゃない。
 私はまだ入ったことはないけど、値段がそんなに高くないから繁盛しているんじゃないの。
 そこは外から中がよく見えるようにしてあるの。
 
 家族連れやらアベック(どうも古くて行けないわね。カップル、これも古いかしら)が多いみたい。
 と思ったら、
 
 (あら、いやだ! 昨晩なんか、おっさんが一人で通りに面した席で、お好み焼きを食べていたわ)

 この、「あら、いやだ」のところは、昔は「荒井八代(あらいやよ)」なんてやったものよ、こんなことをいうと、トシがばれちゃうわね。
 渋谷109が東急だから、トシは104かしらね。

 いけない、あたしったら、つい脱線しちまって。
 
 美貴亭の話よね。

 どんな紋次郎かと、そのうち、あたしも一人でご試食に参りますわよ。

 そのときは、味や値段はもとより、従業員のマナー、サービスに至るまで厳し~くチェックしまくって、ご報告させていただくざます。

 それでは、みなさま、さよう奈良の大仏様。

(城島明彦)

2011/02/21

赤木圭一郎の命日に聴くCD「霧笛が俺を呼んでいる」

 2011年2月21日は、たった21歳でこの世を去った〝和製ジェームス・ディーン〟赤木圭一郎の50回目の命日。

  霧の波止場に 帰ってきたが 
  待っていたのは悲しい噂
  波がさらった 港の夢を
  むせび泣くよに 岬のはずれ
  霧笛が俺を 呼んでいる

 彼のCDを聴いていると、50年という歳月が嘘のように思えてくる。
 
 赤木圭一郎のことを知らない若い世代は、you tubeの「霧笛が俺を呼んでいる」を聴いてごらん。というより、彼の顔や姿を見てごらん。
 「これが20歳やそこらの若者なのか」と、その存在感のすごさに圧倒されるはずだ。

 石原裕次郎は別格として、赤木圭一郎を超える存在感のある若い俳優は、彼の死後、一人も現れていない。

  錆びた錨に からんで咲いた
  浜の夕顔 いとしい笑顔
  きっと生きてる 何処(どこ)かの街で
  さがしあぐねて 渚に立てば
  霧笛が俺を 呼んでいる

 作詞の水木かおるは叙情性のある詞が巧みで、この歌がヒットした昭和35年には、その年のビッグヒット曲となる「アカシアの雨がやむとき」の作詞も手がけている。渡哲也の「くちなしの花」も彼の作詞だ。
 
 昭和35年は西暦1960年。安保の年で、安保闘争に敗れた学生たちの荒涼とした心に、西田佐知子が歌う「アカシアの雨」のけだるいような歌声がしみわたり、大ヒットしたといわれている。
 当時少年だった私は、同名の映画を四日市日活で見た。観客は数人しかいなかった。主演の高橋英樹は今と違って細く、すらっとしていた。

 東京で店舗数トップの立ち食いそば屋「富士そば」の丹道夫社長から直接聞いた話だが、地方から上京して間もない頃、西田佐知子の家のすぐそばに住んでいて、いつも「アカシアの雨がやむとき」の歌声が聞こえていたそうである。

 赤木圭一郎は港がよく似合い、映画「霧笛が俺を呼んでいる」のマドロス姿はカッコよかった。
 「霧笛が俺を呼んでいる」の相手役の女優は芦川いづみだったが、赤木圭一郎の場合は笹森礼子が定番のような感じだった。

 石原裕次郎―北原三枝・芦川いずみ、小林旭―浅丘ルリ子、赤木圭一郎―笹森礼子
 この後、浜田光夫―吉永小百合のコンビが青春ものを多くこなす。
 ポスト吉永の期待をになった和泉雅子は、山内賢とのデュエット「ふたりの銀座」でヒットを飛ばしたが、北極探検をするといって太って登場してからかなり経つ。彼女は、いまどうしているのだろうか。

  船の灯りに 背中を向けて
  沖をみつめる 淋しい鴎
  海で育った 船乗りならば
  海へ帰れと せかせるように
  霧笛が俺を 呼んでいる

(城島明彦)

「江~姫たちの戦国~」(第7回「母の再婚」)は、比較的定説どおりだった

 2月最後の週の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第7回「母の再婚」)は、「信長の死後の跡目争いとお市の再婚話」が主要テーマだったが、今回は定説を軸にしたオーソドックスな話が展開した。

 本能寺の変で信長の居城だった安土城は炎上したので、江姫らは信長の出発点となった尾張の清洲城に身を寄せる。

 その清洲城に信長の重臣が集まって後継者を決める会議が行なわれたのは、天正10年(1582)6月27日のこと。
 招集者は、筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)。60歳。
 会議のメンバーは、勝家、秀吉、丹羽長秀(にわながひで)、池田恒興(いけだつねおき)の4人。
 滝川一益(たきがわかずます)は参加資格があったが、合戦に出ていて加われなかった。

 信長や明智光秀らの所領をどう配分するかということも大事な議題だったが、最重要課題は信長の後継者選び。

 本能寺の変は6月2日で、すでに3週間以上も過ぎているから、その間に当然あれこれ腹の探り合いがあったはずだが、このあたりのことは正式な記録としては残されていない。

 跡目は〝嫡子〟(ちゃくし)である信長の長男信忠(のぶただ)が継ぐのが普通だが、彼は本能寺で父親と一緒に死んでいる。

 そこで、次男信雄(のぶかつ)と3男信孝(のぶたか)のどちらにするかという話し合いになるかと思えた。勝家は信孝を推すが、秀吉が首を振らない。
 秀吉は、「信長の直系」を大義名分として、死んだ長男の息子を推薦するという奇策に出たのだ。
 つまり、「三法師」(さんぼうし)と呼ばれていた信長の孫で、当時3歳の幼児を擁立するのである。

 この案を丹羽長秀と池田恒興が指示したことで、勝家案は退けられる。秀吉が事前に根回ししていたという説もある。

 その後、新しい幼君への拝謁ということになるが、三法師を抱いた秀吉に頭を下げているような感じになる。

 これらの歴史的な事実に沿って、大河ドラマは進んだ。

 ――というわけで、今回は「ここまでやるか」とビックリするような異聞は少ない。

 それでも、会議の前に江姫が秀吉の母や正室と清州城で会い、三法師と初めて会って親しくなるという〝できすぎた設定〟にしてあった。そうでもしないと主人公江姫の出番がない。

 好奇心旺盛な江姫という設定なので、今回も彼女は、後継者を決める会議を盗み聞きしに行くといいだすのだが、姉たちに止められ、実現しないという話になっている。

 物書きの視点や演出上の効果という観点から見ると、江姫を中心にしてドラマを展開させなければならないし、すべての歴史的大事件には江姫をより深く関わらせたいから、「盗み聞き」という形にして直接関わっているような筋運びにしたいが、そういうことばかりやっていると視聴者から「でたらめなドラマだ」と批判されるとの思いもあってか、今回は「盗み聞き」をやめて、かなり史実を重視した内容にしたのではないかと、私は思った。

 絶世の美女といわれた30代後半のお市が、親子ほども年令の開きがある柴田勝家と再婚するという話に3姉妹がどう反応するかということも、今回のドラマの主要テーマだった。

 現在の人間から見ると、兄信長につかえていた老武将と再婚するなどということは奇異に映るが、当時はこういうことが珍しくもなかったのだ。

 しかし、一人の夫だけを生涯愛し続けた女性もいっぱいいた。時代は江戸末期に飛ぶが、幕末の志士髙杉晋作の妻、雅子もそんな一人だった。
 彼女は、夫の死後も貞操を守り、大正11年に78歳で死ぬまで独り身を貫いたのである。

 髙杉新作の遺言が1990年代に発見されたが、そこには、
 「侍はいつ死ぬかもしれない。そなたも武士の妻ならば、夫が死んだら家を守り、操を立ててほしい」
 と書かれていた。
 そして、こんなことも。
 「我らは死しても、そもじ(そなたの意味)の事をわすれ申さず候」

 秀吉はお市の方という高嶺(たかね)の花に生涯憬れ続けており、のちに彼女の長女の茶々を側室にする。
 お母さんへの愛が無理だったから、その面影を強く宿した娘をもらうというのは、かなり屈折している。

 秀吉は、それくらいお市の方に執着していたから、そのお市が爺さんの政敵と再婚したことは相当ショックだったはずだ。

 お市は勝家と幸せに暮らしたと言い伝えられているが、勝家は秀吉と戦って敗れ、お市ともども自害して果てるという展開に次回以後のドラマはなっていく。
 
 今回のドラマは、大きくハメをはずしていないから、そんなに批判を浴びることはないだろうが、そうなったらそうなったで、もっと奇想天外な筋運びにしてもいいのではないか思ってしまう。
 外野席の人間は勝手なものだ。

(城島明彦)

2011/02/14

「江~姫たちの戦国~」は「異聞 江姫」とすべき。ご都合主義の典型で〝一種の空想小説〟だが、面白い

 NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第5回「本能寺の変」)は、ベッドで見ていたら途中で眠ってしまったので再放送を見た。

 第6回「光秀の天下」を見て、
 「面白いドラマだ。脚本の田淵久美子はすごい」
 と、物書きとして感心した。

 「江」のストーリーは、史実を考えるとありえない可能性が極端に高く、あきれ返っている視聴者もいっぱいいるだろうが、空想小説と思えば楽しめる。そういう意味で感心したのだ。

 「江」は、主人公の江姫が見た歴史なのだから、江姫が聞いた話だけでは面白さに欠ける。
 そこで、すべての事件の現場に主人公を直接関わらせるというテクニックが必要になる。

 大河ドラマでは、明智光秀が反乱を起こし、信長を本能寺に葬った直後に、江姫は野武士につかまって光秀のところへつれてこられ、対面するという設定などまさにそれである。

 光秀は、人払いをして一対一で、今でいえば小学生の年令でしかない信長の姪っ子の江姫と向かい合い、その子供から説教されるという発想は常識では考えつかないが、そうしないとドラマが面白くならない。

 いってみれば、意表を突く〝レディースコミック的発想・展開〟で、異聞も異聞である。

 光秀と江姫が本能寺の変の直後に会った可能性は常識的に判断するとありえないが、歴史的事実としてまったくなかったかというと、そうともいえない。
 もしかすると億万分の一、いや兆万分の一の確率で会ったかもしれない。史書に2人が会っていないという記録はいっさいないのだから。

 常識的には、光秀は主君を討った直後であり、家康や秀吉らの反撃が予想される超多忙な大事な場面で、小学生相手に自分の腹のうちを話すなどということは99.999%ありえない。

 ましてや、信長の小姓だった森蘭丸が「信長は自分の後継者として光秀を考えていると語った」と記した手紙を本能寺から光秀に送っていたという設定や、それをもう少し早く手にしていたら謀反を起こさなかったなどというドラマチックな筋書きは空想ドラマでしか起こりえない。

 だが、森蘭丸が光秀に本能寺からそういう手紙を送ったかどうかの記録は残っていないのだから、可能性がゼロというわけではない。その可能性は0.0001%ぐらいはあったかもしれないのだ。

 0.0001%以下の可能性をアッチでもコッチでもやっているのが「江~姫たちの戦国~」だ。

 家康の「伊賀越え」のときにも、江姫は家康と行動をともにしたというドラマ設定になっている。

 家康は、天正12年6月2日に「本能寺の変」が起こったとき、堺にいた。
 信長から駿河の所領を与えられた家康は、5月に安土城にいた信長を訪ねて礼をいい、そのあと堺へ足を伸ばして滞在していたのだ。

 家康は身の危険を感じ、駿河に戻ろうとしたが、部下は少人数。
 そのとき手助けしたのが〝忍者〟服部半蔵だ。
 「明智光秀の軍勢がいて正規のルートをたどっては危険。彼らが知らない裏道を自分が案内します」
 と進言した。
 家康はそれに従い、伊賀を越えて伊勢に出、海路、三河へ戻ったのである。これが史上有名な「伊賀越え」である。

 私は三重の出身で、伊賀には親戚もあるのでよくわかるが、あのあたりは山が多いから見つかりにくい。
 伊賀は、信長によって女子供まで皆殺しにされており、信長の部下や同盟者には根深い怨念を持っていた。
 したがって、家康は伊賀忍者の頭領の血を引く服部半蔵の手引きがなければ、殺されていた可能性が高い。

 一方、光秀は、百姓たちの落ち武者狩りにあって竹槍で突かれ、あっけなく命を落とす。
 「光秀の三日天下」がこれである。

 大河ドラマは、信長の妹とその娘たちの視点で戦国乱世を見、そして乱世を統一しようとした信長、秀吉、家康を描こうとするのだから、無理がいっぱい出てくる。

 たとえば日本を動かしている大企業の社長夫人や娘たちは、食事時などに父親から会社の話を聞かされるだろうが、その程度の情報でどれだけ正確かつ詳細に事実関係を知ることができるかと考えると、江姫や彼女の母お市の方の知識のレベルが推測できようというもの。

 今日なら、その大企業のことをいっぱい記した本もあるし、社史も読もうと思えば手に入る。しかし当時は、その手の本もなく、女性がその手の本をむさぼり読むなどということもなかったから、彼女たちの知識はきわめて乏しいはずである。

 戦国時代でも、好奇心の強い女性は夫や部下たちから根掘り葉掘り聞いたかもしれないが、あまりに詮索すると、当時は政略結婚が多かった関係で、実家の父親あたりから様子を探るように頼まれているのではないかと疑われかねないから、そういうことはやらないのが普通だ。
 
 しかし、「江」は空想ドラマ。
 女性層が喜ぶレディースコミックタッチなのだから、記録にある歴史的事実を改ざんすること(たとえば、「本能寺の変はなかった」とするようなこと)さえなければ、すべて許されるというスタンスなのだろう。

 そういう認識に立つなら、話は完全な絵空事として、おもいっきり話を面白くおかしくすればいいのだ。

 明るくて、おきゃんなお姫様、上野樹里、がんばれ!

 (城島明彦) 

2011/02/12

八百長、八百長とジタバタするでない! 大相撲の歴史は八百長の歴史だ

 来たかチョーさん、待ってたホイ。

 チョーさん、長さんといえば、ミスター・ジャイアンツ「長嶋茂雄」か「いかりや長介」のことだと思っていたら、最近は「八百長」のことをいうようになってしまった。

 江戸時代の話。八百屋長兵衛という男が、相撲の年寄りとよく碁を打ち、勝てる力があるのに、いつもわざと1勝1敗になるように細工をしたところから、勝負事でわざと負けることを「八百長」というようになったといわれている。

 ついでにいうと、「のぞきをするスケベ男」を「出歯亀」というが、この呼び方は東京の大久保に住んでいた植木職人の池田亀太郎という女湯のぞきの常習犯が、明治41年に起こした殺人事件が関係している。
 この亀太郎が出っ歯だったことから、のぞきをすることを「出歯亀」というようになったのである。

 もひとつ、おまけ。
 スケベは、豊臣秀吉に忠誠を尽くした宇喜多直家の家臣の花房助兵衛という男から出たそうである。
 私が小学5年生の頃、読み物系の小説誌が大好きだった親戚のおじさんから教えてもらった話である。
 この男は実在の戦国武将で、不正嫌いのくそまじめな男らしいが、本当はスケベだったのかもしれない。

 大相撲では7勝7敗同士が千秋楽で当ったらガチンコ勝負になるが、7勝7敗の力士がすでに勝ち越している相手と千秋楽に当ったら負けてやる。そのかわり、負けてやったほうが窮地に陥ったらお返ししてもらう。ギブ&テイク。

 そういうことは、昔からいわれてきたから小学生でも知っていた。
 しかし、相撲協会は知っていながら知らぬ顔。
 ちょっとマズイというときは、「無気力相撲」などというわけのわからない言葉でお茶を濁したり、「立ち合いは両手をつけと厳しく指導している」などという別の話にすり変えたりしてきた。

 立ち合いでいえば、双葉山の相撲や栃若時代、柏鵬時代の取り組みがyou tubeにアップされているので、興味のある人は自分の目で確かめて見るとよくわかるが、当時の相撲は両手をつかずに中腰で立っている。

 八百長問題については、週刊誌もしつこいくらいに取り上げてきたが、今回の携帯電話のメールのやりとりのような「動かぬ物的証拠」はなかったから、ノレンに腕押し、ぬかにクギ、豆腐の角に頭をぶつけた程度の効果しかなく、相撲協会の「知らぬ、存ぜぬ」に負けてしまうのが常だった。

 決まり手はいつも「押し切り」で相撲協会の勝ち。
 この決まり手は、押し出しと寄り切りを足して2で割った裏技である。

 何年も前に、板井という元力士が「俺が中心になって八百長を仕組んだ」と週刊誌でゲロったことがあった。
 だが、「八百長は当然ある」と思っている相撲好きな人間も、そんな奴の話などに耳を傾けなかった。
 板井という力士は、現役時代、手に包帯をぐるぐる巻きにしてプロレスまがいの張り手を相手の顔面に炸裂させることを得意とした、どうしようもない力士だったからだ。

 貴乃花とか魁皇のような、きまじめな力士が「俺に八百長を持ちかけた奴がいた」などと語れば信用されるだろうが、まず彼らはそんなことはいわない。
 もしいったら、大相撲そのものが消滅してしまうから、知っていても口が裂けても口にすることはないだろう。

 先日も、あるジャーナリストが八百長記事を週刊誌に書いて相撲協会から訴えられ、裁判になり敗訴しているが、この一件など、いっぱい案件をかかえて超多忙な裁判官が、きちんと情報収集せずに誤った判決を下した結果、そうなった。

 村木裁判での検察官の改ざん事件を例に出すまでもなく、法曹関係者のレベルの低下はどうしようもない。
 司法試験のためだけに勉強し、合格のノウハウを取得して裁判官になった連中の何人が、聖職にふさわしい「人を裁けるような人格と見識」を持ち合わせているというのか。この話は、私自身が闘った過去の著作権裁判を例にして別の機会に書くので、ここでは触れない。

 大相撲の取り組みで〝八百長もどき〟(証拠がないので、こういう言い方になる)と見える相撲は、掃いて捨てるほどあった。
 千秋楽に勝ち越しの決まる力士でいうと、昔の方がもっと露骨だった。

 勝ち越しに関係ない取り組みでも、あっさりと負けてしまい、「あれ、へんだな」と感じる相撲を私は昭和30年代の小学生時代からいっぱい見てきた。
 小学生がそう感じるのだから、大人も当然そう思っているはずであり、力士連中はもっとストレートに感じているはずだった。

 それなのに、相撲協会の上層部の人間が八百長相撲を根だやしにできずにきたのは、彼らが現役時代に自分自身が八百長相撲の経験があったか、自分自身は経験がなくても、同部屋の力士や顔見知りの力士が関わっていることを知っていて、半ば公認していたからではないのか。

 事前に八百長の打ち合わせをしていなくても、たとえばカド番の大関を相手にしたら「つい手心を加えてしまった」というケースだってあるだろう。
 あうんの呼吸で立つ力士たちは、相手の表情から胸のうちを読むことなど朝飯前である。
 魚心あれば水心。以心伝心。

 そういう八百長が一番多いのではないかと私は思っている。
 
 いってみれば、大相撲の歴史は八百長の歴史である。

 「十両から陥落したら生活に困る、助けてやってほしい」
 といわれたら、同情する力士も出るだろう。
 「子供の教育に金がかかる。幕内に残らせてほしい。今度借りは返すから」
 と巡業先の飲み屋でいわれたら同情するだろう。

 八百長は、人と人のそういう情の部分にも関わっているのだから、根絶するのは難しいのだ。

(城島明彦)

2011/02/11

雪の降る日の「歌詞しりとり遊び」

 今日は雪だ。雪やこんこ、あられやこんこ、オイラは風邪で咳こんこん。

 そこで、今日は「歌詞のしりとり遊び」だい。

  ①雪は降る あなたは来ない  (アダモ「雪は降る」/安井かずみ訳詞)
  ②来ないあなたは 憎い人  (園まり「夢は夜開く」/中村泰士・宮田清吾作詞)
  ③憎い恋しい めぐりめぐって  (八代亜紀「雨の慕情」/阿久悠作詞)
  ④めぐりめぐっても また君に会いたい  (Lil'B(リルビー)「つないだ手」/AILA作詞)
  ⑤会いたい気持ちが ままならぬ  (鶴岡雅義と東京ロマンチカ「小樽のひとよ」/池田充男作詞)
  ⑥ままになるなら 今一度  (井上ひろし「雨に咲く花」/高橋掬太郎作詞)
  ⑦今一度 もう一度 ただ一度 君に会いたい  (三船浩「夜霧の滑走路」/横井弘作詞)
  ⑧君に会いたい いま会いたい  (Kinki Kids「Harmony of Decemmber」/Tatsuro MASHIKO作詞)
  ⑨会いたいなァ あの人に  (島倉千代子「会いたいなァ あの人に」/石本美由起作詞)
  ⑩あの人に会える だからここに来る  (小田和正「あなたに会える」/小田和正作詞)
 
(城島明彦)

2011/02/03

没後50年でも、赤木圭一郎は不滅だぜ

 2月の声を聞くと、いつも赤木圭一郎のことを思い出す。
 彼の命日は2月21日。享年21。
 21日という数字がだぶるのは単なる偶然か、それとも何かを暗示しているのか。
 足すと42(シニ)になる。

 石原裕次郎、小林旭に次ぐ「第三の男」といわれたビッグスター赤木圭一郎は、1961年2月17日、日活の撮影所内で昼休みにゴーカートに試乗していて、運転を誤りスタジオの鉄扉に激突、重傷を負い、1週間後に息を引き取った。
 マスコミは、彼を〝日本のジェームス・ディーン〟と呼んだ。

 その赤木圭一郎が死んで今年で50年になる。生きていたら71歳だ。

 1960年代の日本は貧しかったが、誰もが未来に希望をいだき、活気に満ちあふれていた。
 赤木圭一郎は、そんな時代を象徴する男だった。

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 縮れっ毛に太い眉。
 大きな目。
 厚めの唇。
 都会的で、日本人離れしたバタ臭い風貌。
 がっしりとした広い肩幅。
 低い声。
 東京生まれの神奈川育ち。
 医者の息子。
 成城大に進んだシティボーイ。
 愛称トニー。
 初主演作の監督は鈴木清順。
 拳銃が似合い、がんさばきがバツグンにうまかった。
 「霧笛が俺を呼んでいる」の主題歌を歌ってヒットした。
 吉永小百合は、赤木圭一郎の映画でデビューした。
 「~だぜ」というセリフを吐いても、不自然でなく、キザに聞こえなかった。
 1959年にデビューして61年2月に死ぬまで、30本近い作品に出た。
 「赤木圭一郎」という芸名の名付け親である井上梅次監督が、ハリウッドの2枚目スター、トニー・カーチスに感じが似ているからといって、「トニー」というニックネームをつけたようだが、彼はトニー・カーチスのような、にやけた顔の二枚目ではなかった。
 笑顔は屈託がなかったが、にやけてはいなかった。

 「赤木圭一郎、重体!」のニュースを私はラジオで知った。死亡したときもそうだった。
 「電光石火」という言葉は彼の映画で覚えた。
 「拳銃無宿 電光石火の男」の主人公は、私が少年時代を送った三重県四日市市の出身という設定で、映画の舞台も四日市だった。
 その頃の四日市は、「石油コンビナートがある新興都市」として全国的に注目を浴びており、同じ61年公開の松竹映画「甘い夜の果て」(監督吉田喜重)でも舞台となった。

 私は数年前に『船と船乗りの物語』という本を書いたが、執筆中、何度も赤木圭一郎のことが頭をよぎった。

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 赤木圭一郎が主演した映画はほとんど見た。なかには何回も繰り返して見たものもあるが、「拳銃無頼帳シリーズ」は、内容がよく似ているのに加えて出演者も同じ顔ぶれなので、どれがどれか混乱してしまう。
 
 DVDでも見たが、見るたびに思うのは、赤木圭一郎は「存在感」が違うなということだ。
 出演している映画はB級の娯楽作品で、しかも1か月前後の撮影日数でつくられた映画ばかりだが、20歳やそこらの若者とは思えない存在感があった。
 
 見ていない映画を見たいと思って渋谷駅前のTSUTAYAへいったが、赤木圭一郎のDVDは1本も置いてなかった。
 渋谷ツタヤは、赤木圭一郎の映画を置かずに二流三流の俳優もどきの映画のDVDを並べて悦に入る文化レベルなのだろう。

 ブロマイドで知られる浅草マルベル堂は、没後50年を狙ったのかもしれないが、赤木圭一郎の今年のカレンダーを復活発売している。

 死んで半世紀になるのにカレンダーが作られるスターは、石原裕次郎と美空ひばり以外では赤木圭一郎だけではないのか。

(城島明彦)

2011/02/02

受験シーズンを狙って、「一刻も早くすべりたい」という広告を打つ企業のセンスを疑う

 2月1日夜のこと、用があって地下鉄(東京メトロ)有楽町線に乗ったら、おかしな車内広告(中吊り)が目に入った。

 2枚並んだ左側の広告には、タレントのデーブ・スペクターの顔と「一刻も早くすべりたい」という大きな文字のキャッチフレーズがデカデカとレイアウトされていた。

 どういう意味だろうと思って、となりの右側の広告を見ると、ごちゃごちゃしたレイアウトの下に「としまえん」とあった。

 そこで初めて、「としまえんのアイススケートリンク」のことをいっている広告であることに気づいた。
 昔は「豊島園」といっていたが、いまは平仮名で表記するらしい。そうも思った。

 豊島園の夏のプール、冬のスケートリンクは昔からよく知られており、私もかつて行ったことがある。ここの回転木馬(メリーゴーランド)は100年以上前にドイツでつくられたものとして有名だ。

 だが、そのとしまえんの車内広告は、二重の意味でいいイメージを受けなかった。というより、悪趣味であり、人の気分を害するブラック広告であると思った。そう思った理由は、こうだ。

 その2日前(1月30日)、同じ都内にある別の遊園地(東京ドームアトラクションズ)のジェットコースターで死亡事故があったばかりで、いかにもタイミングが悪い。としまえんにも子供向けのジェットコースターがあるのだ。
 ジェットコースターはレールの上を走行する(すべる)のである。

 事故があった東京ドームの遊園地は旧名「後楽園遊園地」。豊島園と並んで有名で、私も何度か乗ったことがある。子供が幼児の頃、連れて行ったが、身長制限があって乗れなかったことがある。

 東京ドームのジェットコースターには「スピニングコースター舞姫」というシャレた名前がついているが、今回のように乗客が座席からスピンアウトし、空を舞って落下してしまうと、「舞姫」という優雅な言葉が一転して恐怖のイメージにつながる。ネーミングを変えないとダメだろう。

 としまえんの車内広告から受けたもう一つの悪印象は、受験シーズンであることを知っていて「すべる」という言葉を意図的に使ったと思えるやり方についてである。

 合格を祈願して神社に絵馬を奉納したり、「きっと勝つ」につながるからと「キットカット」を買って食べる受験生たちの「わらにもすがりたい」と思う純粋な気持ちを逆なでする広告コピーとしか思えないのだ。

 としまえんは、デーブ・スペクターがダジャレ大好き人間であるから「すべる」などという言葉はシャレだといいたいのかもしれないが、そんなふうに受け取れる余裕のある受験生などめったにいない。

 昔も今も、受験生や家族は、試験当日には特に縁起をかつぎ、「すべる」とか「落ちる」といった言葉は使わないようにしてきた。

 心ある企業なら、それくらいの配慮があってしかるべきではないのか。
 ましてや、としまえんは、子供に夢を売る商売であり、思い出づくりに貢献する企業である。
 
 広告を見た日の朝、私は「受験生の皆さんは、がんばってくださいね」といっているテレビ番組を見ていたので、よけい不快になった。

 受験生が試験に合格すれば笑い話ですむ話かもしれないが、もし試験に落ちたら「あの広告を見たのが悪かった」などと直接結びつけて考えないとも限らない。
 そういう受験生が、将来、自分の子供をとしまえんへ連れて行きたいと思うかどうか。

(城島明彦)

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