没後50年でも、赤木圭一郎は不滅だぜ
2月の声を聞くと、いつも赤木圭一郎のことを思い出す。
彼の命日は2月21日。享年21。
21日という数字がだぶるのは単なる偶然か、それとも何かを暗示しているのか。
足すと42(シニ)になる。
石原裕次郎、小林旭に次ぐ「第三の男」といわれたビッグスター赤木圭一郎は、1961年2月17日、日活の撮影所内で昼休みにゴーカートに試乗していて、運転を誤りスタジオの鉄扉に激突、重傷を負い、1週間後に息を引き取った。
マスコミは、彼を〝日本のジェームス・ディーン〟と呼んだ。
その赤木圭一郎が死んで今年で50年になる。生きていたら71歳だ。
1960年代の日本は貧しかったが、誰もが未来に希望をいだき、活気に満ちあふれていた。
赤木圭一郎は、そんな時代を象徴する男だった。
縮れっ毛に太い眉。
大きな目。
厚めの唇。
都会的で、日本人離れしたバタ臭い風貌。
がっしりとした広い肩幅。
低い声。
東京生まれの神奈川育ち。
医者の息子。
成城大に進んだシティボーイ。
愛称トニー。
初主演作の監督は鈴木清順。
拳銃が似合い、がんさばきがバツグンにうまかった。
「霧笛が俺を呼んでいる」の主題歌を歌ってヒットした。
吉永小百合は、赤木圭一郎の映画でデビューした。
「~だぜ」というセリフを吐いても、不自然でなく、キザに聞こえなかった。
1959年にデビューして61年2月に死ぬまで、30本近い作品に出た。
「赤木圭一郎」という芸名の名付け親である井上梅次監督が、ハリウッドの2枚目スター、トニー・カーチスに感じが似ているからといって、「トニー」というニックネームをつけたようだが、彼はトニー・カーチスのような、にやけた顔の二枚目ではなかった。
笑顔は屈託がなかったが、にやけてはいなかった。
「赤木圭一郎、重体!」のニュースを私はラジオで知った。死亡したときもそうだった。
「電光石火」という言葉は彼の映画で覚えた。
「拳銃無宿 電光石火の男」の主人公は、私が少年時代を送った三重県四日市市の出身という設定で、映画の舞台も四日市だった。
その頃の四日市は、「石油コンビナートがある新興都市」として全国的に注目を浴びており、同じ61年公開の松竹映画「甘い夜の果て」(監督吉田喜重)でも舞台となった。
私は数年前に『船と船乗りの物語』という本を書いたが、執筆中、何度も赤木圭一郎のことが頭をよぎった。
赤木圭一郎が主演した映画はほとんど見た。なかには何回も繰り返して見たものもあるが、「拳銃無頼帳シリーズ」は、内容がよく似ているのに加えて出演者も同じ顔ぶれなので、どれがどれか混乱してしまう。
DVDでも見たが、見るたびに思うのは、赤木圭一郎は「存在感」が違うなということだ。
出演している映画はB級の娯楽作品で、しかも1か月前後の撮影日数でつくられた映画ばかりだが、20歳やそこらの若者とは思えない存在感があった。
見ていない映画を見たいと思って渋谷駅前のTSUTAYAへいったが、赤木圭一郎のDVDは1本も置いてなかった。
渋谷ツタヤは、赤木圭一郎の映画を置かずに二流三流の俳優もどきの映画のDVDを並べて悦に入る文化レベルなのだろう。
ブロマイドで知られる浅草マルベル堂は、没後50年を狙ったのかもしれないが、赤木圭一郎の今年のカレンダーを復活発売している。
死んで半世紀になるのにカレンダーが作られるスターは、石原裕次郎と美空ひばり以外では赤木圭一郎だけではないのか。
(城島明彦)
« 受験シーズンを狙って、「一刻も早くすべりたい」という広告を打つ企業のセンスを疑う | トップページ | 雪の降る日の「歌詞しりとり遊び」 »