「崖の上のポニョ」、シューマンの「楽しき農夫」、「ビゼーの「メヌエット」を結ぶ点と線
アニメ「崖の上のポニョ」の予告編がテレビでオンエアされたとき、
♪ポニョ、ポニョ、ポニョ……
という軽快なテーマ曲を聞いて、
「あれっ、この曲、聞いたことがある。中学で習った」
と思ったが、すぐには曲名が思い出せなかった。
そして数年が経ち、シューマンの「楽しき農夫」に似ていたことがわかった。
だが、よく考えてみると、学生時代、ギターで何度も弾いたことがあったし、子供のピアノ発表会では誰かが弾いたのを耳にしているはずだった。私のクラシックに対する知識はその程度である。
ネットをあたってみると、「崖の上のポニョ」と「楽しき農夫」が似ていると思っているのは、自分だけでないことがわかった。
クラシックにも「本歌取り」というのがある、と明治学院大にいる私の友人が教えてくれた。「崖の上のポニョ」もそう考えることにしよう。
シューマンといえばクララである。それくらいの知識は前々からあるが、「クララ」という咳止めの薬は彼女の名から取ったのかどうかは知らない。
シューマンは欧州一といわれた名ピアニストのクララと結婚し、8人の子供をもうけているが、「楽しき農夫」という曲は、長女が7歳の誕生日(1848年)にプレゼントした小品7曲のうちの1曲だった。
7歳だから7曲だったのだろう。そうやってつくられた「楽しき農夫」を含む小品集は、やがて「子供のためのアルバム」と名づけられ、世界中の人々に知られることになる。
そういう知識はあったが、シューマンの長女がMARIE(「マリー」または「マリエ」)という名前であることは最近知った。
私の娘の名は真里奈。よく似ている。3歳の頃からYMCAに通っていたが、何回か私が迎えにいったとき、外国人の先生から「マリーナ」と呼ばれていた。
真里奈の3文字は左右対称であり、バランスの取れた人間になってほしいという願いをこめて、世界中で通用する名前として命名した。英語で書くと「MARINA」だが、不思議なことに、完全とはいえないが、こちらもそれぞれの文字が左右対称に近い。
2009年夏に公開された「クララ・シューマン 愛の協奏曲」という映画を私は見ていないが、そこにはマリーも当然出てくるので、そのうちDVDを借りてきて見ようと思う。2010年がシューマン生誕200年ということで、この映画がつくられたのだろう。
私の小説にも『協奏曲』(集英社文庫/絶版。そのうち電子書籍にする予定)というのがある。サブタイトルは「ラバーズ・コンチェルト」である。どこか「愛の協奏曲」と重なるような気がした。
「楽しい農夫」は、私のなかでは、長い間、ビゼーの「アルルの女」の「メヌエット」と一緒くたになっていた。「崖の上のポニョ」は「メヌエット」とも似ているのではないかという気がしていたのである。音楽好きな人やクラシック音楽に詳しい人からみると、まったく考えられないレベルの混同かもしれない。
私が習った音楽の教科書の「楽しき農夫」の訳詞には、「日差し漏れぬ」という一節があったように記憶しているが、なにせ昭和30年代という遠い昔のことなので、その教科書は手元には残っておらず、図書館まで出向いて調べるほどのことでもないから、とりあえずネットで検索してみると、シューマンの「楽しい農夫」は「秋の田」という題で、戦後間もない昭和22年に発行された音楽の教科書に採用されていたことが記されていた。(「うたごえサークルおけら」というHP)
「おっ、これだな」と思いながら歌詞に目を走らせると、「日差し漏れぬ」というような言葉はなかった。
♪うれしや 稲穂たわに
田の面(も)は 黄金(こがね)の波たつ
祝えや 実り豊か
田の面は 宝の海とよ
いざいざ 時はいまぞ
見渡す 果ても知らに
実りぬ 稲穂は実りぬ
歌詞は2番からなり、これが1番の歌詞で、2番にも「日差し漏れぬ」という言葉はどこにもないから、別の歌の詩と混同しているのかもしれない。
訳詞者は桑田春風(くわたしゅんぷう)だが、これ以前に「早春賦」(♪春は名のみの 風の寒さや……)の作詞や「故郷を離るる歌」の訳詞(♪園の小百合なでしこ 垣根の千草……)などで知られる吉丸一昌(よしまうかずまさ)が訳した詞もあったらしい。
「小鍬(おぐわ)を肩にかかげ とぼとぼたどる 野良(のら)道」
で始まる吉丸の訳詞は、画家ミレーの「落穂拾い」を連想してしまうようなイメージである。
吉丸は大正5年に、桑田は昭和10年に、それぞれこの世を去っていることを考えると、昭和30年代の教科書に載っていたのは桑田訳だろうと思われる。
だが、今から30年ほど前に高崎市の「でかんしょ合唱団」というところが高崎婦人会館(現婦人フォーラム)で開いた「第2回ファミリーコンサート」の演目のなかに「楽しき農夫」があり、作詞吉丸一昌とあった。
私が通っていた小学校(三重県の四日市市立中部西小学校)は、始業前の朝とか昼休みとか放課後に子供向けのクラシックを流していた。
トロイメライ、ガボット、エリーゼのために、ユーモレスク、小犬のワルツ、ラ・カンパネラ、別れの曲などだった。
忘れているが、「アルルの女」の「メヌエット」や「楽しき農夫」も流れていたのではないか。
季節によって曲目が変わり、冬はスケーターワルツなどヨハン・シュトラウスの曲が流された。
昼休みはサンサーンスの「白鳥」で、この曲を聞くと給食の「脱脂粉乳」を思い出す。見かけはミルクだが、そのまずさ、不気味さといったらなかった。
小学校で習った唱歌のなかに「雁がわたる」(♪雁が渡る 鳴いて渡る 鳴くは嘆きか喜びか)という曲があった。
前出のHPによると、この曲は明治45年の教科書に入っていたことがわかる。その後も、大正・昭和と音楽の教科書にも引き継がれ、私が小学生だった昭和30年代にもまだ載っていたということになる。
祖父母も父母も知っている。そういう曲が教科書から消えてしまったことも、家族の絆が弱くなった一因ではないのかと思った。
中学(四日市市立中部中学校)では、3年の音楽の試験のときに、教室のスピーカーからクラシックの曲が何曲か流れ、曲名を書くという問題が出された。
今でも覚えているのは、ハチャトーリアンの「剣(つるぎ)の舞」、ドボルザークの「新世界」である。一番の親友だったクラスメイトと試験が終って帰宅する道々、出題された曲のことを話し合ったことも覚えている。
その友は明るく人柄も温厚で、誰からも好かれていたが、50歳の若さで世を去った。
(城島明彦)
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