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2010/12/30

「けさらんぱさらん」のこと

 私のデビュー作が電子書籍化されて、数週間たつ。
 電子書籍の書名は『けさらんぱさらん――小さな恋の物語――』(いるかネットブックス/315円)である。
 「小さな恋の物語」というサブタイトルは、電子化にあたって新たに加えた。

 一重カギと二重カギの使い方は、書籍、文庫などは『』で、雑誌などに掲載されたものをさすときは「」とするのが一般的であるから、知らなかった人は覚えておくといいだろう。
 短編がいくつも入っている場合は、書名が『』で、収載されている個別の作品は「」である。

 「けさらんぱさらん」は、文藝春秋発行の小説誌「オール読物」(昭和58年)の新人賞をもらった短編小説だが、これを電子書籍化するにあたって掲載誌をスキャナーで読み取り、テキスト文書にする作業を自分でした。
 
 400字詰め原稿用紙にすると、制限枚数ぎりぎりの80枚である。しかし、実際には80枚を超えていた。
 制限枚数をオーバーしていたらその場でアウトで、読んでもらえないかもしれないと思い、ひと工夫した。いくつかの行に、字詰めして20字以上書き入れたのだ。
 手書き原稿だからそういう芸当ができたが、パソコンでは字数をカウントできるから、すぐに見破られてしまう。

 二度目の応募で入選したから効率はよかった。運にも恵まれた。

 こういう賞をもらった時点で、「新人作家」「作家」という肩書がもらえるのだ。自称作家ではない。

 初めて応募した作品は「どんぐりころころ」という題のユーモア小説的恋愛小説だったが、これは最終候補3編に残ったが、ほかの2作が同時受賞になり、私のは次点だった。
 受賞作は雑誌に掲載されるが、次点は載らない。従って、誰の目にも触れることはない。

 「どんぐりころころ」もそのまま埋もれていたが、「けさらんぱさらん」を電子書籍化したのに続いて、自分でテキスト化したので、近いうちに売り出される。
 電子書籍では、『恋は気まぐれ――どんぐりころころ――』にしたように思うが、『どんぐりころころ――恋は気まぐれ――』だったかもしれない。
 これらは昔の作品なので、「セピア色のラブストーリー」というシリーズにしている。

 版元の社長は富士通OBである。とても温厚で誠実な人柄にひかれて、過去に出版されたいくつかの作品や書きおろした短編の電子化もお願いしている。

 昔、親指シフトの開発者の神田泰典さんから富士通のワープロ「オアシス」をいただいたこともあり、また富士通の別の部門の〝オンデマンド・プリンティング・マシン〟ドキュテックの雑誌タイアップ広告の執筆を長くやらせてもらった縁もあり、現在使っているパソコンは富士通製で、ブログも富士通系のNIFTYを使ってきた。ただし、パソコンはもらったものではないし、ニフティも使用料金をきちんと払っている。

 富士通の前はNECのパソコンを使っていた。
 作家になって最初のビジネス物(企業物)が「プレジデント」誌に書いたNECの二人のトップ(当時の会長小林宏治氏と社長に就任して間がなかった関本忠弘氏)の話だったのが縁で、同社製の「M式」と呼ばれるワープロを購入して長く使っていたのである。

 親指シフトとM式は、どちらも異端だったが、それが好きだったのは、私が物書きになる前に勤めていたソニーの社風「よそのまねはするな」「どこにもないものを創れ」の影響である。
 だが、親指シフトもM式も、打鍵スピードはものすごく早かったが、ソニーのホームビデオ「ベータマックス」同様、主流にはなれず、尻すぼみになっていた。いい技術が必ずしも残るわけではないのだ。

 『けさらんぱさらん――小さな恋の物語――』の版元の社長は、電子書籍が本業ではないが、早い時期に電子書籍に参入している。
 電子書籍の売れ筋は、マンガやエロなので、真面目な恋愛ものはあまり売れないのが、私の悩みの種である。
 と同時に、ど素人の作品と並んで売られているのも不満である。
 
 このところ大手出版社を始めとする版元は、売れ行きの悪い書籍や文庫を短期間で裁断することで保管倉庫代を軽減するのと併行して、過去の出版物の電子化を進めている。既存の作品の二次利用である電子書籍化には金がほとんどかからないからである。流通経費も本のようにはからないし、人手も要らないから、部数は出なくても出版社は儲かる。

 出版社にとってはメリットの大きい電子書籍だが、書下し(書きおろし)には大きなネックがある。

 電子書籍は、書き下し作品の印税の支払いに問題がある。本の場合は、売れても売れなくても、当初に発行された部数分だけの印税が著者に支払われるが、電子書籍では出来高制で、売れたぶんだけ、あとで支払われる。

 本が出ても、一冊も売れないと印税ゼロというわけだ。これでは作家は長い本の書き下ろしをやらなくなる。
 何冊書いても一円ももらえないというのでは、生活そのものが成り立たない。

 しかし、今までのように発行部数分を支払うと、出版社は儲けが少なくなるし、へたをすれば赤字を背負い込むことになる。
 
 作家に何らかの保証をするなどして、こうした問題を解決しないと、作家たちは長編の書き下ろし新作を電子書籍では発表しないだろう。

 昨夏に発売された『横濱幻想奇譚』(ぶんか社文庫)という拙著は、ぶんか社で電子化する話が進んでいる。がこれは短編集だが、一冊として売るのではなく、ばらして売るということも検討中だ。

 Photo

 「オール読物新人賞」受賞時の選評より……「DJと宣伝マンとのつながりを描いて、全体の軽妙さ、コミックな仕立て、華やかさがある」(渡辺淳一)、「話のまとまりのよさで入選」(藤沢周平)、「すべてにそつがない」(井上ひさし)、「『けさらんぱさらん』という生き物とも何とも正体不明な、しかもどこか愛らしくあだっぽい存在を、この作品のシンボルとしてうまく生かしたエスプリを評価」(小松左京)、「軽やかな語り口が面白い」(古山高麗雄)。

(城島明彦)

 

 
 
 
 

 
 
 

2010/12/29

日本語がわからずに咆(ほ)えまくる〝あわれな日本人〟増殖中!

 「さかなクンさん」事件で、私のブログに大量に書き込まれた〝捨てぜりふ〟的通り魔コメントのなかに次のようなものがあった。

 『>その犬はもう亡くなってしまいました。

 犬が亡くなる。これって正しい日本語なんですか? 教えてください大先生。』(昼下がリー)

 ◆この書き込みをした人物は、「『人が亡くなる』というだけで、犬は『亡くなる』とはいわない、『死ぬ』が正しい」と思い込んでいて、私のブログに上記のように書いたことは明白だ。
 「教えてください大先生」という嫌味な文章は不要なのに、わざと書き加えて、小馬鹿にしようとする魂胆なのである。
 こういう言い方で他人のブログをけなしたり批判したりする不愉快な輩は、日本中にうじゃうじゃいる。 
 自分自身が無知であることに気づいておらず、他人の文章をけなすことで、屈折した優越感に浸り、ひとり悦に入る。のみならず、そのコメントを不特定多数の人間の目に触れさせることで「このブログの書き手はバカだ」と思わせようとする。
 無論、匿名で、自分自身のことは明かさない。
 まさに卑劣きわまりない愉快犯である。
 
 地方自治体のホームページに次のような記述がある。
 ○犬や猫などの小動物が亡くなった場合の処理について:熊谷市ホームページ
 2010年2月11日 ... 飼っていた小動物(犬·猫など)が亡くなった場合や、敷地内で亡くなっている小動物は 、ダンボール箱に入れて、動物名(犬·猫など)を明記し、「燃えるごみの日」に、ごみ 集積所に出すことができます。
 ○厚木市:ペット(犬)が亡くなったら  [質問]ペット(犬)が亡くなったら.最終更新日:2010年2月26日(金曜日) |お 問い合わせ先:生活環境課. 回答. 飼っていた犬•猫が死亡した時は、登録を抹消しますので生活環境課まで必ず連絡してください。
 ○犬の登録・狂犬病予防注射-日高市ホームページ  2010年10月20日…生後3ヶ月以上の犬を飼う場合は、犬の登録が必要となります。(1回の登録でその犬が 亡くなるまで有効です。
 ○犬が亡くなったら-新宮町

 私のブログに「大先生」と書き込んだ人間は、厚木市役所や熊谷市役所などにも、「正しい日本語を使え」と注意して回っているのだろうか。
 上記の厚木市、熊谷市などのホームページの文章は、nifty@searchを用いて「犬が亡くなる」で検索したが、ほかにもいっぱいあった。
 ○店長の犬猫な日々 : 亡くなる時  帰宅したら、お客様の所のパグさんが、もうすぐ10歳を前にして、亡くなったとのお電話。
 ○犬の供養の情報 (愛犬が亡くなって埋葬と霊園をどうするか)
 ○[ ラブが亡くなりました] by うたた寝する犬
 ○飼い主の身代わりに亡くなるペット-犬 -教えて!goo
 ○愛知 事故に遭った犬が亡くなりました-自然と動物へ恩返ししよう
 ○犬のペットロス ::お悩み解決 犬のQ&A 回答集::犬のしつけ,病気,ペット…  先住犬が亡くなると、行動が静かになり、
 ○忠犬ハチ公が亡くなる約1年前の実際のハチ公の写真 at 和の暮らしを…
 ○ペットが亡くなった時 Ⅶ【ペットロス】 /犬猫大好き板
 ○◆“世界最高齢犬”のギネス記録を持つ「オットー」、亡くなる [2010.1.15]
 ○2008年度世界一醜い犬、ガス亡くなる|デジタルマガジン

 きりがないからこのへんでやめておくが、「犬が亡くなる」という表現は100%誤りではない。私のブログに「大先生」と書き込んだ輩に対して皮肉な言い方をすると、「それらすべてのブログやホームページに、間違いだといってやらないのかね、キミ」、である。
 そういう言い方をされると頭に血が上るくせに、匿名性を武器にして人には平気で非礼なものいいをする。あわれな連中だ。

 ネットで使われている言葉だから正しいというつもりはない。むしろ逆で、ネット上では間違って使っていることの方が多い。
 私がいいたいのは、「犬などのペットが亡くなった」という書き方をしているものがネット上には山のようにあるということだ。ネット上の通り魔連中にいいたいのは、「そういう現象はなぜ起きているのか」と問題提起する書き方がなぜできないのかといっているのである。
 通り魔連中の書き方には、いくつかのパターンや言葉の使い方がある。そのことは、別の機会に触れたいと思う。日本が崩壊しているのは、日常の挨拶、礼儀礼節、道徳規範といった基本的なことがまともに守られていないからである。このことも、詳細に述べると長くなるので、ここではやめておく。
 
 作家や言語学者が過去に書いた文献に当たって、この例がどうだ、あの例がどうだとまでやるのが理想的だが、私は論文を発表しているのではなく、そこまで手間ひまかけている時間はない。

 「ネットを見ると、『犬が亡くなる』という書き方をしているものがいっぱいありますね。その数は『犬が死ぬ』と同数でした。本格的に調べてみたいですね」
 などという言い方をするのがまともだが、心がねじ曲がっているから、そういう風にはいえないのだろう。
 
 「亡くなる」は、「死ぬ」「死んでしまう」を丁寧にいった言葉だが、「無くなる」という言葉からもわかるように、「消えてしまう」「失せてしまう」というニュアンスをともなっている。
 亡骸(なきがら)は、「亡き骸」で、「骸」は「むくろ」とも読み、「体」のことである。体は人間だけでなく、犬でも猫でもライオンでもかまわないのだ。
 「なくなる」は「いなくなる」ことでもあると考えると、「日本語って含蓄のある言葉なのだな」と思えてくる。

 遺骸は、大雑把にいうと「遺(のこ)された体」(遺体)、骸骨は「体の骨」と言い換えるとわかりやすい。語源などについては私は知らない。

 骸は、遺骸の「骸」であり、「骸骨」の「骸」であるから、そういう熟語から意味を類推すると大体の見当がつく。体という意味があるのだ。ただ、「体」という意味だけではない。

 遺体の「体」(たい。からだ)は、昔は「骨に本」と書く「骵」だった。これから類推すると、「骨に本」の「骵」は、「体」を意味しているのではないか、あるいは、「骨と体」ではないかということになる。そう考えると、「遺体」というのは、「骨と体(肉と皮膚)をいっているのだな」と思えてくる。
 言語学者による正式な見解ではないが、私はいつもこんな感じで、言葉や漢字を推理している。

 「遺骸」の「亥」は「亥」(がい)と読むだけでなく、「い」とも読む。猪の「亥」だ。この程度のことは誰でもわかる。辛亥革命という言葉を思い浮かべる人もいるかもしれない。
 遺体の「遺」についても考えると、「遺(のこ)された」の「遺」からは遺言、遺志、遺贈……という言葉が連想でき、「遺」は人間の死に関わっているということがわかってくる。

 (このときに、「そうjじゃないだろう、『遣(つか)いにやる』という言い方だってあるだろうが」などといいだすと、話が限りなく広がってしまう。遺骸についていっているのだから、直接関係ないことに触れる必要などないのだ。遺言、遺志、遺贈を考えるとき、犬や猫には該当しないこともわかる。このようにしてどんどん枝葉に入って行くと、終わりがなくなる)

 犬が遺志を言葉で伝えるわけではないが、飼い主には生前にそれとなく表情などで伝えているかもしれない。しかし、遺贈ということは、まずありえない。死んだ犬が夢枕に立ち、どこかへ行けといったので行って見ると宝物が見つかった、ということは「遺贈」という感じの話としては成り立つが、現実的ではない。
 遺訓という熟語もある。この意味を知らない場合、「遺(のこ)された訓話」かなと推理する。死んだ人が遺した名言、と言い変えてもいいようだな。私は、大体、そういう流れで文章を書くことが多く、ほとんど辞書は使っていない。

 「大先生」と書き込んだような輩は、人が死ぬと、
 「お亡くなりになりました」
 「誰それさんが、亡くなられました」
  などというので、「亡くなる」を人だけに使うものと勝手に思い込んでいるのである。
  しかも、自分がどこの誰かわからないようにして書き込んでいる。
  こういう輩に限って、繰り返し、書き手を心ない言葉で中傷する傾向が強い。

 ただし、「犬が亡くなった」「亡くなった犬」という表現は、「犬が死んだ」「死んだ犬」という普通の言い方に対して「ちょっと違うのではないか」という違和感を与えはする。
 
 私がもし「犬が亡くなる」という言い方に疑問に感じたら、次のように質問する。
 「犬とか猫は『死ぬ』という言い方が普通で、『亡くなる』という言い方は人の場合だけかと思っていました」
 こういう問い方をされると、もう一度調べて、きちんと返答したくなってくる。

 私が現在愛用している小学館『現代国語例解辞典』(昭和61年11月版)には、こうある。
 ○亡くなる……この世に存在しなくなる。死んでしまう。例「亡くなって三年になる」
 むろん、これは一例であって、別の辞書には、もっと違うことも書かれている。

 たとえば、昔愛用していた講談社学術文庫の講談社編『和英併用 実用辞典』(昭和54年3月30日 だい1刷発行)。これには「『死ぬ』の尊敬語」とだけ記されている。
 「言葉からいうと、尊敬語という言い方はちょっと変だな、丁寧語とすべきではないか。『亡くなられました』という言い方が尊敬語ではないか」と思うが、これはこれでいいのであり、特に目くじらを立てて騒ぎ立てるほどのことではない。辞書が100%正しいという保証はないのだから。

 話は違うが、「目線」という映画界で使われていた専門用語も、総理大臣が誤って使ったことなどにより、ここ数年で急速に一般化し、「視線」と同じ意味であるようになってしまった。
 「なにげに」も、映画監督の山本晋也が使っているのにはビックリした。あの年齢の人間は、絶対に「何気なく」としかいってこなかったはずなのに、そういうことが新しいと思って使っているのかもしれない。「ら抜き」も、そうやって広がった。
 それにしても、日本語というか、言葉は奥が深い。

(城島明彦)

2010/12/28

匿名でいいたい放題にひそむ〝人間の醜悪な裏の顔〟

 都庁の役人をしていた私の友人がいった。
 「手軽だからな。昔は匿名で新聞に投書するにしても、手紙を書いて封筒に入れ、切手を貼ってポストに入れにいかなければならない。そういう面倒なことが、ケータイやパソコンでは必要なくなったからね。2chを見ると、人間の醜い部分がモロに出ているよね」

 まさにそれである。
 今日のネット社会は、匿名性を増殖させ、そのことによって人の内面にひそむ陰湿で醜い部分が、あからさまに表面化することになった。
 2chのコメントやツィッターでの無責任な発言、他人のブログへの乱暴な書き込みなどは、まさにそれである。

 「文章に纏まりがなく、読点の使い方が驚く程酷いですけど本当に物書きですか?」
 という書き込みをしてきた者がいる。読点の使い方は、人さまざまだ、そういうことを知らずに批判している。私の本を読んでものをいっているとは思えない。
 この人物のメールアドレスに「本を読んだのか」と書いて送ったら、戻ってきた。
 
 匿名だから、何をいっても、どこの誰か特定できない、だから、好き勝手をいっても平気だ、どんなエゲツナイ言い方をしても平気だ。
 そういう安心感から、面と向かってはいえないような汚い言葉や乱暴きわまりないエゲツナイ言葉で公然と相手を痛罵したりして、溜飲を下げる。ツィッターは、それを増殖させている。

 小心者や、日常生活で鬱屈した思いを味わっている人間が、匿名で相手をボロカスにいうことで優越感に浸る。そこには「責任感」という意識は存在しない。ある種の〝愉快犯〟、〝通り魔〟的な感覚がそこにある。

 上に挙げた「本当に物書きですか?」も、そういうコメントを発することで、優越感に浸っている。暗くて陰湿な性格なのだろう。
 「句読点の使い方の、こことここが違和感があると思う。なぜ、そこに読点をつけたのか教えてほしい」という疑問・質問ならわかる。あるいは、私の本を何冊か読んで、「この本のここの読点の使い方が自分には受け入れられないが」といった疑問の呈し方をし、論拠を明示すべきだろう。

 話が脱線するが、私がカルチャーセンターの講義で使ったテキストのなかから、以下に引用する。

 ●読点のつけ方には、いつも注意を払うこと
 どう読ませたいかで、読点の位置を変える。(声に出して読んでみる)→どこに読点(、)を打つかで、印象が変わる。→書き手の個性が出る。
  (例1)亜紀は今日、ドレスを新調した。
      亜紀は、今日、ドレスを新調した。
   (例2)亜紀はなぜか泣けなかった。
      なぜか、亜紀は泣けなかった。
※ 単語の位置で印象が変わることも、同時に理解する。

 私の読点の使い方は、こういう考えに基づいている。

 読点でイチャモンをつけてきた人物のコメント例にも現れているが、どこか屈折した心理が匿名性の裏には潜んでいる。自分がそうされたらどうか、という視点も完全に抜け落ち、視野狭窄(きょうさく)に陥っている。

 なかには、警察に被害届けを出されたら、匿名で書いていても特定され、ブタ箱に放り込まれることを平気でやっている者もいる。そういうことが広まると、種々の規制が入るようになる。
 私が使っている「ココログ」では、アクセス数と訪問者数が出る。訪問者数は、アクセス数の大体4割ぐらいである。どの地域の人間がアクセスしてきたかもわかるようになっている。
 尖閣諸島の中国漁船事件では、あっという間に発信地や犯人が特定された。
 ああいう大きな事件でなくても、書き込みが個人に対する恐喝に当たると判断され、被害届けが受理されたら、警察は動く。
 
 ネット社会にはプラス面は多いが、それと同じくらいマイナス面もひそんでいる。警察が動かなくても、あらゆる手段を使って、その人物を特定し、誰がやったかわからない方法で殺害しないという保証はどこにもない。
 匿名でいいたい放題には、そういう危険性も潜んでいるということを頭に入れておかないといけない。

 話は変わるが、不思議なのは、「今時の若者は」という言葉に対して真剣に怒る若者がいることだ。
 「今時の若者は」という言い方は、いつの時代にもいわれることで、現に私自身も若い頃には、それこそ耳にタコができるくらいいわれた。だが、馬耳東風と聞き流してきた。
 そういわれて怒るということは、前向きな姿勢を持っている証拠だ。日本も、まだまだ捨てたものではない。ただ惜しむらくは、そういうエネルギーを私のブログなどへの批判に費やすのではなく、どうしてもっと別の生産的でクリエイティブな方面に振り向けないかということだ。

(城島明彦)

2010/12/27

「ココログ」(ニフティのブログ)のアクセスランキングが「1位→22位」

 「さかなクンさん」事件で、私のブログへのアクセスがトップになっていて、ビックリした。
 一昨日のアクセス数は11,166件で29位だった。
 外出から戻った午後1時頃、昨日のランキンググラフを見ると、16,702件(PCサイト全体)で1位になっていた。(携帯サイト全体では30,189件。

 ブログを始めてから途中で転居した際、運送屋がパソコンを壊してしまって別のものに取り替えたから、通算すると何年になるのかわからないが、1位というのは初めてである。

 乱暴な言葉や小馬鹿にしたようなコメントとか中傷を多数書き込まれ、決していい気持ちではなかったが、1位とか2位になるようなブログでは、そういうことにも耐えなければならないのかもしれない。
 1位になろうと思ってもなれるものではないので、いい経験をしたと思って、午後2時に再度ランキングを見ると、ン? 22位になっていた。数字をいじっているのかな?
 書き込みを禁止にしなければ、1位だったのかもしれないが、嫌な気分になってまで1位になっても意味がない。

 寄せられたコメントにはすべて目を通し、本物っぽいと思えるメールアドレスを書き込んであった人には返事を書いたが、戻ってきたものが多かった。書くことに使った時間が無駄になったということだ。

 自分でいうのも変だが、私は、大体、正論を吐いている。お前は芸能評論家になった方がいいという書き込みもあったが、私は最初は映画監督になろうとして助監督になったが挫折し、ソニーに入社したが、宣伝・広報とどちらかといえば、派手な部門にいた。

 文藝春秋の「オール読物新人賞」を受賞して作家の肩書きをもらってからは、コバルト文庫にも青春小説を書いていたが、好んで広告代理店や企業の宣伝部を舞台し、女性DJ、タレントや女優を主人公にしてきた。スペイン王室御用達の「ロエベ」のデザイナーをめざす若い女性の話も書いたし、ファッションモデルも登場させた。
 そういう意味では、芸能界の出来事に関心があるのだ。麻木久仁子と大桃美代子をモデルにした小説を、いつか書くかもしれないのである。
 そういうことを知りもしないで、また知ろうともしないで、「お前は芸能評論家にでもなった方がいいのじゃねえか」などと乱暴な書き込みをする。

 また、私が故・池内淳子さんについて書いたブログでは、彼女のスタートとなった新東宝時代の出演映画について触れた個所で、「花嫁吸血鬼」「女吸血鬼」に出演したと書いたところがあるが、ある書き込みでは、「花嫁吸血鬼」なんて映画はないぞ。「女吸血鬼」には出てないぞ。調べたら天知茂が吸血鬼になっているのじゃないか。DVDも見ないで、わかったようなことを書くんじゃない、といった言い回しで、こきおろしてあった。
 
 そこでブログを読み返してみると、「花嫁吸血魔」を「花嫁吸血鬼」と誤記してしまっていた。ダジャレをいうと、「魔」がさしたのかもしれないということになる。
 
 「女吸血鬼」という映画に彼女は確かに出ていて、私は渋谷駅前のTSUTAYAからDVDを借りてきて見ている。勘違いしているのだろうかと思って、改めて調べて見ると、出演者のところに彼女の名前が出ている。
 「どこをどう調べたのか」とこちらから逆に質問したくても、相手はどこの誰だかわからない。
 問題は、そういう無責任な書き込みを見た人が「城島っていいかげんなことばかり書いているんだ」と思うかもしれないということである。

 パソコンをやっている人は、誰でもこの手の誤記などのケアレスミス経験があるはず。「『魔』を『鬼』とうっかり誤記してしまったみたいだな」と、どうして好意的に解釈できないのだろうか。
 私がもしこの誤りを指摘するなら、
「『花嫁吸血鬼』となっていますが、『花嫁吸血魔』の誤記かと思います。ご訂正ください」
 と書き込む。それが相手に対する思いやりというものである。さらに、「訂正後は、私のコメントは削除なさってください」と付け加えたら、もっと親切になる。

 このケースのように、相手を軽蔑して自分を誇示するような言葉で書き込む者は、かなりいる。「花嫁吸血鬼」なんてないぞ、とだけいって、私を見下すというスタンスは、心がねじれているとしか思えない。「花嫁吸血魔」の間違いですといわずに、そういう言い方をわざとするのである。こういうのを「悪意がある」というのだ。

 私は文章を書くことを職業にしているので、誤字・脱字があってはならないのだが、ワープロやパソコンにしてから、やたら誤字・脱字が増えた。これは、どうしようもない。

 パソコン画面で校正して、「間違いない」と思ってプリントアウトしてみると、あるわあるわ、誤記やら脱字やらがいっぱい見つかる。これは、私だけでなく、誰にも経験があることだ。
 特に本1冊分の原稿をチェックするとなると大変で、著者自身、出版社の編集者、校閲者が念入りに見てチェックするのだが、それでも誤記・脱字は残ってしまう。

 私自身の恥をさらすと、2009年夏に発売した『横濱幻想奇譚』(ぶんか社文庫)では、人物の名前がラストの方で違っていた。今度、電子化するときに手を入れるしかないが、「そこを読者に気づかれないといいが」などと祈ったりする。
 校正ミスは編集者のミス・責任だが、読者はそうは思わない。この作家は実にい加減だと思ってしまう。

 話が横道にそれたが、私のブログは書き込みを禁止したので、これからはまともなアクセス状態に戻っていくだろう。
 この騒ぎが落ち着いたら、また書き込みをオープンにするので、そのときは、心ある人、きちんとした日本語でコメントしてくれる人にどんどん書き込み願いたいものである。
 私のブログへの過去の書き込みは、昨晩、ごく一部の人のものを除いて削除した。残っている書き込みはワード文書に映して保存し、正月休みの間にトラックバックともどもブログからは全部削除しようと考えている。要するに、コメントもトラックバックもゼロにするということだ。

(城島明彦)

「さかなクンさん」事件に対するNHKの対応の不自然さの裏に何があった!?

 インターネットで検索して見ると、NHK広報局が12月15日に「さんをつけろよ、デコ助野郎」って、そういうことだったのか…ううう…知らなかった…(>Д< ;) みんなひどい…」( 6:39 AM Dec 15th HootSuite)とツィッターに書き込んだことがわかる。

 「さんをつけろよ、デコ助野郎」などという言葉を使うべきではないと考えるのは、ごく普通の人間の神経である。
 ところが、その手の書き込みがいくつも出てくるので、NHKの広報担当者は「脅されているのではないか」と、びびった。これは常識人のごく自然な反応だ。
 
 しかし、「さんをつけろよ、デコ助野郎」は大友克洋のマンガ「AKIRA」に出てくる名台詞で、それを引用しただけだ、ただのシャレだと書いた側はいうのだが、引用例の言葉がきたなすぎて適切ではない。

 私が今書いている原稿の一部を引用しておこう。

ダジャレの法則
 ダジャレには法則がある。たとえば、親しい仲の相手に対して、「~してくれ」「~してくれませんか」というときのダジャレは、頭に「くれ」か「おくれ」がつく単語や言葉なら何でもいける。
   何とかしておクレヨン
   任せてクレマチス
   切ってクレソン
   行ってクレオパトラ
 クレマチスは花の名前だが、知らない相手には通じず、まったく面白がられない。相手が知らない言葉だとシラケてしまうということを念頭に置いていわないといけないのだ。
   取って呉(くれ)の軍港
   取ってクレメンタイン
   取ってクレアラシル
   取ってクレッシェンド
 こういうダジャレを「付け足し言葉」といい、江戸、明治の昔から存在した。
 呉が軍港であったことを知らない若者相手に、「とって呉の軍港」といってもポカンとされるだけだ。
 「取ってクレメンタイン」は、アメリカの西部開拓時代に歌われた「いとしのクレメンタイン」やジョン・フォード監督の名作「荒野の決闘」(1948年)の原題が「マイ・ダーリン・クレメンタイン」だったということ、そして、この歌は日本では「雪山賛歌」という題名に変えられてダーク・ダックスが歌って大ヒットしたといったことなどを知っていないと面白くない。
 クレアラシルはニキビ薬の名前で、テレビのCMで知っている人もいるが、知らない人も多いからキョトンとされる可能性が高い。クレッシェンドは「だんだん強く」を表す音楽記号<なので、音楽知識が皆無の人にいっても通じない。
 したがって、冒頭に「くれ」がつく言葉なら何でもいいというわけではないのだ。
 相手を見て、場合を考えて、言葉を選択すると効果があるということになる。

 こういうことである。

 今日では、デコ助野郎などという言い方は、日常の会話のなかでは死語に近いが、それだけに余計、一種の差別用語的な意味合いも持つ。したがって、会社の会議中に上司が部下に向かって、「このデコ助野郎が!」などと罵倒したら、たちまち問題になるだろう。

 しかし、その上司が、そのとき、こういう言い方をしたら問題は起きない。
 「大友克洋の『AKIRA』のせりふじゃないけど、ここは『さんをつけろよ、デコ助野郎』だな」

 NHKの広報マンは、わけのわからない言葉でさんざん脅された挙句、「AKIRA」の中のセリフでシャレだよと誰かが書き込んだのみて、そうだったのかと初めて知り、安堵の胸を撫でおろしたのである。
 こういう心の動きを理解しないといけない。
 
 私自身の例だが、子どもが幼児の頃、一緒にテレビの「アンパンマン」をよく見ており、悪役バイキンマンが毎回、「これでも食らえ!」といって攻撃するので、それを面白がって私が繰り返し、口まねしていたら家の者にきつく注意された。
 「さんをつけろよ、デコ助野郎」は、そのとき私が家の者に「お前はアンパンマンを知らないのか」「このジョークがわからないのか」と毒づくようなもので、説得力がない。

 シャレというのは、相手に通じなければ意味がないということだ。「さかなクンさん」事件では、その点が考慮されていなかった。
 NHKの広報も、当初は遊びとはわからず、大量のサイバー攻撃にとまどい、混乱した。これは私の推理だが、どうすればいいかと思案した挙句、「遊びというのだから遊びで」というNHKらしからぬ姿勢を取らざるを得なかったのではないか。そこにはNHKの弱みがあったということを理解しないといけない。

 NHKに聞いても本当のことはいわないだろうが、NHKは、ただでさえ受信料拒否に悩んでいる状況であるから、何万人もの人間を敵にまわすのは得策ではないと考え、迎合するというNHKらしからぬ手を選んだことは十分に考えられるのだ。
 
 MHKをサイバー攻撃した連中は、NHKのそういう〝弱み〟に配慮したのかどうか。そのことを考えずに、
 「最終的にはNHKはジョークで応じてきた。担当者は我々の仲間になった。かわいい奴だ」
 と自分たちに都合のよいように評価するのはどうなのか。
 〝みなさまのNHK〟が、「サイバーテロ」ともういうべき大量のつぶやきに怯えて、そうした可能性がないとどうして断言できようか。

 私のブログへの書き込みのなかには、「NHKは〝ほめられキャラ〟で、あなたは〝いじめられキャラ〟」というのがあった。逆ではないのか。権力をほめ、一介の物書きである弱者をいじめてどうするのか。志が低すぎる。

 今回の私へのコメントには、「さんをつけろよ、デコ助野郎」が若者だとどうして断言するのかという問いかけが若い人たちからあった。
 常識的に考えて、社会経験が豊かな年配の人間が、唐突にこういう言葉でNHKに迫るとは考えられないからだ。少しでも社会で揉まれ、下げたくもない頭を下げている人間なら、NHKに苦情を呈する場合でも、もっと理詰めなものの言い方をするはずだからである。
 もし若者以外の人間がこういう〝言葉足らず〟のことをやっていたとしたら、世も末だ。

 こういうコメントも私のところに寄せられている。
 「『さかなクンにさんを付けろ、デコ助野郎』なんて言ってる人は、2chだけで通用するネタをツイッターなんて2ch利用者以外の方も多く利用するサイトで使うのはおかしい事だと思いますし、それで貴方(城島のこと)をネタをネタとわからないのか! なんて批判をしている人はちょっとモラルを疑います」

 ――ところで、デコ助という言葉だが、私が東宝で映画の助監督をしていたとき、憬れの黒澤明監督がよく失敗をしでかすスタッフに「このデコ助」とよく怒鳴っていると、彼のチーフ助監督を勤めたことがある森谷司郎監督や先輩の助監督から何度も聞かされた。
 黒澤監督がきつく叱りとばすということは聞いていたが、そんな下品な言葉を使っているのかと知ってショックを受けたものだった。
 デコ助のデコは、おでこのデコをさす以外に、罵倒するときにも使われる言葉なのだ。

 「さかなクンさん」が正しい日本語かどうかという話は、別の機会にしたい。

 本ブログには書き込みはできません。あしからず。

(城島明彦)

2010/12/26

「さかなクンさん」は〝ネタ〟、目くじらを立てるなという批判が大量にあった

 体調を崩して熱をだし、寝込んでいた。少しよくなり、パソコンを立ち上げたら、「さかなクン」を「さんづけ」にすることについての私のブログが、どういう形で目に触れたのかは知らないが、大量のコメントが届いていた。12月25日の後半だけでアクセス数が1万件を超えるという異常事態だ。とんだクリスマスプレゼントになった。

 寄せられたコメントのほとんどは、「さかなクンさん」というのはネタであり、ジョークなのだから目くじらを立てるなといった批判である。さかなクンが、私が思っていた以上に人気があることも知った。
 彼は、言葉づかいや表現方法が変わっているが、絵も字もうまいし、腰も低い。彼のような一芸に秀でた人間が高く評価されるのは喜ばしいことだ。彼の意見については、NHKにそのうち聞いてみようと思う。

 コメントのほとんどは、顔の見えないことをいいことに傲慢無礼な言い方をしているものが多い。なかには傾聴に値するものもあり、そういう人とはきちんとメールで直接やり取りしたいと思うときもある。
 かような理由で、これ以後の書き込みができないようにした。こういうことはしたくないが、悪意に満ちた書き方をしている者があまりに多すぎる。

 こういう風にして、匿名性を武器にして下品な言葉を連ねて反論を集中させ、血祭りに挙げ、自分たちの考えに合わないものの記述を削除させようとするのであろうか。
 身元がまったくわからない相手からの度を超えたサイバー攻撃(非難中傷)にいちいち耳を貸している時間はない。真摯な気持ちでコメントしてくれたり、コメントしようとする人には申し訳ないが、 ほかの文章も書き込み禁止にする。

 大友克洋の「AKIRA」について言及しているコメンテーターも数多くいるが、私は遠い過去に一度だけアニメを見たことがあるだけで、詳しいことは知らない。

 敬称について、たくさんの人が関心を持っていることは悪いことではないが、こういう混乱を引き起こすのは日本の国語教育に問題があるのだろう。

 「ブログに書き込まれたコメントを読んでいないのではないか」というコメントがあったが、私は、niftyのブログ「ココログ」(有料)をずっと利用している。
 そこに書き込まれた第三者のコメントはniftyから私のメールアドレスに即、送られてくるので、すべてに目を通しているが、すべての意見に細かく応じているだけの時間的余裕はない。

 私は今、『ことば遊び練習帳――笑いながら日本語に強くなる本』(「ととのうか、ととのわないか」で日本語センスが決まる!)(仮題)という原稿を執筆中なので、今回の一件については、予期だにしなかったことであるとして加筆し、そこで反論することにしたい。『ことば遊び練習帳』は、お世話になっている編集者の方が考えてくれたタイトルである。

 お断りしておくが、この本を宣伝しようとする目的で、「さかなクン」のことをネタにしてブログに書いたわけではない。版元は現在未定であり、その編集者は引き受けてくれる版元を探しているところなのである。

 しかし、今回の異常とも思える反響を見て、こういうテーマに多くの人が強い関心と個性的なさまざまの意見を持っていることがわかり、もしかすると出版されたら売れるのかな、と思った。
 原稿は途中まで書いて、そのままになっている。折角完成させても、発売している出版社が見つからないということもあるからだ。先頃、出版社の副社長に「どうしても書いてくれ」といわれて書いた原稿を社長が「ダメだ」といって出版されなかった痛い体験をしている。

 今回寄せられたコメントのなかには、私が「団塊世代で、その世代はろくなことをしていない」というものもいくつかあったが、正確にいうと「団塊世代」とは一歳ずれている。〝プレ団塊世代〟である。しかし、大学へは一浪して入っているので、〝一歳下の団塊世代に同化〟してしまっているから、団塊世代にくくられても間違いではないだろう。
 団塊世代については功罪相半ばし、私はある出版社の編集者から『団塊世代の青春時代』を本にしたいといわれて長い歳月をかけて原稿にしたが、本にならなかったことがある。
 そういうことがあるから、言葉遊びの本も、出版社が決まってから全部を完成させないと、ただ働きすることになってしまう。水嶋ヒロのように、いきなり処女作が売れて億という金が入るというニュースを見て、「作家は儲かる」と思った人もいるだろうが、そういう人はごくごく一部である。圧倒的多数の作家連中は、本が売れず、苦しい生活を余儀なくされている。それが実情だ。

 今、電子書籍が話題になっているが、私のケースでいうと、最新の電子書籍の小説『けさらんぱさらん――小さな恋の物語』(いるかネットブックス)の売値は315円である。400字詰め原稿用紙にして80枚の作品だから、1枚(400字)あたり4円弱だ。『グッバイ! 戦闘服の少女』(いるかネットブックス)も、同じ値段である。
 これらは書下(かきおろ)しではなく、昔、小説誌に掲載されたものに加筆して電子化しているので、二次使用ということになる。「一粒で二度おいしいじゃないか」と思う人がいるかもしれないが、1冊売れると著者には10%の印税が入ってくるだけだ。100冊売れてたったの3150円にしかならない。電子書籍が1000冊、1万冊と売れることは、現在の状況下ではそうそうあることではない。
 何がいいたいかというと、ごくごく一部の人を除いて、作家なんて儲からない職業だということだ。

 儲からない職業の私が書いている日本語の遊びの原稿内容は、「ダジャレ・諷刺・小咄・謎かけ・とんち・語呂合わせ・川柳・狂歌・和歌・俳句・落書き・地口・軽口・回文・道歌・早口言葉・かぞえ歌・手まり歌・絵かき歌・歌舞伎・パロディ・ギャグ……ことば遊びのオンパレード。近松門左衛門から柳亭痴楽、金太の大冒険まで。そこへ著者の創作が加わり、微笑、爆笑、コンチ苦笑!? 前代未聞のことば遊び」といったことである。
 私のジョークに関するセンスを云々するのは、それを読んでもらってからお願いしたいが、現時点では出版されるという保証はないから、目に触れずに終ってしまうかもしれない。

 私は2chの愛用者ではないから、書き込みをしたことは一度もないし、今後も書き込むつもりはないが、必要なときには片っ端から読む。
 (今回、私の名を使った「早稲田大学出身で作家の城島明彦と申します。私の芸名を汚さないでください」という書き込みがあるが、誰かが勝手に書き込んだものであり、誤解を生じるので、こういうのは悪意があってよくない。それに、物書きの場合は、芸名ではない。筆名というのが正しい。別に芸名を汚すなどと思ったこともない。汚すほど自分が高名な作家でないことは、私自身が認識している。私は、ソニーのサラリーマンを30代半ばで辞めて以降、ただ文章だけを書いて(ときには講演や講義もし)細々と生活してきた〝売文の徒〟である。そのレベルの物書きに過ぎない)

 かつて『ソニー病』(共著)という本を書いたことがあるが、ソニー病という表現は、そのとき2chで見つけ、「うまいことをいう」と思い、出版社に提案し、そのまま書名にした。
 日本郵船の120周年記念本『船と船乗りの物語』を書いたとき、版元が倒産したが、そのときにも2chで調べた。当時の細かい内容は忘れたが、知り合いのフリーの編集者と雑談していたら、「とっくに終わった自分の仕事のギャラがまだ支払われていない」というので調べたのだ。
 どういうことが書かれていたかは覚えていないが、ほかにも何人かギャラ未払いの人間もいたので、私は版元の社長に「そういう噂があるが」というメールを送った。
 すると、「あらぬ風説が流れる可能性があるので、訴えることもしなければならなくなる」といったような文面の返事が来、私の印税が振り込まれてきた。同社が倒産したのは、それから間もなくのことだった。
 その本は、横浜にある日本郵船の博物館で長く売ってくれるということだったので、喜んでいたが、絶版になってしまった。その版元で仕事をしたたくさんの物書き、編集者、デザイナーは、ただ働きで終ったことを後になって知った。私は管財人の弁護士に電話して話を聞いた。

 その後、2chに「その版元の社長は、財産を事前に安全なところに移し、計画倒産した」という書き込みがあった。
 私は2chの匿名性を否定する者ではない。しかし、今回の「さかなクン」の件では、私自身のブログに書いているのであり、反論は大歓迎だが、それにコメントする際は、下品な言葉づかいや、たとえば「このアホ」といった書き方は遠慮してもらいたいと考えている。
 面と向かってはいえないような品性下劣な物言い、メールアドレスを明かすとマズイと考えるような中傷、書き手の文字変換ミスや校正ミスを含むちょっとした誤記とかケアレスミスなどを、あたかも鬼の首でもとったかのように指弾することは控えるのが礼儀だと考えるのは、私以外のブロガーでも同様だろう。

 日本語の遊びの原稿のなかに、寄せられたコメントを紹介するにしても、匿名では許可の取りようがない。匿名ということは引用OKと解釈することになるが、どういう職業の人で、どういう経験からそういう意見をいっているのかといったことを知りたいところである。

 私は、最近、「料亭気楽」という名で、知りあいの人が参加しているホームページにいくつかの小咄を書き込んだ。こちらの方は、芸名といってもよいかもしれない。
 料亭気楽が昭和30年代から40年代にかけて活躍した落語家「柳亭痴楽」の「綴り方狂室」のもじりであると気づく人は、かなりの年配だろう。
 柳亭痴楽の「恋の山手線」に習って、つくった拙作「家電メーカーづくし」。

   男はみんな、おっパイオニアキヤノンよね (※おっぱい好きよね)
   わたしのオツム おリコーじゃないけれど (※利口)
   おっぱいフジに発育中 (※無事)
   コニカミノルタ わたしのブラザー(※こんなに実った、ブラジャー)
   なさソニーで ありそなFカップ あら東芝しょ (※なさそで、どうしましょ)
   お日立短い おじいサンヨー じっくり三菱よいけれど (※老い先、さんよ、見るのは)
   おならをシャープっじゃ 車内混乱パナソニック (※プー、パニくるわ)

 なんだ、ダジャレはという批判もあろうから、多少真面目なものも。「やきものづくし」。

   人生(らく)ありゃ 九谷(くたに)もあるさ (※楽焼)
   オイラの財布にゃ お薩摩がない (※札)
   大谷変だ! 色磁器かけだぜ (※おお大変)
   常滑(とこなめ)上手な 若後家に (※床)
   有田ガネすられて 瀬戸際だ (※有り金)
   ど丹波で 伊万里に見てろは 伊賀痛い (※土壇場、今に、胃が)
   つらい浮き世の 信楽(しがらき)に (※しがらみ)
   備前も今も どが出ない (※以前、度胸)
   ここらで人生 織部いか (※降りべえか)
   死んだほうが 益子だと (※まし)
   心にしみるぜ 唐津ッ風 (※空っ風)
 
 ほかにも小咄を含めてダジャレやシャレもいっぱいあるが、ここではこれだけにしておく。
 こういうことも含めて日本語の面白さに関心のある人は、本になったら読んでほしい。
 (注)本ブログへのコメントは受け付けられない設定にしています。

(城島明彦)

2010/12/24

主婦は大桃に同情、麻木は〝したたかな女〟と思われ、タレントとしての危機に立った

 大桃美代子が、クリスマスイブの午後3時過ぎから記者会見するのを、日テレの「ミヤネ屋」が中継した。
 大桃は、芸能記者の質問に考え込む場面も時折あったが、冷静な応対ぶりに終始し、気丈な印象を与えた。
 
 話は単純で、大桃の元夫で、APF通信社を経営する山路徹という男が二股かけていたことに大桃が長い間気づかず、一か月前にやっとそのことを知って動揺し、素知らぬ顔をして自分に接して続けていた麻木久仁子に怒りが爆発。その感情をツィッターについ書いてしまったというだけの話。

 大桃は別れたくなかったが、タレント活動を続けていたために、主婦としての仕事ができなかったことで自分にも非があると思って、離婚を承諾したのだったが、離婚原因はそういうことではなく、麻木という女ができたためだったと今になって知ったのである。
 
 記者会見中に、ある記者が、爆弾発言をした。「麻木は、大桃の亭主だった男と結婚していた」というのである。

 これが事実とすると、すでに麻木は記者会見しているが、そのことには一切触れていなかったから、「麻木は平気で嘘をつく女」「したたかな女」という印象を与え、現在の彼女のイメージ(離婚はしたが、子どもを抱えて頑張っている健気なイメージ)を覆すことになる。
 主婦たちは、亭主を略奪して家庭を破壊した女を毛嫌いする。麻木は、そういう女と見られることになったのだ。
 麻木が数多く顔を出しているクイズ番組は、家族で見ることが多いので、テレビ局も困るだろう。
 
 麻木および麻木の弁護士は、すでに婚姻関係は破綻していたから「不倫ではない」といっているが、大桃は、まだ婚姻関係にあった時期だから不倫だと考えるといい、争点が対立している。

 民法では、浮気相手の女(この場合、麻木)が、男が結婚していることを知っていて、その男と継続的に肉体関係を持つと、妻はその女を訴えて損害賠償を請求できる。
 それを逃れようとして、麻木は「(戸籍上は夫婦でも、大桃と山路の)夫婦関係はすでに破綻していたと(男から)聞いている」と話したのではないかと疑われ、主婦たちから総スカンを食うことになる。
 (芸能記者はたくさんいたが、「損害賠償できる」という点を誰も口にしなかったのは、読みが浅い)

 主婦たちは、大桃が別れた元夫を今も思っている気持ちを知って、大桃に同情するだろうが、テレビ会見での彼女の気丈すぎるような応対ぶりはマイナス点になったかもしれない。
 
 大桃は自分でその弁護士と話をするというが、麻木は今後は弁護士を立てて話し合うといっている。この点でも、大桃の方が支持されるだろう。
 対する麻木は、「弁護士の知恵を借りなければ弁明できないのか」と主婦たちに思われかねない。
 弁護士などの助けを借りず、3人で話し合って、その結果を公表する方がいいのではないか。

 山路徹という男は、美女二人を手玉に取る〝モテモテ男〟という印象を与えたが、「事務所の家賃から車から私が出していた」と麻木にいわれてしまっては、男として立つ瀬がない。
 大桃は、今でも仕事の相談に乗ってもらっているといっていたが、「仕事の相談に乗る」といって、女とできてしまう男は、世の中に掃いて捨てるほどいる。
 山路という男がそうだとは断定できないが、その手の男は、「あいつより、こいつの方が金になる」と思うと、次々と女をとっかえる性癖があることが多い。
 
(城島明彦)

主婦層の反発を買う「桃」VS「麻」(大桃美代子VS麻木久仁子)不倫バトル

 麻木久仁子の不倫騒動では、私の友人が彼女の所属する会社の経営者の一人なので驚いた。

 「ショックだったのは、元夫が麻木久仁子さんと不倫をしていたことがわかったこと。先輩として尊敬していたのに、ショック(絵文字)どうして(絵文字)辛い」(大桃のツィッターより。現在は削除されている)
 
 本件では、麻木が不倫していたことを2か月半も前にネットに書いていた者がいた。しかも相手の実名まであげていた。テレビや週刊誌の取材陣は、何をしていたのか!?
 書き込みを原文のまま、以下に紹介する。


1 名前:うらない京 ◆uk//x.xSm6j9 [] 投稿日:2010/10/09(土) 01:05:39.39 ID:6QJvtnGr0 ?PLT(12001)
ミャンマーでのカメラマン銃殺事件の、実質的に長井さんの背中を押し、死語は英雄気取り。社員としての保証もせず追悼文でごまかし、
私からの公開質問に一言も答えられないビデオジャーナリスト山路徹氏@yamajitoru。現役愛人 麻木久仁子のお小遣いでは、たりないか。寄付懇願は詐欺濃厚。
http://twitter.com/hga02104/status/26717430692

ご本人にも確認しています。故-梨本勝さんも。あのさ、根拠なしに、また公共的批判価値なしに私は何かを書きたことは一度もありません。
あなたこそ名誉毀損だよRT @shin403 @hga02104 麻木久仁子を(山路徹の)愛人呼ばわりしてますが、確証あるんですか? 名誉毀損では?
http://twitter.com/hga02104/status/26756098909


 反論しているのはノンフィクション作家だが、今頃、恥じているのではないか。
 大桃は、この記事のことを自分で知ったのか。それとも、誰かに教えられて知ったのか。
 大桃は本日(12月24日)午後3時に記者会見すると発表したが、どこまで話すのだろうか。

 それにしても、麻木久仁子48歳、大桃美代子45歳。どちらも、インテリを売りものにしている〝こぎれいな〟オバさんタレントである。
 亭主が浮気していたことを知って頭に血がのぼった大桃や、「私は浮気とは無縁です」と取りすました顔つきでテレビに出ていた麻木は、タレントだけに実年齢より見た目が若々しい。しかし、どちらも色ボケだった。

 「麻木久仁子に亭主を寝取られた」
 とツィッターでつぶやいてアメリカに逃げた大桃。

 男は49歳。APF通信社というところの社長という肩書きの男がテレビの芸能ニュースに映り、「悪いのは私です」というのを見て、「この男、どこかで見た顔だなあ」と思った視聴者は案外多かったのではないか。
 それもそのはず、この男、2007年9月にミャンマーで取材していて反政府軍に射殺され。大騒ぎになった長井健司カメラマンが所属していた会社の社長として、当時、頻繁にテレビに出ている。
冒頭に掲げたツィッターの「長井さん」というのは、この故長井氏のことである。

 通信社の社長は、去る11月7日にタイ国境に接したミャンマーで、同国の警察に「不法入国容疑」で逮捕され、ブタ箱にぶち込まれるという事件を起こし、このときもテレビのニュース番組に顔が映った。体を張っての取材姿勢はたいしたものだが、状況判断を誤っては元も子もない。日本大使館にも迷惑をかけている。
 大桃や麻木は、そういう生き方にひかれたのだろうか。

 大桃と麻木には、いくつかの共通点がある。
 第一の共通点は、名前の古さである。
 美代子という芸名の女優やタレントで頭に思い浮かぶのは、歌手の田代美代子、女優の赤座美代子、そして浅田美代子だ。私にも美代子という名前のおばが一人いるが、彼女は大正生まれである。
 平尾昌章の「ミヨちゃん」がヒットしたのは昭和30年代半ばだ。
 田代美代子は、昭和30年代半ばから40年代にかけて活躍した歌手で、和田弘とマヒナスターズとのデュエット 「愛して愛して愛しちゃたのよ」(昭和40年)が大ヒットして有名になった。この美代子は、ボーカルの松平直樹と不倫関係になってしまったことが発覚してファンが離れていった。
 赤座美代子は、私の母校(三重県立四日市高校)の先輩の映画監督、故藤田繁八の奥さん。
 赤座も田代も戦前の生まれである。
 「赤い風船」でCBSソニーからデビューしたオンチの浅田美代子は、昭和31年生まれ。昭和48年に人気テレビドラマ「時間ですよ」に出演し、人気が出た。

 対する麻木久仁子はというと、久仁子という名前で思い出すのは、歌手の大形久仁子だ。色っぽい感じの歌手で、雰囲気が園まりに似ていた。
 こっちの久仁子も、何の因果か、美代子と縁が深い。
 田代美代子と同じ和田弘とマヒナスターズとデュエットした「私って駄目な女ね」(昭和43年)がヒットして有名になったのだ。しかし、その後、パッとせず、のちに内田あかりと芸名を変えて、「浮世絵の街」でヒットを飛ばした。

 このように、美代子・久仁子は、今では特別な意図でもない限り、生まれた子供にはまずつけない名前だ。二人は、「○○子」という名前をつけた〝ほとんど最後の世代〟といってよいだろう。
 つまり、一昔前の名前ということだが、このことは決してマイナスではない。若い連中には、人生を知っているというイメージを与え、プラスに働いている。

 第二の共通点は、顔つきである。どちらも日本的だ。
 麻木の顔は、高峰秀子(夫は映画監督・脚本家の松山善三)、原日出子(夫は俳優の渡辺裕之)と似ている。いわゆる奥二重の目をした古風な感じの顔つきである。
 高峰秀子も原日出子(離婚暦あり)も家庭円満という印象が強いが、麻木は離婚していた上に、今回の一件が加わり、そういうイメージとは無縁になった。
 大桃の方は、目が大きく、ふっくらした下ぶくれ型の、これまた古風な顔だちだが、妙な男と夫婦だったということが世間に知れて、大きくイメージダウンすることになった。

 第三の共通点は、「知性」を売りものにしている点だ。二人はライバルなのである。
 麻木は、漢字クイズなどで頭のいいところを見せているが、どこまで本物なのかは疑わしい。
 クイズ番組では、演出上の観点から、あるいは視聴率アップのために、特定の出演者に事前に答を教えたり、  「そこでは、知っていても間違えろ」などと指示したりするのは当たり前なのだ。
 大桃は、「週刊宝石」(廃刊)紙上で書評を担当していたことがあるが、自分で読んでいないことがわかって問題になったことがある。
 知性が売りものといっても、所詮そのレベルであり、知性が「情痴」とか「痴情のもつれ」というときの「痴」が絡んだ今回の事件で、「痴性」を疑われることになった。

 大桃は、NHKのクイズ番組に長いこと出ていた。そういう誇りがある。
 最近はクイズ番組花盛りだが、声がかからず、カリカリしていた。
 ところが、同じ知性を売りものにした3つ年上の麻木は、あっちこっちのクイズ番組に引っ張りだこである。
 「なぜNHKに出ていた自分ではなく、麻木なのか」と悔しい思いをしていたところへ、あろうことか、元夫が、別れる前に麻木と不倫関係にあったと知って激高したのである。
 熟慮した上での計算づくか、一時的な激情からかはわからないが、大桃は、自分も傷つくことを承知で、素知らぬ顔でテレビに出ている麻木にダメージを加えたかったのではないか。

 今年は、きぜわしい時代に逆行する〝超スローなしゃべり方〟の戦場カメラマン渡部陽一が人気者になった。
 テレビでは、巨デブのマツコ・デラックスなどのオカマたちが堂々と出てご高説を垂れる。テレビは、いつのまにかお茶の間を新宿二丁目にしてしまった。世の中にはオカマを気持ち悪がっている人間だっているのだが、テレビの世界はそういうことなどいっこうにおかまいなしだ。
 もっとも、昭和40年代でも日テレの「11PM」(イレブン・ピーエム)あたりは〝チン切り第1号のオカマ〟カルーセル麻紀を使ったりしていたが、それは深夜番組などごく一部に限られており、今のように、家族で見るテレビ番組に新宿二丁目で活躍しているオカマ連中が堂々と出演するということはまずなかった。
 
 そういうことも含めて、今の時代は何もかもがおかしい。
 こういうことをいっている私自身がおかしいのか?

(城島明彦)

2010/12/20

シャープ「ガラパゴス」とソニー「リーダー」と電子書籍『けさらんぱさらん――小さな恋の物語――』

 電子書籍読み取り機は、外国勢のアップルの「iPad」とアマゾンの「キンドル」が先行したが、ここに来てソニーが「リーダー」を、シャープが「ガラパゴス」を国内同日発売(12月10日)し、これにより日本でも、2010年が「電子書籍元年」ということになった。

 アメリカはタイプライターの国で、手紙を書くのも印刷された文字を使ってきたから、電子書籍を端末で読むことに岩感を感じないようだ。

 私は、日本語も英文のようにタイプライターで打ちたいと思っていたので、1980年頃だったと思うが、和文タイプライターを買って使い始めた。
 しかし、やたら時間がかかり、2、3年もすると個人向けのワープロがポツポツ出始めたのを見て、売った。

 小学生のとき、先生が刷って配ってくれるガリ版刷りの、手書きと違う魅力にひかれたものだった。
 高学年になって、学級新聞のようなものを手伝うことになって初めて自分で鉄筆を握り、油紙にガリガリと字を書いた。親父が教師をしていたので、家で試験問題をガリ版で作っているのを何度も目撃していて、やらせてほしいとたのんだことが何度もあったが、許してもらえなかった。

 だから、学校の教室で放課後に初めて鉄筆を握ったときは興奮した。

 大学生になって、友人と同人雑誌をガリ版を使って印刷し、売った。

 雑誌や新聞の活字は、ガリ版とは違った高みにある憧れであり、 自分の書いた文章が活字になるということは夢のまた夢という感覚だった。

 しかし、今は誰でもパソコンを使って自分の書いた文章を活字にできる。だから、活字に対する憬れなどというものは失せてしまったのかもしれない。

 本が売れない、未曾有の出版不況という現象のいちいんは、そういうところにもあるのかもしれないと、ふと思う。

 ソニーとシャープが同時発売で思い出すのは、電卓である。1964年3月に同社は世界初の卓上型電卓を発表したのだが、その後、ソニーは撤退し、シャープはIC電卓の開発に成功し、のちの電子手帳のひとつに結びつけるのである。
 対するソニーは、ICつまり半導体の生産そのものから撤退し、パソコン進出に遅れをとることになった。

 当時はエレクトロニクス業界に〝3S〟が存在したが、サンヨーの自滅で、日本の電子書籍端末市場は2Sがリードして行くことになるのかもしれない。

 我田引水ではあるが、シャープとソニーが電子書籍専用端末を発売した1週間後に、私の電子書籍『けさらんぱさらん――小さな恋の物語――』がたまたま発売された。

 これは、私がソニーに在籍していた時代(正確にいうと1983年)に文芸春秋の小説誌「オール讀物」の新人賞を受賞した短編小説であり、発売時期のタイミングをひそかに喜んでいる。
 自慢めいたことをいわせてもらうなら、この入賞で私は、まがりなりにも、ソニー史上初の文学賞受賞者ということになった。

 入賞作品の題名は「けさらんぱさらん」だけだったが、今回、電子書籍化するにあたって、内容をわかりやすく伝えるためにサブイトルを加えた。
 400字詰め原稿用紙にすると80枚になるその話は、簡単にいうと、「三流の電気会社の宣伝マンと七色の声を持つ女性DJが、『けさらんぱさらん』を介して展開するラブストーリー」である。

 「けさらんぱさらん」というのは、動物なのか植物なのかよくわからない伝説上のナゾの生き物で、タンポポの白い羽毛のような形状をしており、おしろいを食べて成長し、子孫を増やすといわれ、これを持っている者は幸せになれるという。
 私は、これを「ケ・サラン・パサラン」という古代のスペイン語だとし、「何かが来る、何かが通り過ぎる」という意味であると設定した。

 この短編はこれまで拙著には収載されなかったから、雑誌掲載時に入選作を読んだ人以外は読めなかったが、今回電子書籍になったことで気軽に読んでもらえることになった。

 短編小説や掌編小説は枚数が短いために、これまでは、それ単独では本にならなかったが、電子書籍の時代になって単独で発売できるようになった。これも、電子化による出版革命といえるかもしれない。
 以下はPR.。電子書籍「けさらんぱさらん」(いるかネットブックス)は315円。

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(城島明彦)

2010/12/18

「さかなクン」に「さんをつけろ」という近頃の若者の日本語感覚の異常さと、それを認めたNHKのバカさ加減

 NHKの広報局がツイッターで、絶滅種の魚「クニマス」の発見者を「さかなクン」と書いたことに対し、読者から「さんづけで呼べ」という苦情が殺到した、と「J-CASTニュース」(12月16日発信)が伝えていたが、〝さかなクンチ〟を本名で呼ぶときは、「宮澤正之さん」と呼べばいいのであって、そうでないときは「さかなクン」だけでいいのである。

 「殿様」というニックネームの人がいるとして、これに「さん」をつけたり、「氏」をつけたりしたらおかしくなってしまうのと同様、「さなかクンさん」は日本語としておかしい。
 
 先生にさんをつけてもいけない。「山田先生さん」というのは、かえって失礼になる。

 「さかなクン」にはすでに「君」を連想させる「クン」という敬称がついている。したがって、さらに「さん」をつけると、日本語としておかしいだけでなく、敬称としても滑稽である。
 「さかなクンちゃん」と呼ぶのもおかしい。
 「アグネス・チャン」の例もある。親しみをこめたつもりで、「アグネス・チャンちゃん」と呼ぶのは日本語としておかしく、からかっているかのような印象を与えかねないので、「アグネス・チャンさん」と呼ぶのが普通。

 そういうこともわからずに、文句をいう日本人(おそらく若者だろう)がいるということが、おそろしい。
 J-CASTニュースには、「さんをつけろよ、デコ助野郎」「さかなクンさんは芸人じゃねーし」などというクレームの言葉が引用されている。
 自分の知識のなさ、常識の欠如を棚にあげて、こういう下品な言葉づかいで、匿名で批判する非礼で最低な輩が増えている。

 文句をつけたり、相手を名指しで批判したりする場合は、匿名ではなく、堂々と名乗って論を張るのが礼儀であり、責任というものである。

 一方、NHKの広報局も、直ちに謝罪したとは情けない。日本語の放送にかかわる仕事をしていながら、どういう日本語のセンスをしているのか、と疑いたくもなろうというものだ。

(城島明彦)

2010/12/16

今の日本がダメなのは、「男いのちの捨てどころ」がないことではないのか

 平成22年もあと少しで終わりになるが、平和ボケした日本人も、尖閣諸島沖の中国漁船事件、北朝鮮の韓国砲撃事件などで、「戦争」ということを多少は意識したのではないか。

 私は過去の戦争を肯定する者でも、好戦派でもないが、戦前に生きた私たちの親の世代は、誤った教育で誤った思想を吹き込まれていたとはいえ、「国のため、妻や子のために領土を守って戦うのが日本男児だ」と思って、死地におもむいた。
 「日本は、俺たちが命をかけて守るに値する国である」
 と思っていたからこそ、そういう生き方を受け入れた。
 
 だが、、今の日本はどうか。
 売国奴や実行力の伴わない評論家は掃いて捨てるほどいても、国のために、日本の領土のために、わが命を捨てようとする者などいやしない。

 11月頭にロシアのメドベージェフ大統領が、いきなり国後島を訪れた強引さに腹を立て、無策だった日本政府のふがいなさにもっと腹を立てた人は多かったが、ロシア(ソ連)という国は、もともとそういう国である。

 第二次大戦でも、日本の敗戦間際に日ソ不可侵条約を一方的に破って満州国境を突破し、心の準備のない大量の日本兵を殺戮し、生けどりにした者はシベリアへ送って強制労働を課した。
 そして戦勝国の一員として、樺太をぶんどり、国後、択捉などの4島を自国領とした。
 一言でいうと、〝機を見るに敏(びん)〟、あるいは〝非常に要領のいい奴〟である。
 
 メドベージェフが国後島へ行ったというニュースに接したとき、私は、中学1年の夏休みに祖父の家の蓄音機で聞いた古いレコード(SPレコード)のことを頭に思い浮かべた。
 小野巡(めぐる)が歌った「守備兵ぶし」という戦時歌謡曲だ。
 家には、ずいぶんたくさんのSPレコードが残っていたが、それでもめぼしいものは長女が嫁ぐときにもっていったとかで、クラシックも流行歌も、子どもが聞きたいと思うような曲はほとんどなかった。
 そのなかで、繰り返し聞いた曲が2曲あった。上原敏(うえはらびん)の「妻恋道中」と、この「守備兵ぶし」だった。

 「守備兵ぶし」は、戦時歌謡曲で、ソ連と満州との国境警備に当たっていた兵隊がテーマである。
 この曲は、昭和11年(1936年)春の発売で相当ヒットしたらしい。私は戦後生まれなので、どれぐらいヒットしたかの実感はない。

 最近、you tubeに「守備兵ぶし」がアップされているのを見つけ、久しぶりに聞いてみた。
 歌手は小野巡(めぐる)で、作詞者は佐伯孝夫である。巡という変わった名前は芸名だが、元巡査ということで命名されたようだ。
 
 詞のなかには、「二年余月」(ふたとせよつき)、「男命(いのち)の捨てどころ」、「桜花(さくらはな)散る夢を見る」という美しい日本語がある。

 佐伯孝夫は、のち作曲家吉田正とコンビを組み、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」や吉永小百合・橋幸夫のデエット「いつでも夢を」など、数えきれないほどのヒット曲を生んだ名作詞家だ。

 「守備兵ぶし」の詞も、さすが佐伯孝夫という感がある。作曲は「涙の渡り鳥」でヒットを飛ばした佐々木俊一。佐々木俊一の作品には、「高原の駅よさようなら」「島の娘」などもあるが、早世した。

 「守備兵ぶし」には、今日ではまず使うことのない「匪賊」(ひぞく。中国人ゲリラで「馬賊」のこと)、「皇国」(みくに)、「背嚢」(はいのう。リュックサック)などという言葉があるのは、時節柄、仕方がないことだ。

  雪の満州に 夕日は落ちる
  故郷(くに)じゃ父さん 達者でいてか
  匪賊(ひぞく)退治に 手柄を立てて
  僕も上等兵に なりました

  故郷(くに)を離れて 二年余月(ふたとせよつき)
  命捧げて 皇国(みくに)の守り
  どうせ生きては 帰らぬ覚悟
  男命(いのち)の 捨てどころ

  雪が降る降る
  積もりもせずに
  耳が千切れる満州吹雪
  凍る銃剣 嘶(いなな)馬も
  苦労ともすりゃ なお可愛い

  更けて冷たい 国境警備
  見せてやりたや 雄々しい姿
  銃を抱(いだ)いて 背嚢(はいのう)枕
  桜花(さくらはな)散る 夢を見る

 この曲に関心のある方は、you tubeでどうぞ。

 そして、この曲を聞きながら、「国の守りとは何か」を改めて考えてみては、いかがか。

(城島明彦)

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