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2010/06/07

本当にあった怖い話――〝日本初の全裸女優〟前田通子の手記『女優稼業の裏通り』

〝日本映画史上初の全裸女優〟としてその名を残した前田通子(まえだみちこ)は、「裾まくり事件」(時代劇に出演中、監督に「裾をまくれ」と指示されたが、不自然だと拒否して、所属する新東宝をクビになった事件)をきっかけに、「六社協定」(東宝、大映、松竹、新東宝、日活、東映が結んだ専属俳優は他社映画には出演できないとする協定)の〝しばり〟にあって、以後、映画に出演できなくなり、ドサ回りをせざるをえなくなってしまう。
そのことをから事件から2年後に、当人が洗いざらいぶちまけた手記が、雑誌『日本』(講談社/昭和35年新年号)に載ったのは、今から50年も前である。
 以下に、その全文を引用する。

●思い切った演出

 グラマー女優ナンバー・ワンとかハダカ女優とか呼ばれ……自分自身でいうとちょっとおかしなものですが。たしかにファンの皆様からはこう呼ばれていた私でした。
 よく「はずかしいだろう」ととりざたされますが、私自身、いまでも後悔はしておりませんし、もっと意欲的な仕事をしてみたいとも思っているくらいです。
 私は「女真珠王の復讐」で志村(敏夫)先生に「どうだい。思いきって体当たりしてみないか」といわれたときのことを、いまでもはっきりと思い出します。(城島注 「女真珠王の復讐」は、前田が日本映画初のヌードシーンを演じた昭和三十一年公開の映画。志村敏夫は、戦後、新東宝の設立に参加、監督となり、嵐寛寿郎、森繁久弥、宇津井健が主演した映画ほかを撮ったが、前田の事件で、ともに同社を去った)
 当時、新東宝は、不況のどん底でした。(城島注 新東宝は昭和二十三~三十六年まで存続した映画会社で、男優では菅原文太、丹波哲郎、宇津井健ら、女優では高峰秀子、池内淳子、大空真弓らが専属だった)
「もうすぐ、つぶれるだろう」
 そんな無遠慮なウワサまで、私の耳に入ってくるほどでした。
 当時――昭和三十年のことです。私も、必死でした。新東宝に入ったばかり。何とかしてメを出さねばダメだと思いつめていたときだったのです。
 私は社長に呼ばれました。
「しっかりやれ。これから力を入れて売り出してやる。会社の調子はよくない。ここで世間の目をひくような企画をせねばいけないときだ。そこを君も考えてくれ」
 いわれた私は、ようやく、ハダカということの重大さに、胸をおののかせたものでした。
 岩の上で全裸のアップ・シーン。波打ちぎわのあられもない私の姿……いまから考えると、よくやれたものだと感心するほどです。
 こうして、映画はヒットしました。〝新東宝のために〟と思った私の気持が通じたのかもしれませんが、私の心の中には何か安堵感というものがわきました。
 そして、そのときから、グラマー女優という冠詞が、私にかぶせられたのです。

●無意味なおじぎ

しかし、そのときの私と、いまの私……思うと全く、考えもつかないほどの変りようです。いい意味での大人になった私……。
そうしてくれたのは、なつかしい新東宝のいじわるいやり方というのですから、人生は皮肉なものです。
 その私が新東宝、そして映画界からシメ出されたのは二年前の七月三十一日でした。
 この事件はおそらく私の生涯中、わすれられない大事件でした。
 私は加戸野五郎先生の「金比羅利生剣」に出演していました。(城島注 (城島注 「金比羅利生剣」の正式なタイトルは「続若君漫遊記 金比羅利生剣」。加戸野五郎は、東宝の助監督を経て、昭和二十五年に監督デビュー、時代劇の監督が多い)。
 これは時代劇で、私も女だてらにチャンバラをするシーンがあるのですが、そのとき、加戸野先生は私にスソをまくれというのです。
 しかし誰が考えても、立ち回りという動きの激しいお芝居をしていて、しかも、弁天小僧のようにスソをまくれるわけがないではないですか。
 私は先生に質問しました。すると、それが、「口答えするとは何事か。チンピラ女優のくせに!」というわけ。
 私は当時のことをいまここでクダクダしく申しあげません。もう、書きつくされたことですし、また、ファンの方々も〝またか〟とお思いになるでしょうから。……
 しかし、私は、この事件で、このあと、映画界の封建制と申しますか、不合理さ、権力をもっている人たちの横暴、それにへつらう人たち……そういう、映画界のイヤな裏面を、イヤというほど見せつけられ、経験させられることになったのです。
 こういう事件は、二十歳ぐらいの若い私には大へんな負担でした。そしてデビュー作「女真珠王の復讐」を演出して下さった志村敏夫先生にすべてをご相談したのです。
 家に帰っても、母や兄は、
「何といっても、会社と一人の俳優がケンカをしてもカチメはどちらにあるかははっきりしている。社長さんにワビを入れてみてはどうかね」
 というばかり。私としては、最も身近かな家族のものにそういわれるのがいちばんつらいことでした。
 私の家庭は、戦後、朝鮮の京城から引きあげてきた、いわゆる〝引揚者〟です。(城島注 京城は現在のソウル)
「やっとラクになったと思ったのに……」
 と思う、母の気持もわからないことはなかったのですが、私にとっては、〝勝負〟の問題ではないのです。
 女優という立場で、女優の生き方を主張し、そして解っていただきたかったのです。
 そのころ、映画界はまるで、私の悪口で、一パイでした。
「前田は道であってもロクにあいさつもしない」
「前田の口のきき方はなんだ」
「前田は志村のことしかいうことをきかない」
「前田はいままで何をしていたかわからない」
「すぐゴテるからゴテミチというべきだ」
 などなど。
 私は口惜しなみだにくれました。
 これなど、みんな事実無根なのです。
 たとえば〝あいさつをしない〟ということは映画界ではよくいわれ、〝あいさつをしないヤツ〟とラク印をおされると、それだけでもうどんなに才能のある人でもだめなのです。
 ニュー・フェイスが入社して、誰にでもおじぎをしなければダメだといわれ、人がくると思っておじぎをしていたら、ソバ屋の出前もちにまで頭をさげていた――という笑い話はそのために生じたツミのない話ですが、現にこの〝無意味なおじぎ〟のギセイとなって新東宝を去っていった人もあるほどです。
 たとえば辰巳柳太郎さんのお嬢さんの新倉美子さんなどはそのいい例です。ひどい近視であった新倉さんは、ついおじぎを失することも多かったらしく、さまざまな悪質なうわさは、その秀れた素材をも閉め出してしまったのです。 
(城島注 辰巳柳太郎は新国劇の大スターで、本名・新倉武一。辰巳の娘の新倉美子は、日本初の美人ジャズシンガーとしても活躍した。マリリン・モンローに似た少しハスキーな声質で、英語の発音が抜群によかった)

●ゴシップという〝スター・キラー〟

 おじぎひとつにしてからがこうです。その上映画界にはゴシップという〝スター・キラー〟でなやまされます。
 私の場合など、新東宝と衝突したあとは、容赦ないデマ攻勢のためにさんざんな目にあいました。
「前田と志村先生はできている」
「渋谷の旅館長崎であいびきしている」
 なんていうデマにはあきれました。 
 志村先生は私が映画界に入るときもおせわになり、その後、一応、前田通子という名前が世の中に出て、人様の口にされるほどになったのも、志村先生のおかげなのです。
 私にとっては、一番尊敬する恩師でありますし、父を亡くしている私にとっては、父にかわる相談相手ともいえるのです。
 その先生と、こともあろうに、あいびきするとは何ごとでしょうか。
 私と新東宝とはグングン距離ができてしまいました。
 しかし、その間に、一度、仲なおりしかけたときがあるのです。
 このときも志村先生の口ききで、一回大蔵社長におあいしたのです。(城島注 大蔵貢は、元弁士で新東宝のワンマン経営者。女優の高倉みゆきのことを「愛人を女優にしてどこが悪い」といって、ひんしゅくを買った)
「おさわがせしまして」
 というと、社長は、
「親子げんかのようなものだ。あんまり目だつようなことはするな」
 といって下さいました。一応これでケリがついたようなものですけど、これがなぜ、実らなかったかというと、おどろいたことに新東宝の態度が何と〝あくまでも、無駄になったフィルムの賠償金をとる〟というのです。
 そのうえ、私の月給をおさえて、払ってくれないのです。
 こんなこと、あるでしょうか。
 しかも、監督会まで動き出して、
「監督をブジョクするスターはホセ」
 と、ブジョクをしたおぼえのない私をつるしあげ、ホセ(新東宝に帰ってきても、使うなということ)というのですから、私は完全にカチンときました。

●はじまったドサ回り
 
 そのときから私の地方行脚(あんぎゃ)がはじまりました。
〝芸が身を助けるほどのふしあわせ〟
 といいます。
 そのときは、幸も不幸も考えず、ただ食べるためには何かをしなければいけないときだったので考えるヒマもなかったのです。
 新東宝は〝ホシ〟たのみか、いままで働いた分の月給すらくれない、私は当時一本十五万円のギャラでした。
 年間六本契約だったので、九十万円。それを十二ヵ月に割って一ヵ月平均七万円をもらっていたのです。(城島注 この雑誌が発売された昭和三十二年の大卒新入社員の平均初任給は一万三千八百円)
 七月の末日から、新東宝は下さっていません。つまり、一月から六月まで六回はもらっているのですが。この年はすでに四本分働いているのです。
 すると、六十万円は当然いただけるお金ということになります。ところが会社は、約五十万円しか払ってくれない、こんなことってありますでしょうか。
 会社は「損害を払え」といいますが、月給も払わず、最低生活の保障もせず、それで、罰金を払えというのはいかにもヒドすぎます。
 私は、こういう因習にみちた新東宝を背に、一種悲壮な覚悟で、ドサ回りというあまり名誉でない仕事ととり組むことになったのです。
〝ドサ回り〟といっても、はじめからそのつもりではなかったのです。
 松竹からお話があって、
「舞台はいいでしょう。松竹の国際劇場に出ませんか」
 といってくれました。(城島注 国際劇場は、昭和十二~五十七年まで浅草に存続した劇場)
 ところが、新東宝がその松竹に抗議したらしいのです。
 私は、この圧力で、ついに東京の舞台にはまる二年間立てなかったわけです。

●執念深い映画界

 そのころ、マネージャーをしていただいていた小坂さん(小坂一也の実父)の努力で、志村先生は歌舞伎座プロ(松竹傘下)で「無法松一代」をとることになったのですが(志村先生は私のトバッチリで新東宝をやめていました)、日ごろ「君を必ず映画界にカムバックさせてあげる」といって下さっていた先生は、早速、大谷竹次郎歌舞伎座プロ社長に私のことをいって下さり、私は雨の降る日、歌舞伎座にいきまして、大谷さんにあいさつしたのです。(城島注 小坂一也は歌手で俳優、十朱幸代の元夫。大谷竹次郎は、双子の兄白井松次郎とともに松竹を創業した)
 この大谷さんが、面会がおわったあと、おわかれに「前田さん、しっかりやって下さいね」とげきれいして下さいました。
 私は歌舞伎座プロから映画に出ることになったのです。
〝待望の映画にカムバック〟
 ――私は嬉しくてねむれないほどでした。志村先生に感謝、また、ご馳走をして、おいわいをしました。
 しかし、そんなにも喜んだ私が、一週間もたたないうちに、またゲッソリしなければならないとは……。
 歌舞伎座プロの加賀専務もいっておられたそうです。
「どうして使っていけないのかわからない。歌舞伎座プロは六社協定には入っていないし、使ってもいいのだが、ただ松竹からいわれるとね」
 私には判っているんです。
 新東宝の大蔵社長が松竹に申し入れを行なって、それで遠慮をした松竹が、私を使うことをチュウチョしたのです。私は完全に映画界からシメ出されてしまったわけです。
〝こいつをダメにしてやる〟
 といえば、てってい的に困らせる、執念深いやり方、これはなにも、新東宝の場合にだけ通じるということではなくて、映画界全般にいえることで、時代は月ロケットにまで進歩したのに、この旧時代的な人間関係はなかなかなくなってはいないようです。

●雑草のようにいきたい

 私は毎日毎日旅に出ました。
 はじめは大阪劇場という大劇場でしたが、何せ食べなければなりません。
 新東宝がギャラを払ってくれるのをアテにしていたのでは母と兄と私の三人の口は完全に干あがってしまいます。
 私も必死でした。そして「海女の慕情」その他二、三の曲を作曲家の先生方におねがいして書いてもらい、それを持って、回りました。(城島注 「海女の慕情」は、前田通子主演映画「海女の戦慄」の主題歌。この映画のもう一つの挿入歌は、小坂一也の「俺は風来坊」)
 しかし、私のこのひたむきな心は、必ずしも、よい結果ばかりを生んだとはかぎりません。
 それは、思いつめた余り、あせって、ヘンな地方興行師に委任状を渡し、あとで気がつくと、その興行師に、
「君のすべてについて私がマネージする」
 と居直られておどろいたり、また、興行界特有のスキャンダルにもここで悩まねばなりませんでした。
 東北、茨城方面のお仕事でFプロのKさんという方の世話になりました。(城島注 FプロのKさんとは、富士プロの河合敏夫のこと)
 すると、このKさんは私の委任状をタテに、
「将来ともずっと君のマネージをする」
 とまるで、自分のもちものあつかいです。こちらが、軽い気持ちで便箋にサラサラと書いた、それ一回の契約と思って作った不備だらけの委任状をタテに居直られたのです。
 自分のところの〝もちもの〟であるうちは黒も白にしていいくるめ、〝売り込み、一旦、よそのものになると、白も黒にいいくるめる。また、人のもちものは、なんのかんのと、スキャンダルやデマをとばしてケチをつける。これが、芸能界だとするとイヤなことばかりです。
 全部の方が、こんな〝妙な〟人たちばかりというのではありません。貫禄もあり、人格も立派な方も多いのですが、どうもこの種の人が必要以上にハバをきかしているというふうに感じられるのです。
 だけど、これがいわゆる〝世の荒波〟というものなのでしょう。
 たいへん勉強にはなりました。この二年間は、普通人の二十年にも相当するのではないかと思っています。
 沼津や、東京近辺の田舎都市で公演したとき、
「ハダカになれ!」
 とヤジられたり、卑ワイなことばをぶっつけられると、それは泣きたいこともありましたが、その都度、志村先生から、
「いわれるうちがハナだぞ。それがファンの反響だと思って、割り切って歌うんだな」
 と慰さめられました。
 こういう言葉が、ともすればくずれそうになる私の心をどれぐらい救ってくれたことでしょうか。
 いまでは、考えると、二年間の一日一日が夢のように思いうかべられますが、いよいよ東京の興行界の中心浅草の東洋劇場(城島注 現浅草演芸ホール)に出演できたのは願ってもない喜びです。
 私は〝雑草のように生きてきた〟といつも感慨をもってつぶやくときがよくあります。
 いまも私はそうです。芸能界に生き、スクリーンにカムバックしたいと思う私。それならば、どんなに不平をならしても、この因習の中をたたかいぬいていかなければ仕方がない――というのが宿命です。
 私は映画に出演したい、それだけをねがって一生けん命に生きぬくだけです。
「何もあせることはない。何時かきっとボクの手でスクリーンにカムバックさせてあげる」
 志村先生の言葉を胸に、いつまでも、雑草のように生きぬいていくつもりです。
 最後に、皆様のご鞭撻のほどをおねがいいたして、筆をおきます。

 ◆この記事より一年半前に発売された別の雑誌には、ドサ回り期間中の怖い話が具体的に書かれているので、興味のある方は城島のブログの次の記事もどうぞ。
〝伝説のセックスシンボル〟前田通子の手記「私は脅迫されていた」(「特集人物往来」昭和33年6月号)

(城島明彦)


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