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2009/11/11

森繁久彌作詞・作曲の「知床旅情」には、共作者がいた

 北海道旅行がちょっとしたブームになっていた1968年夏、早稲田大学の3年生だった私は、友人2人を誘って「北海道一周旅行」をし、知床半島へも行った。
 北海道を旅行する若者たちの格好は一様で、誰もがリュックサックを背負っていたことから〝カニ族〟といわれた。

 金がない旅行なので、宿泊はユースホステルを選んだ。食事つきで一泊500円。値段が安いだけに食事は質素で、ザリガニが出たときにはさすがに食べられなかった。
 夜になると、キャンプファイヤーを囲んで、みんなで歌を歌った。そのときユースホステルのペアレンツから教えてもらった歌の一つが「しれとこ旅情」だった。
 とても覚えやすい曲で、歌詞が旅をしている者の心に訴えかけるような感傷的な内容なので、心に残った。そのとき、「しれとこ旅情」ができたときの話も聞いたはずだが、忘れてしまった。
 
 私は1970年春に大学を卒業し、東宝に入社して映画の助監督になった。深夜ラジオから懐かしいメロディーが流れてきたのは、その年の11月のことだった。加藤登紀子が歌う「知床旅情」だった。
 この曲は翌71年になるとさらにヒットし、テレビやラジオの歌番組で何週間もトップになり、誰もが知るところとなった。
 この曲は、加藤登紀子が最初に歌ったのではなく、作詞・作曲者の森繁久彌自身がすでに1962年のNHK紅白歌合戦で歌っていたことを知ったのは、その頃のことだった。
 加藤登紀子の歌がヒットしたので、御本家の森繁久彌の歌もリリースされてヒットしたが、こちらのタイトルは平仮名の「しれとこ旅情」。
 
 「しれとこ旅情」も「知床旅情」も森繁久彌作詞・作曲となっているが、そうではなく、最初は「さらば羅臼(らうす)よ」というタイトルで、「共作者がいる」という話は、何人もの東宝の先輩スタッフから聞いた。
 この歌がつくられたのは、1960年製作の東宝映画「地の涯(はて)に生きるもの」の撮影時だったという。

 この映画の原作は戸川幸夫の小説「オホーツクの老人」で、これを読んで感激した森繁久彌が映画化を提案、森繁プロと東宝が共同制作し、久松静児が監督、1960年10月に公開された。
 出稼ぎの漁師たちが去って寂しくなった冬、オホーツク海に突き出た知床半島の浜にある番屋(漁師小屋)で、魚網を食い荒らしに来る鼠の番をしながら猫と暮らしている孤独な老漁師が、往時を振り返る映画である。森繁久彌が主役の老人を演じ、司葉子、草笛光子、西村晃らが共演した。

 「地の涯に生まれたもの」は1960年3月から現地で撮影され、現地の人が協力した。撮影が終わり、ロケ隊が引き上げる前の晩に、ロケ隊が宿泊していた旅館で、地元の人たちとのお別れ会が開かれ、そのとき、ギターの伴奏で森繁久彌が歌ったのが、後日「しれとこ旅情」と改題される「さらば羅臼よ」だったという。そしてその歌をみんなで一緒に歌い、翌朝、ロケ隊は東京に帰ったのだ。

 「さらば羅臼よ」は昔から地元で歌われてきた曲だったが、うろ覚えの人もが多く、詞も曲も不確かだった。それらを取材し、採譜し、採詞したのは吉松安弘という東大出の助監督であった。
 彼は、1973年に「さえてるやつら」で監督に昇進、「陽の当たる坂道」(三浦友和、壇ふみ主演)も監督し、著作に『東条英機の夏』がある。

 この話は、「地の涯に生まれたもの」についたスタッフの間では有名な話で、加藤登紀子の「知床旅情」が大ヒットしたとき、吉松さんは、
 「印税、いくら入った?」
 とか、
 「印税のわけぶん、もらった?」
 などと、よくいわれていた。
 共作した話は、吉松さんがチーフ助監督を務めた映画で一緒になったときに、直接本人からも聞いた。本人は、
「少しぐらいはもらってもいいかもね」
 と笑っていた。
 しかし、森繁久彌がそういう話をしたのを聞いたことはない。

 以上の話は、不世出の大俳優である森繁久彌の評価を下げる目的で書いたのではない。東宝関係者が表立っては誰も書かないので、歴史的事実として残すために書いた。

(城島明彦)

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