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2009/11/30

盛り上がりに欠けた内藤大助VS亀田興毅戦

 さいたまアリーナで11月29日に行なわれたWBC(世界ボクシング評議会)フライ級タイトルマッチは、序盤で内藤がパンチをくらって大差がつき、3-0の判定で亀田が〝遺恨(いこん)試合〟を制した。

 2007年に「ゴキブリ」と皮肉られたことが頭にあったのか、内藤の所属ジムは「倒せ」と指示していたようで、それが裏目に出て序盤でやられることにつながったのではないか。

 ゴキブリのように、わけのわからない動きをするのが内藤の持ち味。それを忘れて、エエカッコさせようとして墓穴を掘った。明らかな作戦ミスだ。
 内藤は35歳。もう一度、亀田と戦うにはトシを食いすぎている。これまで、よく頑張ったが、そろそろ限界が近づいている感は否めない。もっと試合巧者に徹すべきだった。

 テレビ中継では、TBSの中継アナウンサーが最低にして未熟で、興をそいだ。もう少し日本語を勉強したらどうか。
 
 亀田興毅の本がもうじき出るそうだ。
 二週間ほど前、その本にタッチしている私の友人に、
 「亀田も、もういい大人なのだから、あの口のきき方は何とかならないのか」
  というと、
 「私と話しているときは、きちんとした話しかたをしますよ。あれは、ビジネス用じゃないんですか」
 といわれた。その友人は、
 「彼は頭がいいですよ」
 ともいっていた。

 誰かが、あのような口のきき方をしろと指示していたとは思えないが、以前と比べると昨日の応対ぶりは比較的まともになっていた。
 
 世界チャンピオンになったのだから、これからは、もっときちんとした口のきき方をしないと人間性まで疑われることになる。

 スポーツ選手として、子どもがあこがれる言動をしてもらいたいものだ。

(城島明彦)

2009/11/27

張り手をかわせば朝青龍に勝てることを、日馬富士(はるまふじ)が実証!

 朝青龍は〝張り手バカ一代〟である。
 相手かまわず、顔面に張り手をかます。
 「張り手」「張り差し」は横綱相撲ではないと、何度批判してもやめない。
 右手でも左手でも張り手をする。
 横綱は力士の鏡だ。
 よって、下位力士は、朝青龍を見習って、どんどん張り手、張り差しをやろう!

 ブラックジョークはさておき、2009年大相撲九州場所13日目。
 朝青龍は、この日も、バカの一つ覚えのように、立会いざま、対戦相手の日馬富士(はるまふじ)の顔面に右手で張り手をかまそうとしたが、ひょいと体をかわされて、突き落とされ、あっけなく負けた。

 朝青龍と対戦してきた日本人力士はバカぞろいだ。
 これまでまともに張り手を食らって負けてきた。
 張り手で勝てると思って朝青龍は増長し、ますます張り手を使うようになった。
  
 張り手対策は、2つある。

 ①顔を張りにきた方の腕は伸び、脇はがらあきになるから、そこを狙ってサッとまわしを取れば、優位になる。ところが、そういう知恵のある日本人力士はいない。

 ②張り手対策のもうひとつが、日馬富士がやった手口。張り手が顔に当たらないように、ひょいと体をかわす方法。

 どうせ負けるのなら、最初から、ひょいひょいと変わればよい。
 対戦相手が全員、張り手をかわすようになれば、朝青龍も、張り手をしなくなるだろう。

 白鵬は立派な相撲を取るが、それでも、朝青龍に影響されたのか、8日目だったか、張り手を用い、この日は横綱二人そろって張り差しと相成(あいな)った。悪い点をまねてどうする。

 ついでに書くと、大関陥落が決まった千代大海もひどい。日本の国技が泣く。

(城島明彦)

2009/11/25

蒙古襲来と朝青龍・白鵬のオカルト的関係

 蒙古が船で日本を襲ってきたのは、鎌倉時代。
 これを「元寇」といっている。

 元寇は文永年間と弘安年間の二度であった。
 年号の末尾に注目。
 
 文永の役   1274年(文永11年)
 弘安の役   1281年(弘安4年)
 
 朝青龍 入幕 2001年 
 白鵬 入幕   2004年 

 単なる偶然にしては、できすぎていないか!? 
 
(城島明彦) 

2009/11/24

渋谷TSUTAYAに苦言。 「ケースぼろぼろ・解説書なし」の古いCDが、レンタル料同じってヘンじゃないの?

 DVDのレンタルだけで年間(2008年)約8億9000万枚という「CD/DVDの貸出数日本一」の渋谷のTSUTAYAで、賛美歌のCDを借りたときの話。

 カウンターで、「解説が入っていませんけど、いいですか」と聞き取りにくい声で聞かれた。
 しかし、ケースの中には解説書のカラーの表紙絵が見える。
 (ちゃんと入っているのに妙なことをいう)
 と思いながら、家に帰ってケースをじっくり見ると、解説書が入っていないと書かれた丸い小さなシールが貼ってある。
 改めて「妙なことが書いてあるな」と思って、ケースから解説書を取り出し、手にとったら、ややっ!? あるのは表紙と裏表紙だけで、肝心の歌詞や解説を書いたページがゴソッと抜けていた。
 ここで初めて、店員がモゴモゴといった言葉の意味が理解できた。と同時に、腹立たしくなった。
 表紙と裏表紙だけしかないものをなぜ、まぎらわしく、入れているのか!?
 それを抜き取っておけば、解説書がないことが、借りる者に一見してわかるはず。
 一週間の予定で借りたが、早めに返すことにした。返却する前に棚をチェックしてみると、何と、同じCDがもうひとつあった。こちらは、きちんと解説書も入っていた。そのことを知って、また怒りがこみ上げてきた。

 カウンターで店員(女の子)に文句をいったら、
 「入ってないことを了承して借りられましたね」
 と、したり顔で冷やかにいう。
 その言い方に腹が立ち、「責任者を呼べ」と伝えた。
 その子がケータイで連絡して責任者らしき女性が来たので、文句をいう理由を改めて伝えた。

 ①中身が抜けている解説書の表紙と裏表紙だけをなぜ入れておくのか。ケースに注意書きシールを貼っても、入っていると錯覚させるではないか。表紙と裏表紙を抜き取っておけば、一目でわかるではないか。
 ②店員は、貸し出す際に解説書が入っていないと告げたときに、こちらが怪訝な表情を返したのを見て、この客は初めてこういう欠陥品と出合ったらしいと見当がついたはず。なぜそのときに、解説書を取り出して見せ、それが表紙だけであることを示さなかったのか。その点に店員に落ち度がある。
 ②レンタル料金は、解説書も含めた価格(パッケージ価格)として設定されているはず。解説書が脱落しているものは、完全な商品とはいえない。欠陥商品をそうでない商品とまったく同じ金額でレンタルするというのはおかしいのではないか。レンタル価格をその分、割り引くべきではないのか。もし割り引けないのなら、不良品として、なぜ棚からはずさないのか。
 ③棚には、もうひとつ、解説書付きの同じ完成品があった。在庫があることは、レンタルする際、パソコン画面でわかるのではないか。したがって、客に、「もうひとつ、同じ商品があり、そちらは解説書が付いています。そちらにされますか」と打診べきではなかったのか。もし、パソコン画面ではそこまで詳細なデータがわからないというのであれば、「もう一点同じものがあるので、そちらは解説書が付いているかもしれません。確認されますか」というか、店員自身が棚まで行って確認してくるべきべきではなかったのか。
 ④もうひとつ同じ商品があるのだから、なぜその解説書をコピーして、ない方のケースにいれないのか。
 ⑤このCDは1993年発売となっている。十分すぎるほど元は取ったはずだ。なぜ新しいケースと取り替えないのか。TSUTAYAは、ケース一枚をけちっているのかと思われても仕方がないぞ。
  この商品以外にも、ケースが割れていたり、まともに開けにくい商品がかなりある。なかには、爪が折れていて、開けた拍子にCDが落ちてしまうものもある。なぜきちんとチェックし、補修しないのか。
  私の場合、誰が壊したかわからないケースを、テープで補修して返却するようにしている。客にそんなことをさせていることを「恥」と思わないのは、「貸してやっている」「文句があるならレンタルでなく、買え」「このCDは、すでに廃盤になっている。そういうものを借りられただけでもありがたく思え」という思いが、どこかにあるからなのか

 責任者は、柔和に丁寧に応対してはくれたが、ビタ1円まけるとはいわなかった。欠陥商品であるという意識がない証拠である。
 責任者の返答で理解できたのは、どの条項をさしているのかは知らないが、「解説書をコピーするのは著作権法で禁止されている」という返答だけだった。だからといって、解説書のないままレンタルしていいという理由にはならない。

 私以外にも、疑問を感じた人がいるのではなかろうか? 感じても、ガマンしている人もいるのではないか?

(城島明彦)

2009/11/11

森繁久彌作詞・作曲の「知床旅情」には、共作者がいた

 北海道旅行がちょっとしたブームになっていた1968年夏、早稲田大学の3年生だった私は、友人2人を誘って「北海道一周旅行」をし、知床半島へも行った。
 北海道を旅行する若者たちの格好は一様で、誰もがリュックサックを背負っていたことから〝カニ族〟といわれた。

 金がない旅行なので、宿泊はユースホステルを選んだ。食事つきで一泊500円。値段が安いだけに食事は質素で、ザリガニが出たときにはさすがに食べられなかった。
 夜になると、キャンプファイヤーを囲んで、みんなで歌を歌った。そのときユースホステルのペアレンツから教えてもらった歌の一つが「しれとこ旅情」だった。
 とても覚えやすい曲で、歌詞が旅をしている者の心に訴えかけるような感傷的な内容なので、心に残った。そのとき、「しれとこ旅情」ができたときの話も聞いたはずだが、忘れてしまった。
 
 私は1970年春に大学を卒業し、東宝に入社して映画の助監督になった。深夜ラジオから懐かしいメロディーが流れてきたのは、その年の11月のことだった。加藤登紀子が歌う「知床旅情」だった。
 この曲は翌71年になるとさらにヒットし、テレビやラジオの歌番組で何週間もトップになり、誰もが知るところとなった。
 この曲は、加藤登紀子が最初に歌ったのではなく、作詞・作曲者の森繁久彌自身がすでに1962年のNHK紅白歌合戦で歌っていたことを知ったのは、その頃のことだった。
 加藤登紀子の歌がヒットしたので、御本家の森繁久彌の歌もリリースされてヒットしたが、こちらのタイトルは平仮名の「しれとこ旅情」。
 
 「しれとこ旅情」も「知床旅情」も森繁久彌作詞・作曲となっているが、そうではなく、最初は「さらば羅臼(らうす)よ」というタイトルで、「共作者がいる」という話は、何人もの東宝の先輩スタッフから聞いた。
 この歌がつくられたのは、1960年製作の東宝映画「地の涯(はて)に生きるもの」の撮影時だったという。

 この映画の原作は戸川幸夫の小説「オホーツクの老人」で、これを読んで感激した森繁久彌が映画化を提案、森繁プロと東宝が共同制作し、久松静児が監督、1960年10月に公開された。
 出稼ぎの漁師たちが去って寂しくなった冬、オホーツク海に突き出た知床半島の浜にある番屋(漁師小屋)で、魚網を食い荒らしに来る鼠の番をしながら猫と暮らしている孤独な老漁師が、往時を振り返る映画である。森繁久彌が主役の老人を演じ、司葉子、草笛光子、西村晃らが共演した。

 「地の涯に生まれたもの」は1960年3月から現地で撮影され、現地の人が協力した。撮影が終わり、ロケ隊が引き上げる前の晩に、ロケ隊が宿泊していた旅館で、地元の人たちとのお別れ会が開かれ、そのとき、ギターの伴奏で森繁久彌が歌ったのが、後日「しれとこ旅情」と改題される「さらば羅臼よ」だったという。そしてその歌をみんなで一緒に歌い、翌朝、ロケ隊は東京に帰ったのだ。

 「さらば羅臼よ」は昔から地元で歌われてきた曲だったが、うろ覚えの人もが多く、詞も曲も不確かだった。それらを取材し、採譜し、採詞したのは吉松安弘という東大出の助監督であった。
 彼は、1973年に「さえてるやつら」で監督に昇進、「陽の当たる坂道」(三浦友和、壇ふみ主演)も監督し、著作に『東条英機の夏』がある。

 この話は、「地の涯に生まれたもの」についたスタッフの間では有名な話で、加藤登紀子の「知床旅情」が大ヒットしたとき、吉松さんは、
 「印税、いくら入った?」
 とか、
 「印税のわけぶん、もらった?」
 などと、よくいわれていた。
 共作した話は、吉松さんがチーフ助監督を務めた映画で一緒になったときに、直接本人からも聞いた。本人は、
「少しぐらいはもらってもいいかもね」
 と笑っていた。
 しかし、森繁久彌がそういう話をしたのを聞いたことはない。

 以上の話は、不世出の大俳優である森繁久彌の評価を下げる目的で書いたのではない。東宝関係者が表立っては誰も書かないので、歴史的事実として残すために書いた。

(城島明彦)

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