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2009/10/23

南田洋子と「智恵子抄」

 認知症の南田洋子(女優なので、敬称略)が死去する何週間か前に正常な感覚を取り戻した時期があったことから、高村光太郎の詩「「レモン哀歌」を想起する人もいたようだ。
 
 彼女のことを伝えたテレビ番組のなかには、南田洋子の代表作の一つとして、1967年公開の松竹映画「智恵子抄」(中村昇監督)をリストアップしているところがいくつかがあったが、その映画で主演したのは岩下志麻で、南田洋子はそれほど重要ではない脇役にすぎなかった。

 南田洋子の代表作は、大映のニューフェースだった彼女を一躍有名にした「十代の性典」(1953年)であり、その後、日活に移って主演した「太陽の季節」(古川卓巳監督)であると私は思う。どちらも社会的に大きな影響を与えた作品である。

 「太陽の季節」は、石原慎太郎の原作で、「太陽族」なる若者まで生んだ。この映画のもう一人の主演が長門裕之だった。長門の代表作は、「太陽の季節」と今村昌平監督の「豚と軍艦」だろう。南田洋子もこの作品に出ており、彼女の代表作の一つにあげてもいいかもしれない。

 南田洋子は76歳で死に、高村智惠子は56歳で死んだ。死因は南田が「くもまく下出血」で、智惠子は「肺結核」。
 高村光太郎は、智惠子と結婚する以前は、不羈奔放(ふきほんぽう)な生き方をしていた。長門は、結婚後も、好き勝手な生き方をしていた。
 高村光太郎は、彫刻家にして詩人、智惠子は画家だったのに対し、長門と南田は役者だが、広い意味では、いずれも芸術家。
 高村光太郎は智惠子が逝くのを枕辺で見送ったが、長門は南田洋子の死に目には会えなかった。
 智惠子は精神に異常をきたしていたが、時折、正気に返ることがあった点は、認知症で脳の機能が正常に働かなくなった南田洋子と共通している。。
 
 私が以前、高村光太郎と智惠子のことを「です・ます調」で書いた「せつなくも悲しい愛」と題した一文があるので、以下に引用する。

 愛する伴侶(はんりょ)がある日を境に狂人になったら、人は嘆き、悲しみ、途方に暮れます。
 詩人の高村光太郎(たかむらこうたろう)がそうでした。愛妻の智恵子は、家庭の主婦としての仕事に追われ、画家としての仕事に没頭できなくなったことで、葛藤(かっとう)し続け、結婚十七年目にとうとう精神に異常をきたしたのです。
 気がふれる前の智恵子が書いた以下のような詩が残っており、彼女の心の葛藤(かっとう)をうかがい知ることができます。それは次のようなものです。

  我をすてさえしたら
  お互いに自分をおし通すことさえすてたら
  自分をすてきって
  もし人々が愛する事さえ出来たら
  はじめておだやかな
  幸福な世界になるのでせう

 若い人にはピンとこないでしょうが、昔、広沢虎三(とらぞう)という浪曲師(ろうきょくし)がいました。
 彼の得意とする演題の一つに「壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)」という浪花節(なにわぶし)がありました。
 光太郎と智恵子の関係は、そのなかの一節「妻は夫を慕いつつ 夫は妻をいたわりつ」に近いものがあったと著者は思っています。
 光太郎との生活のために彼女は自分の夢を捨てようとしたのです。つまり、自己を犠牲にしたのです。
 死の直前、智恵子はレモンをかじり、そのことで一瞬正気に戻ります。そのときの様子を描いたのが「レモン哀歌」という有名な詩です。

  そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
  かなしく白くあかるい死の床で
  わたしの手からとった一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
  トパアズいろの香気が立つ
  その数滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱっとあなたの意識を正常にした
  あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
  わたしの手を握るあなたの健康さよ
  あなたの咽喉に嵐はあるが
  かふいう命の瀬戸ぎはに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
  あなたの機関はそれなり止まった
  写真の前に挿(さ)した桜の花かげに
  すずしく光るレモンを今日も置かう

(城島明彦)

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