南田洋子の死を報告する長門裕之の耐える姿には共感できた
本日(10月21日)午前10時56分に入院先の病院で死去した女優の南田洋子について、彼女の夫である長門裕之が、午後7時前から10数分間、記者会見する模様をTBSがライブ中継した。
長門は、明治座で10月3日から始まった演歌歌手の「川中美幸特別公演」の午前11時からの「昼の部」に出演していて、妻の死に目には会えなかった。
長門は、午後6時からの「夜の部」の出番を終えて会見に応じた。
「いとしい、大好きな洋子が永眠しました」
といって彼は会見を始め、「いつ南田洋子の死を知ったか」との質問に、
「午前中の公演後、風のように耳に入ってきた。ああ、逝ったんだな」
と淡々と語る姿は、胸を打つものがあった。
今日の長門は、それ以前の彼と違って感情をかなりコントロールしているようだった。共演者に迷惑はかけられないからという理由で、通夜は公演が終わってから行うといい、それまでは妻の遺体を氷漬けにしておくとも語った。
公演の楽日(最終日)は10月29日だが、その前に出番のない日があるとのことで、その日までの「6日間を氷漬けにする」と、そうすることが当然であるかのように冷静にいうのを聞いて、長門の役者魂を見る思いがした。
長門は、昨晩の妻の容態に接して、覚悟を決めていたようだ。
彼は、髯が伸びていたが、まだ生きている妻に何度も何度も頬ずりしたり、キスしたと話した。
普通の人は、そんなことをあけすけに話しはしない。自分の胸に秘めて誰にも話さないものである。
芸能人としての性(さが)・サービス精神がそうさせるのか、あるいは単なる世間知らずなのか。
「植物人間になった洋子は洋子ではない」という見方も示した。
この考え方には異論も多かろうが、私はよく理解できた。
また彼は、「死んだ洋子は好きじゃない」「死んで冷たくなった遺骸(むくろ)は洋子とは思えない」「手を合わせるのは、思い出のなかだけ」とも語った。これが彼の死生感なのだろう。
取材記者もテレビの前の視聴者も、今回は、南田洋子の映像を見ることなく、長門裕之の口を通して語られる彼女の姿を想像したことで、気の毒さがよけい伝わってきたように思う。
南田洋子の意識がまだ残っていた昨日、彼女が長門の手を白くなるまでぎゅっと握っていた、という話も長門はしたが、南田洋子のそういう行為は本能的なものかも知れず、聞く者の胸を打った。
このことを考えると、南田洋子の闘病の映像など公開せずに、闘病の様子を長門が語るだけにしておいた方がよかったと思えてくる。
長門が南田洋子を心底から愛していることは、これまでのテレビ番組を通じて多くの視聴者に伝わってはいたが、認知症になって正常な判断力を喪失した女優を、テレビ画面を通じて、不特定多数の人の目にさらすという行為を私は許しがたいと感じてきた。
そういう経緯はあったが、今日の会見では、長門がぐっと耐えたり淡々と語る場面が多く、そこは共感できた。
長門裕之と南田洋子は、「老老介護」という大きな問題を提起したというプラス面と、彼自身の不思慮から、テレビ局や出版社に利用されて、本来なら浴びなくてすんだ批判を受けることになったマイナス面があった。
●以上は、21日夜8時半ごろ書いたが、22日の午前2時過ぎに一部を書き換え、さらに以下の文章を新たに加えた。
21日の夜11時過ぎにテレ各局が、南田洋子の死去と長門裕之の会見の模様をニュースで流した。どの局も、時間的制約もあっただろうが、長門が顔をゆがめて嗚咽する場面の映像を使っていた。
実際の会見では、そういう場面は極めて少なく、ほとんどはじっと耐えたり、淡々として語ったりしていたのだが、テレビを見た人は、彼がずっと嗚咽したり、涙ぐんだりしていたと思うような「演出」になっていた。
どの局かは忘れたが、通夜は29日で葬儀・告別式は30日と報道していたが、そうであれば、南田洋子の遺骸は8日間も氷漬けされることになる。犯罪や事件でなく、普通の死でもそんなに長く遺骸を置いておいていいのだろか、と気になった。
彼が泣く姿を見ていて、私はあることに気づいた。
女性たちは、長門裕之がやたらと泣く映像を見て、
「あんなに愛されて南田洋子は幸せ」
と思うだろうが、男は違う。
彼は1934年生まれの戦前派である。彼や、彼より一回り下の私の世代は、子供の頃から、
「男は、人前では涙を見せるな。どんないつらく、悲しいときでも、人前で泣くようなことはするな。泣きたかったら、あとで、ひとりになってから、思いっきり泣け」
といわれて育った。
「人前で、女といちゃいちゃするな」
ともいわれた。
たとえ悲しい映画、感動的な映画を観て涙を流したとしても、劇場の明かりがついたら、その涙を人に観られたくないと思うのが、一般的な男ではないのか。
本来なら「妻」とか「家内」とかいうべきところを、彼はずっと「洋子」「洋子」といっている。
名前でいうのは、家族内であるとか、近所の人や親友や友人たちに対してであって、まったく見も知らぬ不特定多数の相手に向かって、「洋子」「洋子」」と名前を連呼するというのは、どうにも理解しがたい。
彼はそういうことを普通と思っているようだが、世間の感覚とはかなり違っている、と私は思った。
(城島明彦)