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2009/10/21

女優大原麗子さんのこと

 大原麗子(女優なので、敬称略)が自宅で孤独死していたというニュースが流れたときには、驚いた。2009年8月6日のことだった。
 当初は、「死亡日時は不明」と報じられたが、行政解剖の結果、3日前に亡くなっていたことが判明した。
 あんなに明るく、誰にも好かれていた人が、誰にもみとられることなく、孤独死し、しかも真夏に3日間も発見されなかったということを知って、つらいいものを感じた。

 (最近、テレビで見かけないが、劇場の芝居にでも出ているのだろう)
 と勝手に推測していたが、そうではなく、「ギラン・バレー症」というあまり耳にしたことのない難病を患い、歩行等が困難で、芸能活動を休止せざるを得ない状況だったことも、報道で知った。

 彼女は私より何歳か年上だと思っていたが、同い年(彼女は1946年11月13日で、私は7月10日の生まれ)だったということも、報道で知った。

 生前の彼女と、私は何回か、仕事場で言葉を交わしたことがあった。もう何十年も前の話だ。正確にいうと、1970年の夏のことになる。
 当時、私は東宝撮影所にいた。「奇妙な仲間 おいろけ道中」(1970年夏製作)という軽妙な喜劇映画に彼女は出演し、私は駆け出しの助監督だったのである。

 私はその年の4月に東宝本社に入社し、7月31日までの研修期間(当時は試用期間といっていた)を経理部門の「出納係」として過ごし、8月1日に希望した東宝撮影所製作部の「演出助手係」に配属されたのだった。

 当時、映画監督になるには助監督を経るしか道がなかったが、映画産業は斜陽化の一途をたどっており、東宝は本社の定期採用では「演出助手」(助監督)という職種での採用を9年間もしてこなかったので、助監督になるには、まず配属先未定の正社員として入社し、本社での試用期間を経て、東宝撮影所の助監督に配属してもらうという方法を選ぶしかなかった。

 私は、先輩の助監督から「10年ぶりの本社採用助監督。金の卵」などと半ば揶揄(やゆ)されつつ期待されたが、わずか3年で挫折し、ソニーに転職してしまうのだから、申し訳ないことをしてしまったことになる。

 私が入社した年の大卒採用は6名だったが、私以外にもう一人、上級国家公務員試験に合格して入社翌年には退職している者がいるから、人事は嘆いたろう。
 その男も私も早稲田(私は政経学部で、その男は理工学部)の卒業だったから、会社もそれに懲(こ)りて、以後の採用では早稲田卒を色眼鏡で見るようになったかもしれない。

 東宝撮影所は、現在と同じ成城学園前の砧(きぬた)にあった。私が入居していた独身寮(今はもうない)から、歩いて5分ぐらいの場所だった。
 撮影所へ初出社する日は、どんな服装をしていけばよいのかわからず、有楽町にあった東宝本社に通っていたときと同じ背広姿でいった。
 ところが、製作部にいる社員はネクタイをしている者など一人もおらず、自分だけが浮いているような感じがしたものだった。

 製作部の課長やスタッフには挨拶をすませたが、部長は用事があって不在で、課長から、
 「戻るまで、食堂の前に向かい合わせに置いてあるベンチに座って待っているように」
 といわれた。
 その部長は、私の保証人になってくれた3人のうちの一人で、そのお礼もいわなければならなかった。

 私が東宝に入ったのは、大学のゼミの先輩(当時、演劇部課長で、のちに東宝副社長になる平尾辰夫さん)という人の紹介があったからで、保証人にもなってもらっただけでなく、平尾さんは、同期入社の映画監督森谷司郎さんと製作部長にも保証人になるよう声をかけてくれていたのだった。

 話が脱線するが、私は、森谷司郎が保証人になってくれているとは知らず、所内で顔を合わせても挨拶することをしなかった。
 入社2年後の夏、森谷司郎が監督した映画「初めての旅」(主演は、現東映社長の岡田裕介、志垣太郎、島田陽子。まだ無名だった小椋佳の「屋根のない車」ほか多数の曲を劇中歌として使った)に助監督としてついたときに、森谷司郎自身の口から「保証人に挨拶にもこないとは」といわれて初めて知ったことだった。
 
 撮影所の食堂前のベンチで待っているように、といわれた話の続きであるが、私がベンチの方へ行くと、先客が一人いた。派手なストライプ柄のスーツを着たおじさんだった。
 そのとき私も細いストライプの紺の背広を着ていたのだが、そのおじさんのスーツは、ストライプ幅がやたら広くて、超ド派手だった。
 顔を見ると、植木等だった。付き人もおらず、たった一人でぽつんと座って、出番待ちしているようだった。
 あとで知ったことだが、彼は、そのとき撮影中だったサラリーマン物の喜劇「日本一のワルノリ男」(坪島孝監督)に主演していたのである。

 私は、座るときに彼に会釈したかどうかよく覚えていないが、着席後はどちらも黙っていたことだけははっきりと記憶している。
 おそらく彼は、青白い顔をした私を、新入りの助監督とは思わず、ほかの組に出ている〝ちょい役〟か、〝仕出し〟と呼ばれるその他大勢の通行人役の一人かと思ったかもしれないし、ほかの俳優の若いマネージャーと思ったかもしれない。

 植木等が私と同じ三重県の出身であることは知っていたので、挨拶の一つもして、同県人であることを話せばよかったと今になって思うが、当時はそんなこともできず、ただ黙って彼と向き合っていた。
 ほとんど膝を突き合わすような感じだったので、とても気詰まりだったが、私はその場を離れることもせず、結構長い時間、そうやって座っていた。
 そのやって時間をつぶしていると、製作部長が戻ってきたので、私は挨拶をすませ、そのあと、助監督会の委員をしていた年長の助監督に引率されて、撮影部、照明部、大道具部、小道具部、衣装部、結髪などの各部門を挨拶して回った。
 私を案内してくれたのは、久松静児監督の息子の久松正明という人で、彼がチーフを務めている映画に翌日から〝助監督見習い〟(フォース)として就(つ)くようにと言い渡された。
 それが、「奇妙な仲間」だった。

 「奇妙な仲間」の監督は、児玉進。当時43歳だった。
 児玉進の曾祖父は、明治時代の陸軍大将児玉源太郎である。
 児玉源太郎は、日露戦争のとき、乃木希典大将が攻略にさんざん手間取ったロシアの要塞「203高地」を、28サンチ砲などの兵器を大量動員してあっという間に陥落させたことで知られる英雄だ。
 児玉進は、テレビドラマの「青春とは何だ」「これが青春だ」を演出し、人気を博したことから、その手腕を評価されて、映画の演出機会を与えられたのだった。
 映画監督昇進第1作は、「おいろけコミック 不思議な仲間」で、それが比較的好評だったことから、続編の「奇妙な仲間 おいろけ道中」を監督することになった。
 第一作および続編の主演は、夏木陽介と林与一で、これに女優が絡んだ。第一作がジュディ・オングで、続編が大原麗子であった。
 脚本は、当時新進の鎌田敏夫と「青い山脈」ほかを手がけたベテランの井出俊郎の共作。

 私の助監督初日は、いきなり、朝6時頃の早朝出発で、ロケバスに揺られて芦ノ湖畔方面に出かけた。
 夏木陽介、林与一、大原麗子が絡む場面のロケ撮影で、そのあと移動してどこかの砂浜(静岡の浜岡砂丘あたり)でも撮影したように思うが、そのあたりの記憶はあいまいである。
 覚えているのは、前日に「明日は、砂浜での撮影があるから、それにふさわしい格好で来い」とチーフ助監督にいわれ、わざわざビーチサンダルを履いていったら、そんな格好をしていたのは私だけで、慶應大卒のダンディな児玉監督から、「早稲田は、これだからイヤだ」と呆(あき)れ顔でいわれたことだ。

 大原麗子は、1960年代半ばに東映映画に何本か出演し、当時すでに売れっ子のスターになっていたが、そういうそぶりは少しも見せず、休憩時間や待機時間に、監督やスタッフに舌っ足らずな甘えるような口調できさくに話す姿に好感がもてた。
 そのときの感触から、てっきり年上だと思ったのである。

 仕事の場で彼女と直接口をきいたのは、アフレコルームでだった。
 ロケ撮影では、街の音や車の音などの騒音を拾ってしまってセリフがキレイに聞こえないので、撮影後に静かな録音スタジオで、同じセリフを録音しなおすのが、アフター・レコーディング、略してアフレコだ。
 俳優は、スクリーンに映し出されるロケ撮影で自身が演じた映像を見ながら、そのときを思い出して自分のセリフをしゃべるのだが、口の動きに合わなかったりするとNGとなり、何度もやり直さなければならない。
 そのチェックをするのが、新米助監督である私の役目だった。

 アフレコが始まる前に、学生時代柔道部だったという久松チーフ助監督から、
 「彼女はアフレコがあまり得意ではないから、厳しく判定するだぞ。少しでも口の動きがずれていたら、NGを出せ。お前は、口の動きとセリフが合うかどうかだけチェックしろ。あとは監督が判断する」
 と念を押されていたので、私は、大原麗子が「これでよし」という表情を見せたときも、
 「(どこそこが)ちょっとズレているので、もう1回、お願いします」
 などと平然と口にしていた。
 そういうことを繰り返すうちに、彼女の表情が次第に険しく、不機嫌になっていくのが見てとれた。
 そして彼女は、
 「どこが悪いの? 麗子、これ以上は無理」
 と、唇をとがらせた。

 スクリーンの映像をはっきりさせるために、アフレコルームの照明は消してあるが、出演者が脚本のセリフを読めるように脚本を置く台には電気スタンドが取り付けてあった。
 その明かりが、私に苦言を呈する大原麗子の顔を下から照らしていた。
 そのときの光のあたり具合が、ちょうど怪談映画のようで、あの美しい大原麗子の顔がとても怖く見えた。
 今考えると、向かい合った私の顔にも下からライトが当たっていたわけで、彼女も「怖い!」と思ったに違いなかった。
 当時コンタクトレンズをしていた私の目は、仕事が終わったあと、寮に戻って夜中の2時、3時までシナリオを書いたり、読書をしたりしていたので、寝不足が重なって白目が充血していたに違いなく、その恐ろしさは彼女の比ではなかったろう。

 チーフ助監督は、それ以上、彼女の機嫌を損ねてはいけないと思ったのか、金魚鉢と呼ばれるブースの向こうから、
 「今のはキープしますから、もう1回、お願いします」
 と助け舟を出したので、大原麗子は表情をふっとゆるめて、もう1回トライする気になった。
 そのときもセリフとスクリーンの口の動きが少しズレていたが、私は彼女が気の毒になって、両腕を頭上で丸の字にした。
 ややあって、金魚鉢から、
「OKです」
 という返事が返ってきた。
 彼女は、顔に美しい笑みを浮かべ、
 「お疲れさまでした」
 と私に礼儀ただしく挨拶してアフレコルームを出、金魚鉢にいる監督に挨拶してから帰っていった。

 彼女が亡くなったと聞いたとき、私は、このようなことを思いだしたのだった。
 39年も前の出来事だが、ついこの間のように思える。
 彼女の冥福を祈りたい。

(城島明彦)

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