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2009/10/23

南田洋子と「智恵子抄」

 認知症の南田洋子(女優なので、敬称略)が死去する何週間か前に正常な感覚を取り戻した時期があったことから、高村光太郎の詩「「レモン哀歌」を想起する人もいたようだ。
 
 彼女のことを伝えたテレビ番組のなかには、南田洋子の代表作の一つとして、1967年公開の松竹映画「智恵子抄」(中村昇監督)をリストアップしているところがいくつかがあったが、その映画で主演したのは岩下志麻で、南田洋子はそれほど重要ではない脇役にすぎなかった。

 南田洋子の代表作は、大映のニューフェースだった彼女を一躍有名にした「十代の性典」(1953年)であり、その後、日活に移って主演した「太陽の季節」(古川卓巳監督)であると私は思う。どちらも社会的に大きな影響を与えた作品である。

 「太陽の季節」は、石原慎太郎の原作で、「太陽族」なる若者まで生んだ。この映画のもう一人の主演が長門裕之だった。長門の代表作は、「太陽の季節」と今村昌平監督の「豚と軍艦」だろう。南田洋子もこの作品に出ており、彼女の代表作の一つにあげてもいいかもしれない。

 南田洋子は76歳で死に、高村智惠子は56歳で死んだ。死因は南田が「くもまく下出血」で、智惠子は「肺結核」。
 高村光太郎は、智惠子と結婚する以前は、不羈奔放(ふきほんぽう)な生き方をしていた。長門は、結婚後も、好き勝手な生き方をしていた。
 高村光太郎は、彫刻家にして詩人、智惠子は画家だったのに対し、長門と南田は役者だが、広い意味では、いずれも芸術家。
 高村光太郎は智惠子が逝くのを枕辺で見送ったが、長門は南田洋子の死に目には会えなかった。
 智惠子は精神に異常をきたしていたが、時折、正気に返ることがあった点は、認知症で脳の機能が正常に働かなくなった南田洋子と共通している。。
 
 私が以前、高村光太郎と智惠子のことを「です・ます調」で書いた「せつなくも悲しい愛」と題した一文があるので、以下に引用する。

 愛する伴侶(はんりょ)がある日を境に狂人になったら、人は嘆き、悲しみ、途方に暮れます。
 詩人の高村光太郎(たかむらこうたろう)がそうでした。愛妻の智恵子は、家庭の主婦としての仕事に追われ、画家としての仕事に没頭できなくなったことで、葛藤(かっとう)し続け、結婚十七年目にとうとう精神に異常をきたしたのです。
 気がふれる前の智恵子が書いた以下のような詩が残っており、彼女の心の葛藤(かっとう)をうかがい知ることができます。それは次のようなものです。

  我をすてさえしたら
  お互いに自分をおし通すことさえすてたら
  自分をすてきって
  もし人々が愛する事さえ出来たら
  はじめておだやかな
  幸福な世界になるのでせう

 若い人にはピンとこないでしょうが、昔、広沢虎三(とらぞう)という浪曲師(ろうきょくし)がいました。
 彼の得意とする演題の一つに「壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)」という浪花節(なにわぶし)がありました。
 光太郎と智恵子の関係は、そのなかの一節「妻は夫を慕いつつ 夫は妻をいたわりつ」に近いものがあったと著者は思っています。
 光太郎との生活のために彼女は自分の夢を捨てようとしたのです。つまり、自己を犠牲にしたのです。
 死の直前、智恵子はレモンをかじり、そのことで一瞬正気に戻ります。そのときの様子を描いたのが「レモン哀歌」という有名な詩です。

  そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
  かなしく白くあかるい死の床で
  わたしの手からとった一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
  トパアズいろの香気が立つ
  その数滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱっとあなたの意識を正常にした
  あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
  わたしの手を握るあなたの健康さよ
  あなたの咽喉に嵐はあるが
  かふいう命の瀬戸ぎはに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
  あなたの機関はそれなり止まった
  写真の前に挿(さ)した桜の花かげに
  すずしく光るレモンを今日も置かう

(城島明彦)

2009/10/21

南田洋子の死を報告する長門裕之の耐える姿には共感できた

 本日(10月21日)午前10時56分に入院先の病院で死去した女優の南田洋子について、彼女の夫である長門裕之が、午後7時前から10数分間、記者会見する模様をTBSがライブ中継した。
 
 長門は、明治座で10月3日から始まった演歌歌手の「川中美幸特別公演」の午前11時からの「昼の部」に出演していて、妻の死に目には会えなかった。
 
 長門は、午後6時からの「夜の部」の出番を終えて会見に応じた。
 「いとしい、大好きな洋子が永眠しました」
 といって彼は会見を始め、「いつ南田洋子の死を知ったか」との質問に、
 「午前中の公演後、風のように耳に入ってきた。ああ、逝ったんだな」
 と淡々と語る姿は、胸を打つものがあった。

 今日の長門は、それ以前の彼と違って感情をかなりコントロールしているようだった。共演者に迷惑はかけられないからという理由で、通夜は公演が終わってから行うといい、それまでは妻の遺体を氷漬けにしておくとも語った。

 公演の楽日(最終日)は10月29日だが、その前に出番のない日があるとのことで、その日までの「6日間を氷漬けにする」と、そうすることが当然であるかのように冷静にいうのを聞いて、長門の役者魂を見る思いがした。

 長門は、昨晩の妻の容態に接して、覚悟を決めていたようだ。
 彼は、髯が伸びていたが、まだ生きている妻に何度も何度も頬ずりしたり、キスしたと話した。
 普通の人は、そんなことをあけすけに話しはしない。自分の胸に秘めて誰にも話さないものである。
 芸能人としての性(さが)・サービス精神がそうさせるのか、あるいは単なる世間知らずなのか。

 「植物人間になった洋子は洋子ではない」という見方も示した。
 この考え方には異論も多かろうが、私はよく理解できた。
 また彼は、「死んだ洋子は好きじゃない」「死んで冷たくなった遺骸(むくろ)は洋子とは思えない」「手を合わせるのは、思い出のなかだけ」とも語った。これが彼の死生感なのだろう。

 取材記者もテレビの前の視聴者も、今回は、南田洋子の映像を見ることなく、長門裕之の口を通して語られる彼女の姿を想像したことで、気の毒さがよけい伝わってきたように思う。
 
 南田洋子の意識がまだ残っていた昨日、彼女が長門の手を白くなるまでぎゅっと握っていた、という話も長門はしたが、南田洋子のそういう行為は本能的なものかも知れず、聞く者の胸を打った。
 このことを考えると、南田洋子の闘病の映像など公開せずに、闘病の様子を長門が語るだけにしておいた方がよかったと思えてくる。

 長門が南田洋子を心底から愛していることは、これまでのテレビ番組を通じて多くの視聴者に伝わってはいたが、認知症になって正常な判断力を喪失した女優を、テレビ画面を通じて、不特定多数の人の目にさらすという行為を私は許しがたいと感じてきた。
 そういう経緯はあったが、今日の会見では、長門がぐっと耐えたり淡々と語る場面が多く、そこは共感できた。
 
 長門裕之と南田洋子は、「老老介護」という大きな問題を提起したというプラス面と、彼自身の不思慮から、テレビ局や出版社に利用されて、本来なら浴びなくてすんだ批判を受けることになったマイナス面があった。

●以上は、21日夜8時半ごろ書いたが、22日の午前2時過ぎに一部を書き換え、さらに以下の文章を新たに加えた。

 21日の夜11時過ぎにテレ各局が、南田洋子の死去と長門裕之の会見の模様をニュースで流した。どの局も、時間的制約もあっただろうが、長門が顔をゆがめて嗚咽する場面の映像を使っていた。
 実際の会見では、そういう場面は極めて少なく、ほとんどはじっと耐えたり、淡々として語ったりしていたのだが、テレビを見た人は、彼がずっと嗚咽したり、涙ぐんだりしていたと思うような「演出」になっていた。

 どの局かは忘れたが、通夜は29日で葬儀・告別式は30日と報道していたが、そうであれば、南田洋子の遺骸は8日間も氷漬けされることになる。犯罪や事件でなく、普通の死でもそんなに長く遺骸を置いておいていいのだろか、と気になった。

 彼が泣く姿を見ていて、私はあることに気づいた。

 女性たちは、長門裕之がやたらと泣く映像を見て、
 「あんなに愛されて南田洋子は幸せ」
 と思うだろうが、男は違う。
 
 彼は1934年生まれの戦前派である。彼や、彼より一回り下の私の世代は、子供の頃から、
 「男は、人前では涙を見せるな。どんないつらく、悲しいときでも、人前で泣くようなことはするな。泣きたかったら、あとで、ひとりになってから、思いっきり泣け」
 といわれて育った。

 「人前で、女といちゃいちゃするな」
 ともいわれた。

 たとえ悲しい映画、感動的な映画を観て涙を流したとしても、劇場の明かりがついたら、その涙を人に観られたくないと思うのが、一般的な男ではないのか。

 本来なら「妻」とか「家内」とかいうべきところを、彼はずっと「洋子」「洋子」といっている。

 名前でいうのは、家族内であるとか、近所の人や親友や友人たちに対してであって、まったく見も知らぬ不特定多数の相手に向かって、「洋子」「洋子」」と名前を連呼するというのは、どうにも理解しがたい。

 彼はそういうことを普通と思っているようだが、世間の感覚とはかなり違っている、と私は思った。

 (城島明彦)

南田洋子さんが亡くなった

 くもまく下出血で入院していた南田洋子さんが、本日(10月21日)、亡くなった。

 ご冥福をお祈りしたい。

(城島明彦)

女優大原麗子さんのこと

 大原麗子(女優なので、敬称略)が自宅で孤独死していたというニュースが流れたときには、驚いた。2009年8月6日のことだった。
 当初は、「死亡日時は不明」と報じられたが、行政解剖の結果、3日前に亡くなっていたことが判明した。
 あんなに明るく、誰にも好かれていた人が、誰にもみとられることなく、孤独死し、しかも真夏に3日間も発見されなかったということを知って、つらいいものを感じた。

 (最近、テレビで見かけないが、劇場の芝居にでも出ているのだろう)
 と勝手に推測していたが、そうではなく、「ギラン・バレー症」というあまり耳にしたことのない難病を患い、歩行等が困難で、芸能活動を休止せざるを得ない状況だったことも、報道で知った。

 彼女は私より何歳か年上だと思っていたが、同い年(彼女は1946年11月13日で、私は7月10日の生まれ)だったということも、報道で知った。

 生前の彼女と、私は何回か、仕事場で言葉を交わしたことがあった。もう何十年も前の話だ。正確にいうと、1970年の夏のことになる。
 当時、私は東宝撮影所にいた。「奇妙な仲間 おいろけ道中」(1970年夏製作)という軽妙な喜劇映画に彼女は出演し、私は駆け出しの助監督だったのである。

 私はその年の4月に東宝本社に入社し、7月31日までの研修期間(当時は試用期間といっていた)を経理部門の「出納係」として過ごし、8月1日に希望した東宝撮影所製作部の「演出助手係」に配属されたのだった。

 当時、映画監督になるには助監督を経るしか道がなかったが、映画産業は斜陽化の一途をたどっており、東宝は本社の定期採用では「演出助手」(助監督)という職種での採用を9年間もしてこなかったので、助監督になるには、まず配属先未定の正社員として入社し、本社での試用期間を経て、東宝撮影所の助監督に配属してもらうという方法を選ぶしかなかった。

 私は、先輩の助監督から「10年ぶりの本社採用助監督。金の卵」などと半ば揶揄(やゆ)されつつ期待されたが、わずか3年で挫折し、ソニーに転職してしまうのだから、申し訳ないことをしてしまったことになる。

 私が入社した年の大卒採用は6名だったが、私以外にもう一人、上級国家公務員試験に合格して入社翌年には退職している者がいるから、人事は嘆いたろう。
 その男も私も早稲田(私は政経学部で、その男は理工学部)の卒業だったから、会社もそれに懲(こ)りて、以後の採用では早稲田卒を色眼鏡で見るようになったかもしれない。

 東宝撮影所は、現在と同じ成城学園前の砧(きぬた)にあった。私が入居していた独身寮(今はもうない)から、歩いて5分ぐらいの場所だった。
 撮影所へ初出社する日は、どんな服装をしていけばよいのかわからず、有楽町にあった東宝本社に通っていたときと同じ背広姿でいった。
 ところが、製作部にいる社員はネクタイをしている者など一人もおらず、自分だけが浮いているような感じがしたものだった。

 製作部の課長やスタッフには挨拶をすませたが、部長は用事があって不在で、課長から、
 「戻るまで、食堂の前に向かい合わせに置いてあるベンチに座って待っているように」
 といわれた。
 その部長は、私の保証人になってくれた3人のうちの一人で、そのお礼もいわなければならなかった。

 私が東宝に入ったのは、大学のゼミの先輩(当時、演劇部課長で、のちに東宝副社長になる平尾辰夫さん)という人の紹介があったからで、保証人にもなってもらっただけでなく、平尾さんは、同期入社の映画監督森谷司郎さんと製作部長にも保証人になるよう声をかけてくれていたのだった。

 話が脱線するが、私は、森谷司郎が保証人になってくれているとは知らず、所内で顔を合わせても挨拶することをしなかった。
 入社2年後の夏、森谷司郎が監督した映画「初めての旅」(主演は、現東映社長の岡田裕介、志垣太郎、島田陽子。まだ無名だった小椋佳の「屋根のない車」ほか多数の曲を劇中歌として使った)に助監督としてついたときに、森谷司郎自身の口から「保証人に挨拶にもこないとは」といわれて初めて知ったことだった。
 
 撮影所の食堂前のベンチで待っているように、といわれた話の続きであるが、私がベンチの方へ行くと、先客が一人いた。派手なストライプ柄のスーツを着たおじさんだった。
 そのとき私も細いストライプの紺の背広を着ていたのだが、そのおじさんのスーツは、ストライプ幅がやたら広くて、超ド派手だった。
 顔を見ると、植木等だった。付き人もおらず、たった一人でぽつんと座って、出番待ちしているようだった。
 あとで知ったことだが、彼は、そのとき撮影中だったサラリーマン物の喜劇「日本一のワルノリ男」(坪島孝監督)に主演していたのである。

 私は、座るときに彼に会釈したかどうかよく覚えていないが、着席後はどちらも黙っていたことだけははっきりと記憶している。
 おそらく彼は、青白い顔をした私を、新入りの助監督とは思わず、ほかの組に出ている〝ちょい役〟か、〝仕出し〟と呼ばれるその他大勢の通行人役の一人かと思ったかもしれないし、ほかの俳優の若いマネージャーと思ったかもしれない。

 植木等が私と同じ三重県の出身であることは知っていたので、挨拶の一つもして、同県人であることを話せばよかったと今になって思うが、当時はそんなこともできず、ただ黙って彼と向き合っていた。
 ほとんど膝を突き合わすような感じだったので、とても気詰まりだったが、私はその場を離れることもせず、結構長い時間、そうやって座っていた。
 そのやって時間をつぶしていると、製作部長が戻ってきたので、私は挨拶をすませ、そのあと、助監督会の委員をしていた年長の助監督に引率されて、撮影部、照明部、大道具部、小道具部、衣装部、結髪などの各部門を挨拶して回った。
 私を案内してくれたのは、久松静児監督の息子の久松正明という人で、彼がチーフを務めている映画に翌日から〝助監督見習い〟(フォース)として就(つ)くようにと言い渡された。
 それが、「奇妙な仲間」だった。

 「奇妙な仲間」の監督は、児玉進。当時43歳だった。
 児玉進の曾祖父は、明治時代の陸軍大将児玉源太郎である。
 児玉源太郎は、日露戦争のとき、乃木希典大将が攻略にさんざん手間取ったロシアの要塞「203高地」を、28サンチ砲などの兵器を大量動員してあっという間に陥落させたことで知られる英雄だ。
 児玉進は、テレビドラマの「青春とは何だ」「これが青春だ」を演出し、人気を博したことから、その手腕を評価されて、映画の演出機会を与えられたのだった。
 映画監督昇進第1作は、「おいろけコミック 不思議な仲間」で、それが比較的好評だったことから、続編の「奇妙な仲間 おいろけ道中」を監督することになった。
 第一作および続編の主演は、夏木陽介と林与一で、これに女優が絡んだ。第一作がジュディ・オングで、続編が大原麗子であった。
 脚本は、当時新進の鎌田敏夫と「青い山脈」ほかを手がけたベテランの井出俊郎の共作。

 私の助監督初日は、いきなり、朝6時頃の早朝出発で、ロケバスに揺られて芦ノ湖畔方面に出かけた。
 夏木陽介、林与一、大原麗子が絡む場面のロケ撮影で、そのあと移動してどこかの砂浜(静岡の浜岡砂丘あたり)でも撮影したように思うが、そのあたりの記憶はあいまいである。
 覚えているのは、前日に「明日は、砂浜での撮影があるから、それにふさわしい格好で来い」とチーフ助監督にいわれ、わざわざビーチサンダルを履いていったら、そんな格好をしていたのは私だけで、慶應大卒のダンディな児玉監督から、「早稲田は、これだからイヤだ」と呆(あき)れ顔でいわれたことだ。

 大原麗子は、1960年代半ばに東映映画に何本か出演し、当時すでに売れっ子のスターになっていたが、そういうそぶりは少しも見せず、休憩時間や待機時間に、監督やスタッフに舌っ足らずな甘えるような口調できさくに話す姿に好感がもてた。
 そのときの感触から、てっきり年上だと思ったのである。

 仕事の場で彼女と直接口をきいたのは、アフレコルームでだった。
 ロケ撮影では、街の音や車の音などの騒音を拾ってしまってセリフがキレイに聞こえないので、撮影後に静かな録音スタジオで、同じセリフを録音しなおすのが、アフター・レコーディング、略してアフレコだ。
 俳優は、スクリーンに映し出されるロケ撮影で自身が演じた映像を見ながら、そのときを思い出して自分のセリフをしゃべるのだが、口の動きに合わなかったりするとNGとなり、何度もやり直さなければならない。
 そのチェックをするのが、新米助監督である私の役目だった。

 アフレコが始まる前に、学生時代柔道部だったという久松チーフ助監督から、
 「彼女はアフレコがあまり得意ではないから、厳しく判定するだぞ。少しでも口の動きがずれていたら、NGを出せ。お前は、口の動きとセリフが合うかどうかだけチェックしろ。あとは監督が判断する」
 と念を押されていたので、私は、大原麗子が「これでよし」という表情を見せたときも、
 「(どこそこが)ちょっとズレているので、もう1回、お願いします」
 などと平然と口にしていた。
 そういうことを繰り返すうちに、彼女の表情が次第に険しく、不機嫌になっていくのが見てとれた。
 そして彼女は、
 「どこが悪いの? 麗子、これ以上は無理」
 と、唇をとがらせた。

 スクリーンの映像をはっきりさせるために、アフレコルームの照明は消してあるが、出演者が脚本のセリフを読めるように脚本を置く台には電気スタンドが取り付けてあった。
 その明かりが、私に苦言を呈する大原麗子の顔を下から照らしていた。
 そのときの光のあたり具合が、ちょうど怪談映画のようで、あの美しい大原麗子の顔がとても怖く見えた。
 今考えると、向かい合った私の顔にも下からライトが当たっていたわけで、彼女も「怖い!」と思ったに違いなかった。
 当時コンタクトレンズをしていた私の目は、仕事が終わったあと、寮に戻って夜中の2時、3時までシナリオを書いたり、読書をしたりしていたので、寝不足が重なって白目が充血していたに違いなく、その恐ろしさは彼女の比ではなかったろう。

 チーフ助監督は、それ以上、彼女の機嫌を損ねてはいけないと思ったのか、金魚鉢と呼ばれるブースの向こうから、
 「今のはキープしますから、もう1回、お願いします」
 と助け舟を出したので、大原麗子は表情をふっとゆるめて、もう1回トライする気になった。
 そのときもセリフとスクリーンの口の動きが少しズレていたが、私は彼女が気の毒になって、両腕を頭上で丸の字にした。
 ややあって、金魚鉢から、
「OKです」
 という返事が返ってきた。
 彼女は、顔に美しい笑みを浮かべ、
 「お疲れさまでした」
 と私に礼儀ただしく挨拶してアフレコルームを出、金魚鉢にいる監督に挨拶してから帰っていった。

 彼女が亡くなったと聞いたとき、私は、このようなことを思いだしたのだった。
 39年も前の出来事だが、ついこの間のように思える。
 彼女の冥福を祈りたい。

(城島明彦)

2009/10/10

金スマSP(南田洋子の認知症恢復)は、巧妙に計算された番組だった

 TBSテレビが、昨晩(2009年10月9日午後9時~)「金スマSP(スペシャル)」で、南田洋子の認知症(=痴呆症)に改善が見られるという話を、夫である長門裕之の〝極道人生〟を彼女がいかに健気(けなげ)に支え続けてきたかという〝お涙ちょうだいストーリー〟と重ねて、再現ドラマを交えながら紹介した。

 この番組を放送する3日前に、長門裕之から、南田洋子が正気を取り戻しているとTBSに連絡があったので、急遽(きゅうきょ)、その映像を撮影して、番組に入れ、これが全編のコア(核)となっている。

 その映像で見ると、半年近く前にテレ朝が映し出した「正視にたえないほど老(ふ)けて、変わり果てた南田洋子」というイメージとはまるで別人の「生き生きとした南田洋子」であった。
 
 今年の4月20日にテレ朝が「ドキュメンタリ宣言」という番組で見せた南田洋子は、髪ふり乱し、自分が誰であるかさえわからない症状に陥っていた。この番組は、その半年前の2008年11月3日に同枠で流した南田洋子の認知症をテーマにした「第2弾」というか、「続編」として制作された。

 なぜ続編を作ったのかといえば、第1弾が22%を超える高視聴率をあげたからである。
 しかし、テレ朝の撮影クルーは、第2弾では、痴呆状態で意思の疎通を欠く南田洋子と彼女を介護する長門裕之を追いかけて、美しさを売り物にする「女優」という職業にあった女性が、本来、人様には見せるべきではない衝撃的な姿を放映し、視聴者から激しい非難を浴びた。

 その放送で問われるべきは、
「彼女が正気であったなら、そんな状態になった時の姿が全国放送されることを認めたかどうか」
 という判断・配慮が抜け落ちていた点である。
 彼女が元気だった頃に出演した映画やDVDを見て、数多くの人々がその映画や彼女に抱いていた心情や思いを無残に踏みにじったという点への配慮のなさもあった。
 
 私も、当ブログで、
 「女優という夢を売る商売をしている女性の、気の毒で残酷な姿・醜態を他人の好奇の目にさらすな」
 と非難した。
 「女優であっても人間」
 という人もいるだろう。だが、女優という職業を選んだ以上、そのイメージを崩すようなことはしてはならないのだ。
 わかりやすい例を出そう。たとえば、晩年の石原裕次郎や美空ひばりが、認知症になったと仮定した場合、その姿を見たいと思う人がいると思うか。もしそうなったとしても、そういう姿は見せないでほしいと願うはずだ。
 石原裕次郎は「タフガイ」というニックネームやテレビドラマ「西部警察」で「ボス」と呼ばれていた役どころどおり、死ぬまでタフな男でいてほしいと人々は願ったし、美空ひばりに対しても、大病から復帰した直後のコンサートで、苦痛を感じさせない歌いっぷりを見せたから、「永遠の裕次郎」「永遠のひばり」として、今も人々の心のなかに生き続けているのだ。

 そういうイメージを南田洋子の夫である長門裕之は、まったく理解していなかった。

 さて、今回のTBSの金スマSP(スペシャル)で映し出された南田洋子についてだが、3日前の彼女として映し出された映像は、テレ朝の第2弾でのイメージとあまりに違うので、番組を見た人は、例外なく、びっくりしたはずである。髪はきちんと整えられ、表情も引き締まり、目が生き生きとして、言葉づかいもはっきりし、ジョークまで口にしたていたのだから。

 そのとき私の頭をかすめたのは、「まだらボケ」という言葉だった。認知症には、「ずっとボケっぱなし」の場合と、「ときどきボケる」場合と、「ときどき正気に返る」場合の3通りあるが、「南田洋子は3日前に正気に返ったのではないのか」ということだった。
 番組中では、「長門裕之から連絡があって、自宅を訪ねることになった」という意味のナレーションが〝さらっと〟語られる。
 それを聞いて、私は、「たまたま3日前に正気づいただけなのではないのか」と疑った。

 認知症の看病のしんどさ、老人介護で家族にかかる負担の想像以上の大きさ・重さは、実際に体験した人だけでなく、そういう話を聞いたり、本で読んだりして、かなりの人が知っている。
 私自身も、父の介護で母や妹が倒れたので、その大変さはわかっているつもりだが、父の存命中に、もしどこかのテレビ局が「家族に迷惑をかけている父の姿をテレビで放送したい」と申し入れてきたとしても、私や母や妹は断っていただろう。

 (父は認知症ではなかったが、要介護4であった。要介護度は5段階あり、一番重いのが5で、父はその次だった)

 私の父は教師だったから、たくさんの教え子がいる。
 もし仮に父が認知症に陥っていたとしても、教師だった人間には尊厳というものがあるし、教え子たちの思い出のなかにある父の元気な頃のイメージを私は壊したくはないし、父もそう願うであろうから、父の老いさらばえた姿を他人に公開したいとは絶対に思わない。

 南田洋子は、演技派というよりは、美しさや聡明さを売り物にしていた大女優である。そのイメージを壊したり、覆すようなことを、家族はしてはならないのではないか。

 今回の「金スマSP」のスポンサーは、トヨタ、NTTドコモ、資生堂、ロッテ、P&Gなど、そうそうたる一流企業群である。
 これらの大企業は、半年前のテレ朝番組への批判の声を知っていて、番組に注文を出しているはずである。内容次第では、企業イメージに傷がつくだけでなく、下手をすると企業批判までされかねないからだ。
 その点、TBSは、これらの大スポンサー様のご機嫌を損なわないよう最大限の注意を払い、その結果、番組は、用意周到、批判が起きないように、実に巧みに作られていた。

 「医者は、彼女の恢復ぶりについて、どう診断しているのか。知りたい」
 と思いながら私はテレビを見ていたが、なかなか医師が登場しなかった。
 医師は、最後の方にちょっとだけ登場し、「肝臓が原因の認知症は、肝臓が治っていくと症状が改善される」というだけであり、それに続いて、
 「認知症は、進行する」
 というニュアンスのナレーションを、番組の終わり間際に、申し訳程度に付けたしていた。
 要するに、TBSは、番組全編を通して、夫婦愛を強調し、元気になっている姿を巧み随所に挿入することで、
 「南田洋子は、ちょうど3日前に偶然、正気づいただけじゃないのか」
 と疑わせないように演出する一方で、
 「南田洋子は、治ったんだ、恢復したんだ」
 と思わせるような演出をしていながら、「認知症は、進行する」と逃げを打っているのである。

 「テレ朝のような失敗・愚はおかすまい」
 とのTBSの思惑に、どれだけの視聴者が気づいたろうか。

 3日前以前の元気な姿の映像が、なぜないのか!?

 今回の番組は、視聴者の反応(同情・反論など)をすべて予想し、再現ドラマを多用するなど、計算しつくした構成・演出がなされており、その点では、(多少の皮肉を込めて)非常によくできたドキュメンタリー番組だったということができる。

(城島明彦)

2009/10/04

「五輪選考は政治的」と石原都知事、当たり前のことをいうな!

  「五輪選考には、目に見えない政治的な動きがある」
 と、石原慎太郎都知事が帰国会見でいったとさ。

 何をトボケたことをいっている。
 きれいごとでオリンピックを誘致できると思っている人間が、何人いるのか。

 スペインが「マドリッド」に誘致しようとしたことを例に引かなくても、オリンピックに政治が絡むのは常識。
 「1992年にバルセロナで開催しておきながら、またスペイン?」
 と考えるのが、常識人の発想。
 マドリッド誘致の中心人物は、サマランチ。1980~2001年までIOC(国際オリンピック委員会)の会長を務めた〝妖怪人間〟である。
 IOCには、まだまだ彼の子分や息のかかった者が大勢いる。
 
 ベテラン政治家の石原都知事が、そんなことを知らないわけがない。
 戦況も読まず、敵(ライバル国)の手のうちも知らずに、徒手空拳(としゅくうけん)で戦(いくさ)に臨んだということか。
 そういうのを「戦費の無駄づかい」といい、敗れたことを「犬死」という。

 沈黙は「金」。誘致失敗の醜い弁解は、みっともないし、聞きたくもない。

(城島明彦)

2009/10/03

2016年夏季五輪落選は〝ひとり相撲〟で、税金の無駄づかい!

 2016年夏季五輪は、ブラジルのリオデジャネイロに決まったが、下馬評どおり、日本は最下位票しか獲得できなかった。

 個人的には、オリンピックを東京へ誘致すること自体には賛成だが、開催時期というものがある。

 東京オリンピックが開かれたのが1964年で、それから半世紀以上経つのだから、十分開催資格はあると単純に考えたのだろうが、日本の隣の北京でやったオリンピックの印象が世界中の人たちの記憶のなかにまだ鮮明に残っている。

 北京五輪は2008年、その前の韓国のソウル五輪は1988年。同じアジアの近隣国での開催は、20年間がある。

 とすれば、東京で開催できる可能性があると思えるのは、北京五輪から20年後の2028年以降。まだまだ先の話である。

 候補地として名乗り出ていた「マドリッド」を、どう思ったか。

 バルセロナ五輪は、1992年。今年はそれから17年経つが、それでも世界の人は、
「バルセロナでついこの間、開かれたばかりじゃないか。おまえら、どういう感覚をしているのか」
 と思ったはず。

 2016年はバルセロナ五輪から24年後ということになるが、感覚的には、「つい、この間」という印象が強く、しかも「同じ国で」ということになると、もっと期間をおかないといけないだろう。

 しかし、当事者は、そういうことすら見えていなかったのだから、ピエロだ。裸の王様だ。

 東京都が、日本が、今回やったことは、それと同じ。

 「状況判断」などという大げさな言葉を使わなくても、そういう常識的なことを考えれば、立候補しても、選ばれる可能性はきわめて低いということはわかったはず。

 日本の誘致委員たちが、どう見てもダサイとしかいいようのない〝ドブねずみ色〟の制服を着て、パッとしない演説をしても、下馬評を覆す可能性などなかった。

 無謀。誘致運動のために、一体、いくらかけたのか。「税金の無駄づかい」の一言につきる。

 この始末、どうつける!?

(城島明彦)

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