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2009/06/17

菊池夏樹『菊池寛 急逝の夜』出版記念会の夜

 6月16日(火)午後6時から、JR市ヶ谷駅そばのアルカディア市ヶ谷(私学会館)で、元文藝春秋の編集者菊池夏樹さんの処女作『菊池寛 急逝の夜』(白水社)の出版記念会が開かれ、私も顔を出した。

 名前から察しがつくと思うが、菊池夏樹さんは、文豪にして文藝春秋の創設者菊池寛の孫である。
 夏樹という名は菊池寛がつけたが、夏樹さんが2歳のときになくなってしまった。

 発起人には作家の伊集院静、逢坂剛、大沢在昌、勝目梓の4氏が名を連ね、文壇の大御所である渡辺淳一、井上ひさし両氏が挨拶した。

 私が物書きになってまだ日が浅い頃、逢坂さんと大沢さんと私は、菊池さんに赤坂見附にある店の座敷ですき焼きをごちそうになったことがあった。

 そのとき逢坂さんから、私と逢坂さんが同じマンションに住んでいたことがあると聞いて驚いた。

 当時住んでいたのは、板橋区の蓮根というところにあった3DKのマンションだった。
 私が7階で逢坂さんは2階。702号と202号で垂直の位置関係であったから、間取りはまったく同じだったのだ。
 
 私が文藝春秋発行の小説誌「オール讀物」の新人賞を受賞したとき、当時勤務していた会社と付き合いがあった博報堂のある営業マンから「気づきませんで、申し訳ありませんでした。うちの逢坂剛にいわれて、知りました。受賞、おめでとうございます」といわれて、びっくりした。

 逢坂剛さんの名前は知っていたが、その人が博報堂に勤めていることは知らなかった。

 その分譲マンションに入居した私が、一階の郵便受けにずらっと並んだ名字のなかで最初に覚えたのは「中」という名字だった。

 「中」という名字が気になったのは、一文字の名字はそこだけで、しかもバランス感覚抜群の左右対称文字で目を引いたということ以外に、別の理由もあった。

 私は中日ドラゴンズの大ファンなのである。そのドラゴンズには、かつて「中利夫(なかとしお)」という名選手がいたのだ。今日に至るも、彼と同性のプロ野球選手は出ていない。

 中利夫は、センターを守っていた。センターは日本語でいえば「中央」、つまり「中」で、彼の打順が回ってきて「センター中」と場内アナウンスされるのを耳にするたび、あまりにできすぎではないかと思ったものだった。

 「オール読物」には、新人賞と推理小説新人賞の二種類がある。逢坂さんがそのマンションの部屋で書いた小説が1980年に「オール讀物」の「推理小説新人賞」を受賞し、作家デビューを果すが、私は、ちょうどそのから、小説を書いたいと思うようになっており、その2年後に「オール読物」の「新人賞」に80枚くらいの短編小説を応募した。

 同じマンションの住人がすでに新人賞を受賞していると知っていたら、別の賞に応募していただろうが、幸か不幸か、私は「オール讀物」の定期購読者でなかったためにそのことを知らなかった。
 今考えると、作家に必要不可欠な情報収集力が著しく欠如していたということになる。

 初めて応募した作品だったが、最終候補の3点まで残った。しかし、私だけが選に漏れ、残る2作が同時受賞した。

 それからしばらくして、「オール讀物」の編集者と名乗る人物から当時の勤め先へ電話がかかってきた。「会いたい」という。それが菊池夏樹さんだった。

 彼はえらく気を使う人で、待ち合わせ場所を銀座のソニービルにした。当時私がソニーに勤めていたからだった。一事が万事、この調子である。

 菊池夏樹さんは1946年6月26日生まれで、私はその2週間後の7月10日生まれ。性格も考え方も違うが、同じ時代の空気を吸って生きてきたという共通点がある。

 菊池夏樹さんは、いろいろアドバイスしてくれ、次に応募するときは直接、自分宛に送ってくれ、といってくれた。「オール読物」の新人賞は今は年1回だが、当時は2回だったので、私は会社勤めでよれよれになりながら、コミカルタッチの小説を書いたが、書きながらどこか違うなと思っていた。
 
 菊池さんに送ると、これはダメですといわれ、別のものに着手した。
 それを書きながら、「これでダメなら、以後、応募することはやめよう」と思っていたので、入選したとの知らせを受けたときはうれしかった。

 彼は1946年6月26日生まれで、私はその2週間後の生まれ。性格も考え方も違うが、同じ時代の空気を吸って生きてきたという共通点がある。
 
 出版記念会が終わりに近づいたとき、突然、私の名が呼ばれた。しぶしぶ壇の方へ出て行くと、彼はマイクに向かってこう紹介した。
「私が文藝春秋時代に担当させていただい作家の98パーセントが直木賞をとり、売れっ子作家になりました。残る2%は、この人です」
 私は、へらへらと笑うしかなかった。笑いながら、私は彼がいつも私に呈してきた苦言を思い浮かべていた。
「あなたほど、私のいうことに耳を貸さなかった人はいない」

 話が終わると、「見つかってしまいましたね」と声をかける人がいた。顔を見ると、ぶんか社の編集者の小川将司さんであった。

 菊池さんは、小川さんの編集担当で、菊池寛が書いた「競馬読本」をテーマにした祖父と孫のコラボレーション読み物を、7月にぶんか社から出すことになっている。

 私は、同社から8月5日に発売される書き下ろし小説を執筆中の身であり、本来なら家で青い顔をしてパソコンに向かっていなければならない立場なので、「やばい」と思った。小川さんは、その担当者なのである。

 小川さんと知り合ったのは、作家の角川いつかさんの紹介だが、話してみると、彼は、菊池夏樹さんが文藝春秋を退職した後、会長に就任した出版社に以前勤務していたことがあり、菊池さんをよく知っているということだった。世間は狭い。

 お開きになり、会場を出ると、二次会に繰り出すらしい〝のんべえ組〟の編集者や作家が集まっていた。

 昨年、小説執筆について手紙でアドバイスをしてくれた大沢在昌さんがそこにいたので、「がんばりま~す」と挨拶して階下へ向かった。

 菊池夏樹さんとは、近々、共著を出す計画が浮上している。うまくいくよう、がんばりま~す。

(城島明彦)

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