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2009/06/29

〝日本映画史上初の全裸女優〟前田通子の主演映画『女真珠王の復讐』の話

 前田通子(まえだみちこ)は、今から50年以上も前の日本のセックスシンボルだった女性だ。

 1956年(昭和31年)に封切られた新東宝映画「女真珠王の復讐」で、うしろ姿ではあったが、日本映画史上初の全裸をスクリーンで披露した主演女優として、知る人ぞ知る存在。

 岩場にしゃがんでいたスッポンポンの彼女がさっと立ち上がる場面がそれだが、日本映画史上記念すべきシーンは、されど、まばたきするくらいの時間に過ぎず、「なんだ、この短さは」と腹立たしく思うくらい極端に短いが、それでも当時は大騒ぎになり、当時青年や少年だった人たちの語り草となって今に至っている。

 この映画の共演陣は、藤田進(黒沢明の「姿三四郎」で主演)以下、のちにビッグネームになる宇津井健、丹波哲郎、天知茂、三ツ矢歌子が共演している。

 「女真珠王の復讐」は、そこそこの予算をかけているので、筋書きは〝それなり〟にしっかりしている。

 社長の椅子を狙っている貿易会社の専務(藤田進)は、自分が海外出張中というアリバイを設定しておいて、戦地で部下だった男(丹波哲郎)に命じて社長を殺させ、金庫の金も盗ませて、その罪を社員(宇津井健)と彼の婚約者(前田通子)にかぶせる。そのために宇津井健は刑務所にぶち込まれる。
専務は、秘書の前田通子を前々から狙っており、海外出張に同伴させて船の甲板で襲うが、彼女は抵抗し、海に転落して、行方不明になる。

 だが、うまい具合に無人島に漂着する。そこには、カツオ漁に出て難破し、漂着した漁師が5人いて、天知茂ともう一人以外の男は、久しぶりでみる日本の女に欲情してしまい、女をわがものにせんとして殺しあいに発展する。(これは、アナタハン事件という実際にあった事件が元ネタ)

 その島の海には真珠があり、彼女はアメリカに渡って「女真珠王」となり、復讐のために名前を変えて日本へ戻ってくる。そして、刑務所を脱獄した婚約者らと協力して復讐をはたし、めでたしめでたしというお話。

 扇情的という意味では、前田通子扮する秘書が、専務の魔手を逃れようとして航行中の船から海に転落し、無人島の浜に打ち上げられたシーンが一番ではないか、と私は思う。
 上半身は裸、下半身はなぜか(今では死語同然の)シミーズ一枚で、それが水に濡れて透けている。浜に横たわった彼女の腰、ヒップから太もも、足へと伸びる曲線がなんとも艶(なまめ)かしいのだ。

 カメラは最初、砂浜側から撮り、次に海側から彼女を撮る。砂に少し埋まる形で乳房の柔らかな丸みが見える。このカットの演出はいい。日本人のエロティシズムをうまく表現している。

 彼女が日本映画史上初の〝半乳〟ならぬ〝半乳輪〟を見せたのは、難破したマグロ漁船の漁師に小屋のなかで襲われるシーンである。
 抵抗し、揉みあっているときに胸に巻いた衣装が少しずり落ち、左右の乳輪が半分ばかり顔を出すのだ。といっても、ほんの一瞬! コマ送りで見ないと確認できないくらい超短い時間だが、乳輪の箇所が丸く黒く見えるので、それとわかる。(白黒映画なので黒く見えるのであって、実際の色は不明)
 
 彼女は演技に夢中で、そういうことに気づかなかったと思われる。監督はラッシュ(粗つなぎ)を見たときに「ありゃ」と思ったろうが、一瞬のことだから、「ま、いいか」とそのまま使ったのだろう。

 どうということの話ではあるが、主演女優の〝半乳輪〟出しは、とにかく日本映画史上初ということになる。

 新東宝は、この映画が大ヒットしたのに味をしめ、次の作品では前田通子を最初から裸同然にするにはどうしたらいいかと知恵を絞った。
 そして思いついたのが、「海女」という設定。これなら、裸になることに無理がない。ということで、翌年は「海女の戦慄」を作って、全編これ、大サービスに努めたのである。

 「女真珠王の復讐」では、貿易会社のOLという設定であるから、むやみやたらと脱ぎまくるわけにはいかなかったが、こちらは、海にもぐるのが仕事の海女だから、思う存分に肌を露出させることができる。

 で、この映画は、場内が暗くなると、いきなり、スクリーンに髪を肩まで伸ばした前田通子の背中を映し出し、彼女がおびえたような表情でこちらを向くと、上半身は裸とわかる。両手で胸を押さえているが、はみだしまくっていて、なんとも扇情的である。
 キャメラが少し引くと、彼女の立っている背後は白い壁で、そこにピストルを構えた男のシルエットが映し出され、彼女は誰かに脅されているのだということがわかる。と、「海女の戦慄」というタイトルが立ち上がってくる。

 映画を全部見終わると、このシーンは映画とは関係のないサービスカットであることがわかる。この割きりのよさは、〝B級映画のお手本〟のようなものである。

 DVDが発売されているので、この映画を再鑑賞した人は何人もいるだろうが、岩場に一糸まとわぬ姿ですっくと立った〝日本初の女優の全裸シーン〟や冒頭のシーンにばかりを注目して、別のシーンをおろそかにしたため、前田通子の「半乳輪」シーンに気づかずにきたに違いない。

 前田通子のことを書いているブログもチェックしたが、誰もこのことには触れていないのは、ほんの一瞬だけ左右の乳輪が半分露出しているのがわかる程度なので、見落としてきた可能性が高いが、私のように、目を皿のようにしてDVDを見るだけでは満足せず、何度もコマ送りして確認するような人は、いなかったということだろう。

 私が〝新発見〟に執念を燃やしたのは、このDVDを今頃になって見たという情けなさに加え、当時はとても厳しい性表現規制が敷かれていて、乳首や乳輪はおろか、乳房であっても画面で露出することはご法度だったから、それを覆すような新事実を見つけて悦に入りたいという気持ちがあったからだった。

 前田通子は、主題歌も歌っている。野村俊夫作詞・服部レイモンド作曲の「海女の慕情」で、なかなか上手だ。ときおり、美空ひばりそっくりの目元になるときがあるが、声はひばりほどうまくないが、歌がへたではない。

 「海女の戦慄」でチーフ所監督を務めたのは、のちに松竹で監督として喜劇を量産する渡辺裕介。小坂一也も挿入歌を歌っている。一流の連中が、この映画作りに参加していたのも見逃せない。

 「海女の戦慄」では、性表現がさらに進み、万里昌子(昌代。のち大映に移籍)が、何かというと、くっきり透け乳首で登場しているのも目を引く。万里昌代は、小柄なので、昔の用語でいう〝トラグラ〟(トランジスタ・グラマー)で、殺されて海中に下向きに浮かぶシーンでは豊満な胸と深い谷間を見せる大サービスもしている。

  故水野晴夫ふうにいうなら、「B級映画って、たまに見ると、ほんとに楽しいですね」というところか。

※2009年6月29日初出/2010年3月31日 更新(見出し改題)

(城島明彦)

2009/06/24

締め切りを気にしつつ、50年前の古い映画を見てしまった

 50年前の新東宝映画といっても、とっくにつぶれた粗製乱造の映画会社だから、若い人たちは「何、それ」でしょうなあ。

 くそ忙しいさなかにDVDで見た新東宝映画のタイトルは、もっと時代ばなれしている。

 「海女(あま)の戦慄(せんりつ)」「女真珠王の復讐」「海女の化物屋敷(ばけものやしき)」。

 化物屋敷などという言い方自体、死語に近いですな。

 これら3本は、今ふうにかっこよくいうと「エロチック・サスペンス」でございます。

 主演女優は、団塊世代以上のジジイたちなら大体知っている前田通子(「海女の戦慄」と「女真珠王の復讐)と三原葉子。いずれも、巨乳を売り物にする肉体派でございました。

 私は、長い間、前田通子主演のこの2作を見たいみたいと思いながら、見る機会を逸し続けてきました。

 DVDとして販売されているのですが、買ってがっかりすると腹がたつので、買わずに来ました。

 しかし、TSUTAYAにありました。それもずいぶん前から……。

 7泊8日のジジイ・レンタル価格は、1本たったの210円。

 ウハウハ喜びながら、3本も借りて、締め切り間際に見てしまいました。

 前田通子は、日本映画史上で初めて、吹き替えではなく、主演女優が尻の割れ目をスクリーンでさらけ出したお方であります。(彼女の記事は、前にブログに詳しく書いておりますので、関心がおありの方はそちらをどうぞ)

 尻の割れ目など、いまなら、どうということもない話ですが、50年前はたいへんなことでした。

 と、煽(あお)っておいて、今日のところは、ここまでです。いま書いている原稿があがったら、続きを詳しく書きます。

 それと、中原美紗緒(みさお)の「河は呼んでいる」についても、新説を書く予定。この人のことも、若い人は知らないでしょうなあ。テレビドラマ「あんみつ姫」を演じた美形のシャンソン歌手で、挿絵画家の中原淳一の姪(めい)っ子だった人……。

(城島明彦)

2009/06/18

「星野ジャパン」の教訓はどうなった!? 日本代表といわず、なぜ「岡田ジャパン」というのか?

 テレビのスポーツニュースを見ていたら、サッカーの日本代表の戦績を報じるシーンで「岡田ジャパン」を連呼している局があり、イライラさせられた。

 日テレである。

 日テレのアナウンサーは、そうするのが当然かのように、「岡田ジャパン」を繰り返していた。

 そういえば、かつて「ゴ~~ル!」を連発して物議をかもしたのも、この局のアナウンサーではなかったか?

 私は野球大好き、相撲大好きだが、サッカーには興味がないので、試合中継は観ない。
 しかし、野球や相撲の結果をスポーツニュースを見ていると、サッカーの試合のダイジェストも目に入ってしまう。

 したがって、サッカーの2010年に開かれるサッカーの「W杯(ワールドカップ)南アフリカ大会」のアジア予選がどうなっているかぐらいはわかる。

 そのとき、イライラするのは、「岡田ジャパン」「岡田ジャパン」と連呼されることである。

 日テレが一番ひどい。局全体でそういうように決めてあるのか、スポーツの結果を報じる番組では必ず「岡田ジャパン」という。

 「おまえら、プロ野球のWBCの教訓を忘れたのか。試合をやっているのは選手であって、監督ではない」
 
 番組を見ていて、そう怒鳴りたくなったが、ふと、NHKや他の民放もそういっているのかもしれないと思って、見てみると、さすがにNHKは岡田ジャパンなどとは一言もいわず、「日本代表」で通していた。

 日テレは、野球のWBCで、なぜ「原ジャパン」をやめて「侍ジャパン」に名称を変えたのかという教訓を忘れてしまったと見える。

 「日本代表」といわないのか。なぜ「日本代表」どうしていえないのか。

 岡田監督が退場させられた試合で、日本代表は勝利しているが、それも岡田采配なのか?

 「日本代表」といえば、選手が主体にした呼称になるが、監督のことも含めたニュアンスは出る。

 テレビ局にとって言葉は「商品」だ。
 言葉を商売にしている企業なのだから、それくらいのことは考えてしかるべきである。

 それを馬鹿の一つ覚えのように、「岡田ジャパン、岡田ジャパン」と連呼するのだから、、あきれてものがいえない。

 その点、原辰徳は偉かった。
 星野仙一なら、「星野ジャパン」といわれて当然と思ったろうが、原辰徳は〝ファンの気持ち〟や世間の考え方をよく理解していた。

 そういえば、WBCでは、日本列島が連日連夜、フィーバーしまくるなかで、ひとりカヤの外だったテレビ局が日テレであった。
 あれで原は男を上げ、星野は男を下げた。あの時点で星野の時代は終わったのだ。誰もがそう思っている。

 ところが日テレは、いまだに「NEWS ZERO」で星野をコメンテーターとして定期的に使い続け、野球以外の事件や政治問題まで星野にコメントをいわせている。

 よほど人材不足とみえる。

 世間の感覚とズレまくっている星野のコメントなど聞きたくもないと思っている視聴者が多いことを、日テレは気づいていないらしい。

 「どうせ聞きかじりか、誰かの受け売りだろ? それを知ったかぶりして」
 視聴者のほとんどは、星野のコメントをそう思っている。

 ニュースはニュースで、専門家にきちんとコメントさせろ、といいたい。
 
 メインキャスターの村尾は、論点も鋭く、好感がもてるが、それを星野がぶち壊している。

 今の星野のイメージは昔の星野のイメージではなく、〝ダーティー〟な印象が強すぎる。そしてそのイメージは日テレのイメージにも波及する。

 ついでにいうなら、タレントの桜井翔がわけ知り顔に政治問題やら経済問題などを解説したり論じたりするのも閉口する。

 ついでのついでにいうなら、フジテレビの「サキヨミ」という報道番組も超レベルが低く、視聴者を愚弄している。

 そういう番組に共通するのは、ニュースを芸能化しているということだ。時事問題や経済問題をわかりやすく報じるということと、芸能人を起用して親しみやすくさせようとすることは次元が違う。

 視聴率を上げることばかり考えていると、テレ朝の「報道ステーション」ように、「大スクープ! 世界初! 金正日の後継者といわれる彼の三男正雲の写真入手!」などといって、そっくりさんの写真を報じるという笑止千万な大失態をやらかしてしまうのがオチである。
 
 あれ以来、視聴者の頭には、「報道ステーション」がどんなことをいっても、「また、ガセか?」という思いが頭の片隅にインプットされることになった。

 報道ステーションの大ポカの背景には、きちんと調査しないでガセネタに飛びつき、「世紀の大スクープ」として流してしまうという企業体質が関係しているのではないのか。

 報道番組での田原総一郎の「拉致事件の被害者死亡発言」、戦後最大のスクープと銘打った「川島芳子の遺骨発見の報道番組」……。

 一度なら目をつむれるが、二度も三度と立て続けに勇み足をくりかえすと、そう思われても仕方がない。

 話をサッカーに戻す。
 日テレの「岡田ジャパン」に驚いて、NHKを見ると、そうはいわず、「日本代表」といっていた。
 テレ朝やTBSのスポーツニュースも「流し見た」が、そのときの他局はみな、「日本代表」といっていた。

 ところが、TBSは今朝の「朝ズバッ!」のなかで、「岡田ジャパン」といい、ごていねいにもフリップにもそう書いてあった。

 それを見て思った。
 「同じ局内でも徹底していないのは、番組担当のディレクター、プロデューサーによるのではないか。知的レベルの低いディレクターやプロデューサーが担当しているスポーツ番組では、相も変わらず、監督名をチーム名としてしまっているのかもしれない」と。

 そういうことをチェックできていない局も、またレベルが低いということになる。

 少しは頭を使って、いい名前を考えてプレゼントしてやったらどうか。

(城島明彦)

2009/06/17

菊池夏樹『菊池寛 急逝の夜』出版記念会の夜

 6月16日(火)午後6時から、JR市ヶ谷駅そばのアルカディア市ヶ谷(私学会館)で、元文藝春秋の編集者菊池夏樹さんの処女作『菊池寛 急逝の夜』(白水社)の出版記念会が開かれ、私も顔を出した。

 名前から察しがつくと思うが、菊池夏樹さんは、文豪にして文藝春秋の創設者菊池寛の孫である。
 夏樹という名は菊池寛がつけたが、夏樹さんが2歳のときになくなってしまった。

 発起人には作家の伊集院静、逢坂剛、大沢在昌、勝目梓の4氏が名を連ね、文壇の大御所である渡辺淳一、井上ひさし両氏が挨拶した。

 私が物書きになってまだ日が浅い頃、逢坂さんと大沢さんと私は、菊池さんに赤坂見附にある店の座敷ですき焼きをごちそうになったことがあった。

 そのとき逢坂さんから、私と逢坂さんが同じマンションに住んでいたことがあると聞いて驚いた。

 当時住んでいたのは、板橋区の蓮根というところにあった3DKのマンションだった。
 私が7階で逢坂さんは2階。702号と202号で垂直の位置関係であったから、間取りはまったく同じだったのだ。
 
 私が文藝春秋発行の小説誌「オール讀物」の新人賞を受賞したとき、当時勤務していた会社と付き合いがあった博報堂のある営業マンから「気づきませんで、申し訳ありませんでした。うちの逢坂剛にいわれて、知りました。受賞、おめでとうございます」といわれて、びっくりした。

 逢坂剛さんの名前は知っていたが、その人が博報堂に勤めていることは知らなかった。

 その分譲マンションに入居した私が、一階の郵便受けにずらっと並んだ名字のなかで最初に覚えたのは「中」という名字だった。

 「中」という名字が気になったのは、一文字の名字はそこだけで、しかもバランス感覚抜群の左右対称文字で目を引いたということ以外に、別の理由もあった。

 私は中日ドラゴンズの大ファンなのである。そのドラゴンズには、かつて「中利夫(なかとしお)」という名選手がいたのだ。今日に至るも、彼と同性のプロ野球選手は出ていない。

 中利夫は、センターを守っていた。センターは日本語でいえば「中央」、つまり「中」で、彼の打順が回ってきて「センター中」と場内アナウンスされるのを耳にするたび、あまりにできすぎではないかと思ったものだった。

 「オール読物」には、新人賞と推理小説新人賞の二種類がある。逢坂さんがそのマンションの部屋で書いた小説が1980年に「オール讀物」の「推理小説新人賞」を受賞し、作家デビューを果すが、私は、ちょうどそのから、小説を書いたいと思うようになっており、その2年後に「オール読物」の「新人賞」に80枚くらいの短編小説を応募した。

 同じマンションの住人がすでに新人賞を受賞していると知っていたら、別の賞に応募していただろうが、幸か不幸か、私は「オール讀物」の定期購読者でなかったためにそのことを知らなかった。
 今考えると、作家に必要不可欠な情報収集力が著しく欠如していたということになる。

 初めて応募した作品だったが、最終候補の3点まで残った。しかし、私だけが選に漏れ、残る2作が同時受賞した。

 それからしばらくして、「オール讀物」の編集者と名乗る人物から当時の勤め先へ電話がかかってきた。「会いたい」という。それが菊池夏樹さんだった。

 彼はえらく気を使う人で、待ち合わせ場所を銀座のソニービルにした。当時私がソニーに勤めていたからだった。一事が万事、この調子である。

 菊池夏樹さんは1946年6月26日生まれで、私はその2週間後の7月10日生まれ。性格も考え方も違うが、同じ時代の空気を吸って生きてきたという共通点がある。

 菊池夏樹さんは、いろいろアドバイスしてくれ、次に応募するときは直接、自分宛に送ってくれ、といってくれた。「オール読物」の新人賞は今は年1回だが、当時は2回だったので、私は会社勤めでよれよれになりながら、コミカルタッチの小説を書いたが、書きながらどこか違うなと思っていた。
 
 菊池さんに送ると、これはダメですといわれ、別のものに着手した。
 それを書きながら、「これでダメなら、以後、応募することはやめよう」と思っていたので、入選したとの知らせを受けたときはうれしかった。

 彼は1946年6月26日生まれで、私はその2週間後の生まれ。性格も考え方も違うが、同じ時代の空気を吸って生きてきたという共通点がある。
 
 出版記念会が終わりに近づいたとき、突然、私の名が呼ばれた。しぶしぶ壇の方へ出て行くと、彼はマイクに向かってこう紹介した。
「私が文藝春秋時代に担当させていただい作家の98パーセントが直木賞をとり、売れっ子作家になりました。残る2%は、この人です」
 私は、へらへらと笑うしかなかった。笑いながら、私は彼がいつも私に呈してきた苦言を思い浮かべていた。
「あなたほど、私のいうことに耳を貸さなかった人はいない」

 話が終わると、「見つかってしまいましたね」と声をかける人がいた。顔を見ると、ぶんか社の編集者の小川将司さんであった。

 菊池さんは、小川さんの編集担当で、菊池寛が書いた「競馬読本」をテーマにした祖父と孫のコラボレーション読み物を、7月にぶんか社から出すことになっている。

 私は、同社から8月5日に発売される書き下ろし小説を執筆中の身であり、本来なら家で青い顔をしてパソコンに向かっていなければならない立場なので、「やばい」と思った。小川さんは、その担当者なのである。

 小川さんと知り合ったのは、作家の角川いつかさんの紹介だが、話してみると、彼は、菊池夏樹さんが文藝春秋を退職した後、会長に就任した出版社に以前勤務していたことがあり、菊池さんをよく知っているということだった。世間は狭い。

 お開きになり、会場を出ると、二次会に繰り出すらしい〝のんべえ組〟の編集者や作家が集まっていた。

 昨年、小説執筆について手紙でアドバイスをしてくれた大沢在昌さんがそこにいたので、「がんばりま~す」と挨拶して階下へ向かった。

 菊池夏樹さんとは、近々、共著を出す計画が浮上している。うまくいくよう、がんばりま~す。

(城島明彦)

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