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2009/05/15

朝青龍の張り差し、何とかならないか

 朝青龍は、肘(ひじ)に痛みをかかえながらも奮闘してはいると思うが、毎度毎度の張り差し、あれは何とかならないのか。

 小結や関脇くらいの力士なら、「またか。しょうがない奴だな」ですむが、横綱となるとそうはいかない。

 くせになってしまっているようで、実に情けない。

 朝青龍の体つきは立派な横綱であり、横綱らしい貫禄も備えているが、毎度毎度の張り差しは、「横綱相撲」という言葉とは相容(あいい)れないものがある。

 相手を押したり突いたりするのが正面からの力であるのに対し、張り手は横からの力だから、特殊な使い方になる。

 そういう特殊な張り手の稽古をしまくっている力士がいるなどという話は、聞いたことがない。

 だが、もし誰かが、特殊な鍛錬方法を駆使して、手のひらの皮を異常にぶ厚く、堅く、鋼鉄のごとくに鍛えまくって最大の武器とし、「得意技・張り手」ということになったらどうなる!?

 張り手が許されるなら、「空手チョップ」も許されてもよさそうなものだが、相撲技にはない。

 それが、相撲の美学というものなのだろう。であれば、張り手は、相撲技としては、美学すれすれ・ぎりぎりの技とであるといえはしまいか。

相撲道を踏みはずしかねないギリギリのきわどい技を、出会いがしらに、いきなり相手にぶっ放すのを得意とする横綱の姿は、美しいものではなく、横綱としての自覚が足りないというほかない。

 朝青龍は、「相撲魂」というものが完全にはわかっていないように思える。今場所も、相撲が終わってから相手力士にガンを飛ばすという、横綱にあるまじき行為があった。

 話は変わるが、東関親方が今場所を最後に引退するそうだ。

 東関親方というより、彼は、やはり、今でも高見山だ。

 高見山は横綱にはなれなかったが、土俵態度は横綱だった。

(城島明彦)

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