村田修一(横浜ベイスターズ)、〝名誉の負傷〟で戦線離脱。これがあるから、落合は中日の選手をWBCに送らなかった
宿命の対決日韓戦の第4戦、村田修一は、2回表のヒットに続いて、4回表にもヒットを放ち、1塁ベースを踏んだが、その直後に太ももに肉離れが起きて、無念の戦線離脱。そのまま病院送りとなった。
「村田選手は重傷」と原監督がコメントするのを聞いて、選手を送るのを拒否した中日の落合は、きっと心のなかで、「いわんこっちゃない」と呟いたに違いない。
ペナントレースの開幕を直前に控えたこの時期の肉離れは、彼だけでなく、横浜ベイスターズにとっても「悪夢」。しかも彼は、今年から選手会長。そういうキーマンのケガは、チームの勝敗を大きく左右することになる。
お国のために働き、大きな手柄をたてたが、戦場で負傷し、チームのためには働けなくなってしまったことは、複雑である。
村田は、WBCに7試合出場して25打数8安打、ホームラン2本、打点7。打率3割2分0厘という絶好調といってもよい好成績だったから、ロスでのアメリカとの準決勝、そしてその先の優勝決定戦(決勝)での活躍が期待されていた矢先の出来事であった。
彼は、北京五輪でも、風邪で調子が悪かったのに、監督の星野は休養を取らせず、酷使し続け、その結果、出場選手中、下から4番目というひどい打撃成績で終わってしまった。
こういう無茶で露骨な選出つぶしを見て、落合博満は、「うちの大事な選手をWBCでつぶされてはかなわん」と思ったのだ。こういう点でも、星野仙一が犯した罪は重い。無茶な指令を発して兵士を無駄死にさせた指揮官は、太平洋戦争中の日本軍にはたくさんいた。
村田には、内心、北京五輪での屈辱を晴らそうという秘めたる闘志があったに違いない。
私は熱狂的な中日ファンだが、「村田はよくがんばった。一日も早く復帰できることを祈る」と声をかけてやりたい。
選手にケガはつきものとはいえ、また不可抗力であるとはいえ、原には、〝親御(おやご)さん〟(各チームの監督)から〝よそ様の大切なお子さん〟(各選手)を預かった責任がある。原の心情が知りたい。
蛇足になるが、彼の心境を、「侍ニッポン」の替え歌で。
敵を討つのが 侍ならば
ロスへの未練が なぜ斬れぬ
伸びたあごひげ さびしく撫でて
村田修一 苦笑い
※1931年(昭和6年)に大ヒットした「侍ニッポン」(西條八十作詞)の元歌(1番の歌詞)
人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代(さかやき) さびしく撫でて
新納鶴千代(しんのう・つるちよ) 苦笑(にがわら)い
(月代とは、侍の頭の中央部の剃った個所のこと)
「村田修一のケガは、実はある人物の呪いではないか」と、私はひそかに思っている。その話は次回。
(城島明彦)
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