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2008/06/30

日本映画史上で最初に全裸になった女優(3) 肉体派三羽ガラス

 新東宝は、その社名からわかるように、東宝から分派・独立した会社でした。

 分派・独立は、「来なかったのは軍艦だけ」といわれた大労働争議が原因です。

 終戦直後の混乱のなかで起こったその争議は、戦車まで動員された激しい争議だったのです。

 共産党主導の組合のやり方に嫌気がさした俳優(大河内伝次郎、長谷川一夫、藤田進、入江たか子、山田五十鈴、、原節子、高峰秀子ら)や監督たち百数十名が大挙して組合を脱退、東宝を離れて、新しく映画会社を興します。

 それが新東宝でした。

 新東宝も、当初はまじめな映画を作っていたのですが、争議が終結して東宝が再び映画製作を開始すると、大物俳優や監督たちが古巣へ戻ったドサクサに乗じて、大蔵貢が社長に就任して急遽、「エログロ路線」に変更してしまいます。

 新東宝には、団塊世代がその顔と名前をよく知っている丹波哲郎、宇津井健、天知茂、菅原文太、若山富三郎、高島忠夫らの男優陣、八千草薫、大空真弓、池内淳子、久保菜穂子らの女優陣がいましたが、次第に嫌気がさし、他社へ移っていきます。

 そうした動きに抗して新東宝に残り、体を張ってエログロ路線を支えたのが、前田通子、三原葉子、万里昌代(ばんりまさよ)、小畑絹子といった肉体派女優でした。

 前田通子は、今でいうグラビアアイドルです。演技力はゼロに等しいけれど、おとなしげな顔に似合わないアンバランスな巨乳が魅力。

 三原葉子は、演技力のある、日本人体型の太めのグラマー。

 万里昌代は、演技力のあるエキゾチックな風貌の巨乳。

 肉体派3羽ガラスには、それぞれ個性がありましたが、女優として大輪の花を咲かせるまでには至らず、消えていきました。

 新東宝が誕生したのは一九四七年、そして消滅したのが六一年。団塊世代がこの世に生を享けた前後からスタートして、十代前半まで存続した映画会社ということになります。

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      『恐怖がたり42夜』(扶桑社文庫)に続く第2弾。 

     
(城島明彦)

日本映画史上で最初に全裸になった女優(2) 前田通子と石原慎太郎

 前田通子は日本橋三越に勤めていてスカウトされ、新東宝の女優になります。

 当時は女子社員をOLとはいわず、BGといっていました。

 ところが、「ビジネスガール」は「商売女=娼婦」を意味するということになり、「オフィスレディ」に呼称が変わったのです。

 彼女は、「海女の戦慄」などを監督した志村敏夫と愛人関係に陥ります。

 そして彼女は、弁士(べんし)上がりのワンマン社長大蔵貢(おおくらみつぐ)と衝突し、映画界から締め出されるのです。

 この大蔵貢という男、高倉みゆきという看板女優(「明治天皇と日露戦争」などで、皇后に扮した品のある女優)を愛人にしていましたが、そのことが露見すると「女優を愛人にしたのなら問題だが、愛人を女優にして何が悪い」と迷言を吐いて開き直ったことで有名です。

 「もはや戦後ではない」
 と「経済白書」が記したのは、前田通子が全裸で主演した「女真珠王の復讐」が公開された一九五六年(昭和三十一)のことであり、石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞、彼の弟の石原裕次郎が映画デビューを果たした記念すべき年でした。

 『太陽の季節』は、屹立(きつりつ)した男根で障子紙を突き破るという場面が話題をさらい、二十六万部を売ってベストセラー第一位となりました。「慎太郎刈り」にアロハシャツ、サングラスという「太陽族」のスタイルが若者たちの間に流行しました。

 その同じ年に日本映画初のオールヌードがスクリーンに登場したというのは、単なる偶然ではないように思います。

 「海女の戦慄」や「女真珠王の復讐」がDVDになっていることを知って、買ってどんな映画なのか確かめてみたいという好奇心と、見てがっかりしたくないという思いが、今、著者のなかで格闘しています。

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(城島明彦)

日本映画史上で最初に全裸になったグラマー女優(1)

 父に連れられて映画館へ行ったのは、二度しかありません。

 二回目が片岡千恵蔵主演の東映の「大菩薩峠」で、見た座席の位置まで覚えていますが、最初に見た映画の方は、タイトルすら覚えていません。

 けれど、予告編が〝あらかん〟こと嵐寛寿郎(あらしかんじゅろう)演じる大塩平八郎の映画「風雲天満動乱(ふううんてんまどうらん)」だったことは覚えています。

 田舎から四日市という地方都市に出てきて三年目の、一九五七年(昭和三十二)夏の出来事でした。

 入場時に手渡されたパンフレット(A4の半分サイズの大きさで、それが二つ折りにされていました)には、近日上映作品の刺激的な写真も印刷されていました。

 長い髪のグラマー女優が大きな水玉模様のパンティー一枚を身につけただけの格好で岩場に座って、豊かな胸をクロスさせた両手で隠しているだけの大胆なカットでした。

 乳房を両腕でかかえ込むようにして〝寄せて上げて〟隠しているので、豊満さがよけい強調されており、当時、子供ながらも妙に興奮したことを覚えています。

 このとき、著者は小学五年生。風呂屋へ行っても、もう女風呂へは入浴できない年令になっていました。

 映画のタイトルは「海女の戦慄(せんりつ)」で、彼女の名は前田通子(みちこ)。

 前田通子は、ある意味で「日本映画史上に残る女優」なのですが、そのことを知っている人はほとんどいないでしょう。

 もし知っている人がいたとしても、DVDが発売されて以降の近年のことでしょう。前田通子という女優は、知る人ぞ知る存在だったのです。

 実は彼女、日本映画で初めてオールヌードを披露した女優なのです。

 一糸まとわぬ全裸で岩場にすっくと立った姿は、うしろ向きではありましたが、尻の割れ目まで露出していました。

 「海女の戦慄(せんりつ)」の前年に封切られた「女真珠王の復讐」という映画のなかでの出来事です。

 今回、「海女の戦慄」の映画ポスターを調べてみたら、「肉体派№1 前田通子主演」「炎の肉体! 焼けた砂の上の欲情! 悶える乳房に秘めた海底の宝石!」というコピーが書かれていました。

  ――以上は、今、執筆中の原稿より抜粋。

(城島明彦)

角川いつかさんの本

 作家の角川いつかさんから写真が何枚か送られてきた。

 去る18日に、彼女の出版記念会パーティーで開かれたが、その会が終わった後、角川さんを含めた9人で同じ建物にある喫茶店へ行き、長時間、だべった。

 メンバーは、彼女の本『ハッピィールール-出逢いの星があなたを変える』を出版した菊池夏樹さん(文藝春秋を定年退職し、今はジュリアン出版の会長)、同じく、『わしづかみにする交渉術』を出版したリーダーズノートの社長ほかである。

 角川さんの本は、タイトルがいい。

 『非情な男ほど、なぜもてる?』(主婦の友社)、『成功する男はみな、非情である』(だいわ文庫)、『出逢いのバイブル 運命の五人』(ぶんか社文庫)、『別れたほうがイイ男、手放してはいけないイイ男』(PHP研究所)など。

 これらのタイトルを見て、

 「あひゃっ、俺はお呼びじゃないんだね」

 などと嘆く男もたくさんいるはず。そういう女運の悪い男に、(自分のことは棚上げして)オススメするのは、

 『男を上げる とびっきりのイイ女 男を下げる とんでもナイ女』(ぶんか社)

 いわゆる、「あげまん」「さげまん」というやつですな。

 石原裕次郎が主演した映画に「嵐を呼ぶ男」というのがあるが、「幸運を呼ぶ女」「幸福を呼ぶ女」というのは確かにいる。しかし、その逆の女も、またいる。

 勉強になりますぞ、ご同輩! 
 
(城島明彦)

2008/06/29

「CMソングの神様」がいた

 今の若い人は三木鶏郎(みき とりろう)という人のことを知らないでしょうが、彼は「CMソングの神様」でした。

 団塊世代は、少年時代や青年時代に一人の例外もなく、彼の作ったCMソングの洗礼を受けています。

 彼が生涯に作ったCMソングは、数千曲はあると思われます。

 次のCMソングは、全部、三木鶏郎が作ったものです。団塊世代の読者は、そのほとんどを知っているのではないでしょうか。

 「ワ、ワ、ワ、ワが三つ。ミツワ石鹸」

 「明るいナショナル、明るいナショナル、ラジオ、テレビ、なんでもナショナル」
 
 「ジンジン仁丹、ジンタカタッタッター」
 
 「くしゃみ三回、ルル三錠」

 「カーン、カーン、カネボウ」

 「丸金自転車、ホイのホイのホイ」
 
 「グリコ、グリコ、グリコアーモンドチョコレート」
 
 昨今のCMは、有名俳優やタレントを使ったり、映像的に凝ったものが多く、CMソングも売れている歌手の曲を用いる傾向が強くなっています。

 それはそれなりに視聴者を楽しませますが、CMはがんがん流されても、どこの企業のCMであったのか、印象に残らないものが増えています。作り手が、「CM本来の役割を忘れている」から、そうなるのです。

 三木鶏郎のつくるCMソングは、そうしたCMとは対極にありました。

 彼のつくるCMは、企業名や商品名最重視で、詞がきわめてシンプルかつムダがなく、曲はとても明るくて温かみがあり、子供、大人を問わず、誰にも親しみやすく明るいメロディーでした。しかも、どの曲もしゃれていました。

 CMソングに対する彼の考え方が一番よく現れた最高傑作は、「キリンレモン」のCMソングです。

 歌詞は「キリン」「キリンレモン」という言葉だけのくりかえしで、最後に「うちじゅうでみんなキリンレモン」で締めくくっています。

 日本の三大CMクリエイター(作詞作曲家)をあげるなら、ダントツの一位が三木鶏郎で、二位が浜口庫之助、三位が小林亜星ということになるのではないでしょうか。
 
 三木鶏郎は、〝やめ検〟(元検事)の弁護士を父に持つ裕福な家庭で育ち、東大法学部を卒業した秀才でした。

 彼は音大にこそ行っていませんが、子供の頃から音楽に関心を持ち、個人的に先生について学んでいます。
 
 戦後、ジャズの楽団を組んで、自らも演奏していたことから、彼は好んでスィングジャズを取り入れました。

 歌謡曲も作りました。団塊世代が子供の頃、聞いたことがある宮城マリ子の「毒消しゃいらんかね」や中村メイコの「田舎のバス」(田舎のバスは おんぼろ車 ガタゴト道を ガタゴト走る……という歌詞)がそうでした。
 
 彼は、「冗談音楽」を日本で手がけたにとどまらず、テレビアニメの主題歌も作っています。

  ビルの街に ガォー
  夜のハイウェイに ガォー
  タタタタタンと 弾(たま)が来る
  パパパパパンと 破裂する
  ヒューンと飛んでく 鉄人28号

 「鉄人28号」の主題歌ほかにも、「遊星王子」「ジャングル大帝の歌」も三木鶏郎が作ったのです。

(城島明彦)

2008/06/27

ものを知らない編集者の増殖を嘆く

 「何枚で書けばいいのか」

 と尋ねると、怪訝な顔をする〝ものを知らない編集者〟が近年増殖傾向にある。

 かれらは「枚数」ではなく、「字数」でいうのが当たり前、と錯覚しているようで、

 「5万字」
 
 と答え、なぜ枚数でいうのか、と不審そうな顔をする。

 ビジネス文書の延長で、小説や随筆の原稿を考えているらしい。

 400字とか1000字といったような少ない枚数ならわからなくもないが、何万字、何十万字などという言い方を平気でする神経はまともではない、としかいいようがない。

 「枚数と字数の両方をいう」のならわかるが、「小説を字数だけでカウントする」のはおかしい。

 「1000字小説」などと銘打っているようなケースは例外。

 原稿用紙の基本は「20字×20行=400字」の400字詰め原稿用紙。(映画の場合は、200字詰めが基本)

 原稿用紙は、元来、枚数で数えるもの。原稿の数え方は、「一枚、二枚……」だ。
 
 「3万字でお願いします」といわれたら、作家は面食らう。

 頭のなかで、割り算をすることになる。

 (3万÷400=75枚か)

 二度手間(にどでま)になる。

 枚数でいわれると、どれくらいの長さのものを書けばいいのか即座にわかるが、10万字だの30万字だのという大きな数字を口にされても、ピンとこない。

 いきなり大きな字数を口にする編集者は、そのあたりの基本的なことが抜けているということになる。
 
 字数計算を軽んじていいというのではない。

 雑誌や本を編集するときのことを考えて、いきなり字数をいうのかもしれないが、そういう計算は、自分たちがやればいいのであって、原稿を依頼した相手に、そういう言い方はすべきではない。

 原稿をパソコンで書き、原稿用紙のマス目が必要なくなった時代であっても、編集者は、そういった基本的なことをわきまえていないといけない。

 私がワープロを初めて使ったのは、今から25年も前だ。現在はパソコンのワード原稿で書いているが、1ページ400字で書くと、スカスカになるし、全体を眺めづらいことから、「一ページにつき、40字×40行=400字詰め原稿用紙にすると4枚」で書いている。

 たとえば、5ページめの原稿を書いているとすると、その数字に4を掛けたらいいわけで、

 「今、20枚だな。あと残り4枚か。そろそろ、結末に入らないといけないな」

 と計算できる。

 広告業界では、デザインやレイアウトを重視するために、早い時期から「何字」といってきたが、それはそれ。

 新聞や雑誌のように、一行の字数が決まっている場合、その字数を告げて「何枚でお願いします」という言い方はある。

 そうしたことをわきまえた上で、字数をいうのならいいが、そういうことすら知らず、大きな字数をいきなり口にするのは、まともな編集者ではない。

 邪道がまかり通り、それをおかしいと思わない神経の者が増殖しているのは、嘆かわしいことだ。

 (PR) 城島明彦著 短編小説集『怪奇がたり』(扶桑社文庫)7月半ば発売

(城島明彦)

2008/06/20

朝日は偉い「鳩山は死神」だと

 朝日新聞のコラム「素粒子」は、次々と死刑を行わせた鳩山邦夫法相を「死神」と書いた。

 やりすぎというより、良識を問われるレベルの低いギャグとしかいえない。

 「素粒子」は、複数の編集委員が匿名で書いている。
 
 匿名だからといって、いいたい放題、書きたい放題、悪ふざけが許されるというものではない。

 権力者をいたぶって、「庶民の味方でございます」というポーズなのか?

 鳩山が目に涙を浮かべて抗議したので、朝日は「こりゃ、まずい」と思ったのか、苦しい弁明のコメントを発表したが、「そんなことをするくらいなら最初から書くな」といいたい。

 誰だって、死刑執行の書類に判を押したくはないさ。

 だから、歴代の法相がなるべく判を押さないようにしてきたのだ。

 鳩山は、多発化する凶悪犯罪の抑止力になることを期待して、死刑を行う指示を出したのだ。

 国を憂える気持ちが彼の根底にある。


 抑止力に関しては、死刑反対派の国会議員亀井静香(元警察官僚)は、

 「抑止力などない。死刑をどんどんやっても、凶悪犯罪は減っていないじゃないか」

 といっているが、私はそうは思わない。

 何の罪もない人を勝手な理由で何人も惨殺しておいて、刑務所にぶち込まれても、反省の色すら見せない〝冷血な人でなし〟もいる。

 そういう人間までも「死刑にしないで生かし続ける」理由は何なのか。理解に苦しむ。

 死刑に値する人間とそうでない人間がいるわけで、それを一緒くたにして「死刑賛成」「死刑賛成」というつもりはない。

 文豪菊池寛は、『恩讐の彼方に』という名作を残している。

 私は、小学校時代に国語の教科書で、読んだ。小学生向けに「青の洞門」という題名になっていた。

 親を殺されて、その仇を討とうと探していて、ついに犯人を発見するが、そのとき犯人は、悔い改め、僧となって交通の難所となっていた場所にトンネルを掘っていた。

 自分を仇と狙う相手に「殺してくれ」というが、犯人の姿に打たれた相手は、首を振り、一緒になって洞窟を掘り続け、トンネルを開通させるのである。

 殺した人間と、殺された遺族との間に、こういう美しい結末がなくはないが、そういう心境(相手を許すという気持ち)に達するすることができる人間は、例外中の例外といってよい。

 秋葉原で殺された遺族の声が、テレビニュースを通じて流されているが、彼らの心情に共通しているのは、

 「犯人を許せない」

 の一言である。

 先に死刑の判決が出た「光市母子殺人事件」の遺族(夫)は、終始一貫して、「犯人は死刑になるべきだ」とエキセントリックなまでに叫び続けてきた。

 だが、先日の判決が近づいたあたりから、妙にトーンダウンし、「迷っている」といったニュアンスのことを口にし始めた。

 なぜそうなったのか。いろいろ推理できるが、ここではあえて書かない。

 
 抑止力ということについていえば、秋葉原の通り魔事件のあと、ケータイサイトに犯人を模倣した「殺人予告」の書き込みをする「愉快犯」が続出している。

 警察は、悪質な連中を逮捕する挙に出たが、これは明らかに抑止力として働くだろう。

 ケータイサイトに「匿名」で書いても、正確なアドレスやそれを誰が書いたのかということが特定されてしまうとわかれば、「軽い気持ちのおふざけ」や「世のなかを驚かしてやれ」的な愉快犯は激減するはずである。

 しかも逮捕されるとなれば、効果は抑止効果は目に見えて大きくなるだろう。

 明治以前、処刑現場を公開したのは、抑止力を期待してのことだった。

 「絶対に、誰にもばれない。警察にも捕まらない」

 と思うからこそ、凶悪犯罪が起きる。
 
 「簡単に捕まる」

 と思ったら、犯罪に走ったりはしない。

 「もし捕まっても、死刑になることは絶対ない。刑に服し、模範囚でいたら、恩赦でシャバに出られるかもしれない」

 ということになれば、凶悪犯罪に走ることを躊躇しなくなる。

 「世田谷の一家殺人事件」のように、いっぱい証拠があるのに、犯人が逮捕されないという、日本の警察の捜査力の低下が、凶悪犯罪を増加させているのだ。

 そこのところをきちんとすることを、まずやるべき、というのが私の主張である。

 端的にいえば、警察官の大量増員であり、イギリスのように監視カメラをあちこちに取りつけるということ、警察官の給料をあげて、優秀な人材を確保するようにするといったことなどだ。

 「振り込め詐欺」にしても、銀行の監視カメラで撮影した映像の解像度がひどすぎる。

 もっといいカメラを取り付けろ、といいたい。

 どこで誰が引きだしたかが映像ではっきりわかるようなシステムにしてあれば、犯人は簡単に逮捕できる。

 しかし、銀行は、そういうところには金をかけない。そこにも問題がある。

(城島明彦)

ゲンコツ条例だって!? 愛のムチ条例だって!?

 〝そのまんま東〟(東国原英夫宮崎県知事)は、話題づくりがうまいね。

 ある県議会議員の発言を受けて、子供への体罰問題に、また一石を投じようとしている。

 「ゲンコツ条例」とか「愛のムチ条例」を作って、悪さをした子供たちに学校の先生が拳固(げんこ)の一つもくれてやることを認めようというアイデアだ。

 その県議会議員は、秋葉原で起きた「ナイフによる無差別連続殺傷事件」を念頭において、

 「自分らが子供の頃は、筆箱にナイフが入っていた。しかし、誰もそれを凶器としては使わなかった」

 といった。

 私も、ナイフを使った殺傷事件が起きるたびに、そう思ってきた。

 「自転車のチェーンもって、しばきにいった」

 なんていうことは、「不良」と呼ばれていた連中のなかでも、番長クラスのやつらがやった程度。

 彼らにしても、ナイフを使って、相手をどうこうしたということはまずなかった。

 「愛のムチ」「愛のゲンコツ」(教師による体罰)について、教育評論家は賛否両論のようだが、少々の体罰は必要だ。

 昔、教師にひっぱたかれたり、バケツを持たされて長時間廊下に立たされたりした経験のあるおじさんたちは、

 「『そうされても仕方がない』と子供自身が思うレベルの体罰は必要」

 と思っているのではないか。

 「体罰を行う教師に愛情がこもっているかどうか」

 などと、もっともらしい理屈をこねる評論家にろくな奴はいない。

 愛情があるかないかを、どこで判断できるのか。

 愛情の程度を、誰がどう判定するのか。

 「こんなガキ、どうでもいい」

 と思ったら、人は無視するはず。

 「そういうことをすると、ほかの子供たちが迷惑する」

 「そういう行為はやってはならない」

 ということが頭でわからないガキなら、「軽い体罰」で教えるしかないではないか。

 尊敬に値する教師かどうかなどという議論をしたら、「そんな教師はいない」という話になって、その時点で「ジ・エンド」になってしまう。

 今の教師のレベルが下がっているわけではない。昔の教師にも、ひどい奴はいっぱいいた。

 むしろ、昔のほうがいい加減な教師が多かったかもしれない。エロ教師も、飲んだくれ教師もいっぱいいた。

 教師に対する世間の見方が、昔はなまぬるかったというだけの話。

 その根底には、教師を「(ある程度の)聖職者」と見る考え方があった。

 だからこそ、「わが師の恩」などという歌詞の歌を卒業式で歌っても、違和感をあまり感じなかったのだ。

(城島明彦)

苗字はおもしろい(木偏)

 日本語は楽しい。苗字はおもしろい。

 「春木」は、「椿」(つばき)を分解した苗字。椿は春を告げる木だ。

 「夏木」は、「榎」(えのき)を分解した苗字。

 「秋木」は、「楸」(ひさぎ)を分解した字だが、こういう苗字はない。

 「冬木」は、「柊木」(ヒイラギ)を分解した苗字。

 
 「南木」(なぎ)という苗字がある。組み合わせると、「楠」(くすのき)になる。楠木正成の系統かもしれない。

 「真木」を組み合わせると 、「槙」(まき)という木の名前になる。

 
 柿→「市木」、柏→「白木」、椙(すぎ)→「昌木」(まさき)、槐(えんじゅ)→鬼木、榊(さかき)→「神木」(かみき)、柘(つげ)→石木……。

(城島明彦)

2008/06/18

世直しに効く、電車の中吊り広告・駅貼りポスター

 タイトルは「世直し」となっているが、「マナーの徹底」というべきかもしれない。

 最近、電車のなかでケータイ電話をかける人は、めったに見かけなくなった。

 かける人は、他の乗客の冷やかな視線にさらされ、居心地が悪くなるようになった。

 車内での電話に抑止力を発揮したのが、車内放送であり、駅構内や地下通路などに貼られた「注意書き」。

 人は弱い生き物。繰り返し繰り返し、注意されると、やめてしまう。やめざるを得なくなる。

 ケータイの次は、「車内での化粧」というわけで、東京メトロ文化財団は、

 「家でやろう」
 
 というキャッチコピーの高校を駅構内などに貼った。

 それでもまだ、車内で化粧しているトシマOLやガキンチョ娘が結構いる。

 彼女らは、

 「なぜ車内で化粧してはいけないのか」

 「車内での化粧は、なぜ他人を不快にするのか」

 ということがわかっていない、おバカさん。
 
 ケータイも、最初はそうだった。

 繰り返し、繰り返し、放送されているうちに、次第にやめるようになった。

 そこで、

 「車内で化粧するのは控えましょう」

 というアナウンスを流したらどうか、といいたい。百里の道も一歩から。

 「車内が込んでいるときは、足を伸ばしたり、足を組んだりするのはやめましょう」

 というアナウンスは、あちこちの電車ですでに流れているが、このようなことはいわれなくてもするのが常識。

 しかし、そういう常識をわきまえない人間が激増した昨今は、車内アナウンスなどで注意し続けるのが効果大。

 足の間にスポーツバッグや荷物を挟み込んで、足を広げて二人分の席を独占する奴など、まだまだ注意すべきことはいっぱいある。

 というわけで、私は横浜市交通局のモニターに応募した。

(城島明彦) 

2008/06/17

苗字はおもしろい(天・空・神・仏編)

 人は、神仏をあがめる。

 そして人は天空を仰ぎ見る。天空には、太陽(日)がある。月や星が輝く。

 日本の天皇は、天から降りてきた(天孫降臨)という伝説がある。仰ぎ見る対象ということだ。

 雨・風・嵐・雪も、人の力の及ばない天空から降ってくる。

 それらは人の畏敬の対象となる。
 
 そういうものも苗字になっている。

 神は、「かみ」「がみ」「かん」「しん」「じん」「こう」「ごう」と多様な読みかたがある。

 「神」という苗字のつく人の祖先は、自らを「神」と称jしたのではなく、神に使える仕事をしていたと考えるのが妥当。

 ●神……「神」(かみ)、「神戸」(かんべ、しんと、ごうど、こうべ、かみど、しんと)、「神山」(こうやま、かみやま、じんやま)、「山神」(やまがみ)、「神野」(じんの)、「神永」(かみなが)、「神長」、「上神」(うえがみ)、「中神」(なかがみ)、「下神」(しもかみ)、「神川」(かみかわ)、「神河」、「神村」、「神森」、「神守」(かみもり)、「川神」(かわかみ)……
  
 「天」という字のつく苗字の人の祖先は、天に近いところ(高いところ)に住んでいた。つまり、山に住んでいたか、神に仕える仕事をしていたか、天体観測に関わる仕事(呪術師、占い師など)をしていたか、渡来人ではないか。
 
 「天」は、「「てん」「あま」「あめ」と読む。

 ●天……「天堂」(てんどう)、「天童」、「天道」、「天池」(あまち)、「天知」(あまち)、「天宮」(あめみや)、「天川」(てんかわ)、「天田」(あまだ)、「天野」(あまの)、「天満」(てんま)、「天間」、「天馬」……。

 「仏」という字がつく人は、お寺関係の仕事をしていた人。仏師、仏壇職人も含む。
 
 ●仏……「大仏」(おさらぎ)、「小仏」(こぼとけ)、「木仏」(きぶつ)、「仏師」(ぶっし)……。

 ●空……「空」(そら、くう)を苗字にした苗字は、ありそうで、ない。「大空」「青空」は芸名に見られる程度。「朝空」、「夕空」もない。苗字に使われないのは、「からっぽ」「何もない」という意味が嫌がられたからか?

 苗字は、奥が深い!

(城島明彦)

2008/06/15

民間宇宙旅行者の日本人第一号とギョーザを食べた

 民間の宇宙旅行の日本人第一号(予定)は、このあいだまでライブドアの社長をしていた〝ひらまっちゃん〝こと平松庚三さんだ。

 去年の『ボクがライブドアの社長になった理由(わけ)』に続いて、ひらまっちゃん本の第2弾をつくる手伝いをすることになり、その打ち合わせを終えた後、彼に餃子の美味しい店へ案内してもらった。

 ひらまっちゃんは、ホリエモンの後を継いで、一躍「時の人」となったが、それから二年かけてライブドアを整理・再建したので、社長を退き、今は自身が出資したネット企業「小僧com」の代表取締役会長をしている。

〝再建請負人〟として外資系企業など数社を渡り歩いてきたひらまっちゃんだが、雇われ助っ人は卒業して、やっと念願の自前の会社の経営者におさまり、満足そうだった。

 ひらまっちゃんが連れて行ってくれたのは、「小僧com」のある飯田橋西口近くにある「おけ以(い)」という店。

 中高年サラリーマンや年かさのいったOLでいっぱいだったが、うまい具合に、カウンターに二人分だけ空席があった。

 「餃子の店」というだけあって、焼き加減も味も文句なし。とてもおいしかった。

 餃子をパクつき、ビールを飲みながら、ひらまっちゃんがいった。

 「くたばるときに、(それまでのことを振り返って)『まっ、いっか』と呟いて死ねたら最高」(「いいか」ではなく、「いっか」)

 私は、うん、うんと何度もうなずいた。

 なんだか、小学生の夏休みの絵日記のような文章になってしまった……が、「まっ、いっか」。

 (城島明彦) 

2008/06/14

苗字は奥が深い(命のみなもと編)

 日本語は楽しい。一字一字に意味がある。 

「起原(「起原」とも書く」)――「ものごとの始まり」という意味。
「根源」(「根元」とも書く)――「ものごとの大元(おおもと)」という意味。

「起」には「土」という字があり、「根」には「木」、「源」には「水」(氵 サンズイ)と「太陽」(日)がある。

 すべての「起源」、ものごとの「根源」は、「水」と「日」(太陽)と「土」と「木」(植物)だと教えてくれる。

 それらは、生きとし生けるものの命の源(みなもと)。

 そういうありがたいものを苗字にするのは当然。
 
 源――「源」、「源田」(げんだ)
 水――水野、水田、水江、水島、水原、水川、清水、迫水(さこみず)、速水(はやみ)
 日――日川、日山、日浦、日田(にった)、日山
 土――土田、土本、土山、土浦、土川、土井(どい)、土志田(としだ、どしだ)
 木――木村、木田、木本、木内、木島、木川田、沢木、楠木、針木、立木、梅木、瀬木(せぎ)、柏木

 (城島明彦)

2008/06/12

「名もない草花」は、おバカ表現

 体調が悪く、ベッドに寝てテレビを見ていたら、文筆を業とするかなり有名な人が、

 「名もない草花」

 といったので、驚いてしまった。

 その人が、その草花の「名を知らないだけ」で、99・99%の草花には、すでに名前がつけられている。

 したがって、文章を書くときには、まかり間違っても、

 「道ばたの名もない草花」

 などという表現をしてはならない。

 「(私が)名を知らぬ草花」(古い表現にするなら)

 「名前がわからない草花」(普通に表現するなら)

 「(私が)名前も知らない草花」

 と表現するのが正しい。

 「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実 ひとつ」(島崎藤村)

 彼が活躍した明治時代には、まだ未発見の島も存在していたにもかかわらず、きちんと表現している。

 なぜ、「名もない」という〝無知な表現〟が使われるようになったかといえば、耳あたりがよいからだ。

 「名もない島にたどり着いた」

 「路傍(ろぼう)の名もない草花に私は語りかけた」

 音読してみると、そのことがわかる。

 だからといって、間違った表現はいけない。

 日本語は正しく使いたいものだ。

(城島明彦)

2008/06/11

三谷幸喜は〝迷監督〟!?

 三谷幸喜脚本・監督の最新作「ザ・マジックアワー」公開の宣伝の一環として、フジテレビで彼の前作「THE 有頂天ホテル」を放映したのを見たが、退屈で途中で眠ってしまった。

 聞くところによれば、「THE 有頂天ホテル」の興収は60億円を超えたとのこと。

 これはすごいことなのに、そんな作品を、

 「筋(すじ)だけが上(うわ)すべりしているだけで、面白くない」「演出がドヘタ」「舞台中継をただ単純にテレビ中継しているような、ひどい演出」「カメラワークが最低」「登場人物がそろって薄っぺらく、実在感がない」

 などと感じた私は、自分の感覚が麻痺しているのではないか、とまじめに考えた。

 しかも、新作の興収は初日だけで5億円を超えたという。

 三谷幸喜は天才なのか。

 新作の公開に先立って、出資者の一社である宣伝上手なフジテレビは、

 「これでもか、これでもか」

 と、いくつものテレビ番組に三谷幸喜と主演の佐藤浩一を出演させ、話題性をあおった。

 私は体調をくずして床についていたので、そのほとんど全部を観た。

 観ながら、私が東宝で助監督をしていた頃、森谷司郎監督から直接聞いた話を思い出していた。

 森谷司郎は、黒澤明門下生の一人で「日本沈没」「動乱」「八甲田山死の彷徨」などの名作を残した名監督だ。

 「自作について、いろんなところでしゃべったり、書いたりしたらどうですか」

 と(当時、青臭い映画青年だった)私がいうと、彼はこう答えた。

 「映画監督は、自作について、ああだこうだと、くだくだ説明したり、ぺらぺらと話をしたりすべきではない。映画に表現されたことがすべて。観客が感じることがすべてだ」

 この言葉の意味を私は、

 「あそこのシーンは、実は、かくかくしかじか、これこれこういう意図でつくったんですよ」

 などとと、弁解がましいことはいうな、というように受け取った。

 なるほど、そういうものか、と思った。

 三谷幸喜という人は、発想が奇抜でユニーク、連続して素晴らしい興収を稼ぎ出す能力は非凡。
性格も(テレビでしか知らないが)よいようだし、面白い人で、好感が持てる。

 だが、映画監督としてのカット割り、カメラアングルやサイズ、人物の動かし方は、どうひいき目に見ても、「B級」としか思えない……。

 角川春樹を思い出した。

 角川春樹は「宣伝の天才」で、自身で映画を何作か監督し、大宣伝をかけ、話題を呼んだ。その結果、すごい興収をあげたが、映画の質はイマイチだった。

 三谷幸喜と角川春樹には共通する点がある。

 う~ん。 

 もっとも、私はまだ「ザ・マジックショー」を見ていないから、三谷幸喜をとやかくいう権利はまだないのかもしれないが。

(城島明彦)

2008/06/02

苗字は不思議だ(色編)

●色のつく苗字がある。

 白……「白田」(しろた)、「白川」(しらかわ)、「白井」(しらい)。
 黒……「黒田」、「黒川」、「黒井」。
 赤……「赤井」、「赤星」、「赤川」。
 紺……「紺野」。
 青……「青田」、「青山」、「青井」、「青」。
 緑……「緑川」。
 藍……「藍川」、「藍田」、「藍本」。

 (付録)
  ▼虹の色の覚え方……せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し
    
     せき(赤)・とう(橙 だいだい)・おう(黄)・りょく(緑)・せい(青)・らん(藍)・し(紫) 

  ▼名古屋名物「大須ういろう」……白・黒・抹茶・あがり・コーヒー・ゆず・さくら 

  
  ▼鯉のぼりの「吹流し」の色……青・赤・黄・白・黒」(五行思想にもとづく)

      青―「木」で「春」を表わす
      赤―「火」で「夏」  〃
      黄―「土」で「土用」 〃
      白―「金」で「秋」  〃
      黒―「水」で「冬」  〃
     
     木が燃えて火となり、灰になって土になる。
     土には金(金属)があり、生命の源となる水があり、その水を吸って木は育つ。
     その木が燃えて火となり、……。
     (こういう循環を、際限なく繰り返す)
      
  ▼五色の幕(寺で見かける)……青・赤・黄・白・紫(正式には黒だが、葬式で用いるので、紫にしている)

     「五正色」(ごしょうじき)あるいは「五大色」(ごたいじき)が正式な呼び名。

  ▼四季の色
     春―青春(せいしゅん)
     夏―朱夏(しゅか)
     秋―白秋(詩人の北原白秋は、これからとった。ただし、彼が生まれたのは一月だが、死んだのは晩秋)
     冬―玄冬(げんとう。玄は黒という意味)

(城島明彦)

2008/06/01

船場吉兆の〝ささやきの女将〟、あんたは偉い!

 船場吉兆事件で、全国にその名をとどろかせた〝ささやきの女将〟、あんたは偉い。

 よって、ここに表彰する。

 『表彰状 

〝ささやきの女将〟こと、湯木佐知子 殿

 あんたは、偉い!

 あんたは、戦後の日本の食料不足時代を体験してきた。

 あんたは、畳に落としたごはん一粒でも、もったいないから拾って食べる時代を生きてきた。

 そんなあんたは、道々ウンチを垂れたみっちゃんの「もったいないから 食べちゃった」精神に心打たれ、

 客が手をつけなかった料理をそのまま廃棄することなく、

 「使いまわせ」
 
 と従業員に指示を出し、有効利用した。

 なかなかできることではない。

 そのたぐいまれなる勇気と知恵と根性とクソ度胸をたたえ、ここにその名を記し、表彰する』

(日本もったいない精神継承会・名誉会長 城島明彦)

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