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2007/05/24

男の引き際・死に際

(はじめに)
 終わりよければ、すべてよし。
 男は「引き際」が大切である。
 どんなに立派な実績や素晴らしい成果を積み重ねて、世間から高い評価を得ていても、「引き際」を誤ると、それまでの努力が水泡に帰してしまう。
 そんな例は、過去現在を問わず、数え切れないほどある。
 政治家、スポーツ選手、俳優、経営者、作家、歌手……さまざまな分野で名を成した人や頂点を極めた人が、名誉や地位や名声に固執して、引退時期を誤ったり、晩節を汚してしまったりした例も、また枚挙に暇がない。
 ことほどさように「引き際」は難しい。

 では一体、人は、いつ、どのように辞めたらいいのか。
 余力を残して、惜しまれつつ、辞めるのか。
 生も根も尽き果て、ぼろぼろになるまで戦って引退するのか。
 名誉と名前に傷がついても、なお現役に執着するのか。
 引きずり下ろされるようにして辞めるのか。
 男の引き際は、実に難しい。

 「引き際」の最たるものは「人生の幕引き」つまり「死に際」である。
 ほとんどの人にとってそれは、病気や老化によってもたらされるが、一部の人間にとっては、何らかの理由で自ら人生の最後の幕を引かねばならない場面が訪れることもある。

 ある者は老残の身をさらしたくないという理由で、ある者は自身が生き続けることでほかの人間に多大な迷惑をかけたくないという理由で、またある者は永遠に口をつぐめば自身の名誉が守れるだろうと考えて、自死を選ぶことがあるが、そんな場合でさえ、時と場所を誤るとその人の評価を下げてしまうのである。

  ここで取り上げる著名人たちは、「引き際」「死に際」に対する筆者の人生観、価値観、美意識で判断しているので、当然ながら異論もあろう。

 あなたは、ここに登場する著名人たちの、どの「引き際」に共鳴し、どの「死に際」に納得するのだろうか。
 


●権藤博……「滅私奉公型」または「玉砕殉職型」

 「月月火水木金金」といっても、今の若者たちには何のことやらわからないだろう。
 太平洋戦争が始まって間もない頃、大ヒットした軍歌の題名であり、その歌の中で繰り返されるフレーズである。
 「月月火水木金金」は、日本海軍の艦隊の猛練習ぶりを歌ったもので、先日逝去した作家城山三郎の著書「毎日が日曜日」とはまるで逆。
 一週間は一週間でも、土日がないのだ。
 1番の歌詞は、「朝だ夜明けだ、潮の響き」で始まり、「月月火水木金金」で終わっている。
 2番、3番も最後の歌詞も同様で、戦意を鼓舞する意図が込められていた。
 
 しかし、どんなに戦意を高めようとも、短期決戦ならまだしも、戦争が長期化すれば負けるのは明らかだった。
 米国との軍事力の差は歴然としていた。
 そして日本は、日本開闢以来の領空侵犯を許し、米爆撃機B29による本土空襲を受けたのである。
 その結果、京都を除く大都市は皆、焼け野原と化し、そのあげくに原爆を2発も投下されて無条件降伏した。
戦争が終わり、戦地から九死に一生を得て復員してきた男たち、満州や朝鮮から裸一貫で引揚げてきた男たちは、廃土と化した日本を見て茫然と立ち尽くし、「永遠に立ち直れないのではないか」という不安に駆られた。
 
 そして連合軍の進駐。有史以来、初めて他国の支配下に置かれるという屈辱を味わいながら、われわれ日本人の祖父や父は、日本再建のために血眼になって働いた。
 
 月月火水木金金。働いて働いて働きまくった。
 しかし、「働けど働けど、わが暮らし楽にならず」だった。
 それでも働いた。月月火水木金金。いつかきっと生活が豊かになる日が来るだろうと思いながら――。

 敗戦から15年目の1960年(昭和35年)。
 国民の娯楽は、映画であり、大相撲でありプロ野球だった。
 その年、セリーグの覇者となったのは大洋ホエールズである。
 大洋は、前年まで「6年連続最下位」。この間までの阪神タイガーズのような〝どうしようもないお荷物チーム〟だったが、新しく監督に就任した知将三原脩によって奇跡的に〝見違えるような強いチーム〟に変身。
 チーム創設以来、初めてペナントレースを制したことから、〝三原マジック〟と賞賛された。

 三原人気の陰に隠れて、あまり話題にならなかったが、そのシ-ズンオフ、「ノンプロ」と呼ばれていた実業団チームの一つに所属していた右投げの投手が、セリーグで5位だったチーム「中日ドラゴンズ」と入団契約を結んだ。
 
 大洋ホエールズが次に優勝するのは、38年後である。球団名は「横浜ベイスターズ」と変わっていた。
 同チームを率いた優勝監督は、大洋が優勝した38年前にノンプロから中日に入団した右投げの投手だった。
 権藤博である。

 権藤博が、横浜ベイスターズの新監督に就任した98年に、抑えのエース〝大魔人〟佐々木主浩を投入する「勝利の方程式」(勝ちパターン)によって、同チームを38年ぶりの優勝に導いたことはプロ野球ファンなら誰でも知っているだろうが、現役時代の権藤の雄姿を見知っている人は少ないはずである。
 何しろ、権藤が活躍したのは今から40年以上も昔、1960年代前半のことなのだ。

 権藤は、〝太く短く生きた〟中日ドラゴンズのエースだった。
 プロデビューは大洋優勝の翌1961年(昭和36年)、筆者が中学3年のときだった。
 筆者は三重県四日市市で少年時代をすごした。
 あのあたりの子供のほとんどがそうであるように、筆者も熱狂的な中日ファンだったから、権藤博というノンプロの投手が中日に入団したということは、自宅で購読していた「中部日本新聞」(現中日新聞)のスポーツ欄やラジオのニュースなどで知っていた。

 権藤は、来栖高校からブリヂストンタイヤに入り、スカウトされてドラゴンズに入団したのである。
 権藤は、並みのルーキーではなかった。
 プロ1年目にいきなり35勝あげた。勝ち星も多かったが、負け数も多かった。35勝19敗。全130試合中69試合に登板し、429回と3分の1を投げたのである。
 これは、セ・パ2リーグ制になって以降、今日まで破られていない最多記録であり、今後も絶対に破られることのない大記録である。

 権藤の活躍で、その年の中日の成績は勝ち数71でトップだったが、勝率で巨人に7分劣り、1ゲーム差の2位でシーズンを終えている。
 中日の勝ち数71の半分は権藤があげていたのである。
 権藤が登板した69試合中、先発完投勝利したのが31回もあり、うち12回はシャットアウト(零封、完封)という凄さだった。

 権藤の凄いところは、それだけ投げていながら、防御率はセリーグトップの1・70で「最優秀防御率」に輝き、「新人賞」はいうに及ばず、投手最高の栄誉である「沢村賞」をも受賞している点だ。
 この年の最優秀選手は、セリーグが〝ミスタージャイアンツ〟長嶋茂雄で、パリーグは野村克也(南海ホークス)だった。

 誰がいいだしたのか知らないが、うまいことをいった。
 「権藤、権藤、雨、権藤」
 権藤の常軌を逸した連投ぶりを表現した比喩で、権藤が登板しないのは雨で試合が流れた日だけという意味であった。
 今日では、先発、リリーフ(中継ぎ、抑え)という分業システムがきっちりと確立され、先発投手の場合には、次回登板まで「中3日」とか「中4日」といわれるような間隔を置くことが当たり前になっている。
 そんな「近代野球のセオリー」から見ると、権藤の起用は常軌を逸した〝狂気の沙汰〟としか映らないが、当時はそうした考え方やルールなどなく、野球ファンも、「権藤は凄いな」「きついんじゃないか」「それにしても、タフだなあ」と、ただ感心して終わりというような時代感覚だった。
 そういう無茶な起用をされた投手は、権藤1人ではなかったのである。

 同じ年パリーグでは、西鉄ライオンズのエース稲尾和久が、404回を投げて歴代3位の投球回数を記録している。
 稲尾は、2年前の59年にも402回1/ 3回(4位)を投げており、「鉄腕稲尾」と呼ばれていた。
 日本球界最高の「400勝投手」金田正一は、国鉄スワローズに在籍していた55年に400回を投げて5位に入っている。
 歴代2位は、大洋ホエールズのエース秋山登が57年に記録した406回。権藤より投球回数が29回と3分の1少ない。この違いは大きい。

 権藤の直球は速くて重く、武器のフォークボールは打者の眼前で大きく沈んだ。
 面白いように三振の山を築き、〝日本のフォークボールの元祖〟杉下茂の再来といわれた。
 杉下は〝魔球〟フォークボールを駆使して、54年(昭和29年)のシーズン優勝を中日にもたらした立役者である。
 その年杉下は32勝し、三振奪取数は273に達した。

 権藤が新人デビューした年に奪った三振の数は、ベテランのエース杉下を大きく上回る310であった。
 「彗星のごとく」という比喩があるが、権藤博はまさに彗星のごとく現れた中日ドラゴンズの期待の星だった。
 
 権藤は、その期待に応えた。応えて余りあった。
 6月以降は、毎試合ベンチに入り、先発だろうがリリーフだろうが連投だろうが、濃人渉監督の命ずるままにマウンドに立った。
 「月月火水木金金」――権藤は、「勝つため」に監督にいわれるままに働いたのである。

 「権藤、これからは全試合でベンチに入るぞ。杉浦、稲尾もそうやっているんだ。おまえもやらなければいけない」
 国鉄スワローズと対戦して12勝目をあげた権藤は、61年6月4日に濃人渉監督からこう言い渡された、と「日刊スポーツ」の「20世紀伝説―公式戦4万6180試合の記録―」は書いている。
 そういわれて権藤は、どう思ったのか。
 「天にも昇るような気持ちだった。そうだろう。新人が、あの2人と同じ扱いをされるんだぞ。故障への不安なんてなかったよ」

 プロに入ったばかりの権藤にとって、杉浦や稲尾は〝雲の上の存在〟だった。
 杉浦忠は、立教大学で長嶋茂雄と同期である。58年に立教を卒業して南海ホークスに入団。下手投げのダイナミックなフォームから繰り出す剛速球と大きく曲がるカーブで、翌59年つまり権藤がプロに入る2年前には、38勝4敗という〝とてつもないない記録〟を残していた。

 この杉浦の記録を塗り替えたのが西鉄ライオンズのエース稲尾和久である。権藤がデビューした61年に42勝をあげるのだ。
 42勝は、伝説の名投手スタルヒンと並ぶ日本最高記録である。まさに〝鉄腕〟だった。

 濃人が権藤に放った言葉は〝殺し文句〟であった。
 当時の日本球界を代表するスーパースター二人と同列に扱われて、権藤は、
 「俺がやらねば誰がやる」
 「監督やチームメイトから寄せられる全幅の信頼に応えるのは当然」
 「俺がドラゴンズを支えているんだ」
 と意気に感じ、燃えたのだが、そこに〝投手権藤の誤算〟があった。

 「2年目のジンクス」も、権藤には無縁だった。
 61試合に登板、30勝をあげた。投球回数は362回1/ 3。防御率は前年より落ちたとはいえ、それでも2・33であった。
 
 その結果、2年間の投球回数は791に達した。
 1年が365日であることを考えると、目を疑いたくなる数字である。
 サラリーマンなら、2年間一日も休みを取らずに出勤していた勘定だ。残業、出張、休日出勤、接待……会社のために、上司にいわれるままに、身を粉にして黙々と働く〝エリート社員〟の姿が権藤にかぶさってくる。
 権藤は愚痴ひとつこぼさなかった。それどころか、やりがいがあると思っていた。

 しかし、どんなにタフであろうと、人間であることに変わりはない。
 酷使され続けた権藤の右肩は、少しずつ確実に壊れていった。権藤は、いっている。
 「肩が張っているとか、痛いうちは、まだいい。そのうち何も感じなくなる。投げると、そのまま肩が抜けて右腕が吹っ飛んでいくような気がした」

 肩の変調は、数字となってはっきり表われた。
 登板数が減り、投球回数も少なくなっていった。
 一年目は400回台だった投球回数が、2年目300回台、3年目200回台、4年目100回台と減っていき、5年目にはついに18回と3分の1しか投げられなくなってしまっていた。
 入団した年に1点台だった防御率が、2年目は2点台、3年目は3点台、4年目は4点台と毎年1点ずつ増えていき、5年目は11.00という信じがたい数字となった。
 勝ち星の数も、当然、減っていった。35勝15敗からスタートし、30勝17敗、10勝12敗、6勝11敗ときて、5年目は1勝1敗という成績しか残せなかった。

 あの〝スーパースター〟権藤と同じでないことは、誰の目にもわかった。誰よりも権藤自身が、そのことを一番よく知っていた。
 「引退」の二文字が権藤の脳裏を去来する。
 だが、スタープレイヤーの辞めどきは難しい。頂点を極めた選手になればなるほど、その引き際は難しくなる。
 長嶋茂雄、王貞治、落合博光……皆、辞めどきで悩んだ。
 一流選手になればなるほど、「過去の栄光に泥を塗りたくない」「満天下に無様な姿を晒すことはしたくはない」と考えて、余力を残し、周囲から惜しまれながら現役を引退する傾向にある。
 野村克也のように、三冠王までとっていながら、「生涯、一捕手」と割り切って、最後の最後まで現役にこだわった一流選手は珍しい。

 一流二流を問わず、プロの選手は、野球が好きで好きで、野球しかできないと思ってきたわけで、そういう人間にとって、生活のことも含めて、一日でも長く現役で野球を続けたいと願うのは当然のことだが、いつか必ず引退しなければならないときがやってくる。
 
 どんなに肉体を鍛錬しても、40歳まで現役ではいられないのである。
 ネームバリューのある一流選手の場合は、コーチとしてチームに残ったり、テレビやラジオの専属解説者として野球と関わっていくことができるが、そうでないほとんどの選手は、現役を辞めても野球に関わる仕事を続けられるかという保証はない。
 かといって、サラリーマンに転身できるほどの器用さも持ち合わせていない。

 権藤は、「一つでも多く勝ちたい。勝たねばならない」と考える監督の犠牲になったといえなくもない。酷使され、過労死したようなものである。しかし、権藤には悲壮感などなかった。あるのは「使われる喜び」であった。

 そして、中日ファンもまた、それを期待していた。
 当時中学生だったドラゴンズファンの私も、そんな一人だった。
 そういうファンの期待も権藤を奮い立たせ、監督にいわれれば条件反射のようにマウンドに向かった。

 権藤は、スパッと引退したのではなかった。
 投手にしては打力があったので、野手に転向したが、成功しなかった。
 そして引退した。
 ファンの目には悲痛・悲壮に映った。
 華麗なまま、投手として引退すべきではなかったかと、まだ少年であった私は思ったものだ。
 
 そして今、私は思う。
 「昭和30年代のスーパースター権藤博は、会社のいうまま、上司に命じられるまま、仮定を犠牲にしながら身を粉にして働き、ぼろぼろになり、その挙句にリストラされてしまった団塊の世代とそれ以前の企業戦士たちの哀しい姿とダブルものがある」と。
(城島明彦)

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